第十八章 夢とフィマの決断 5.二乗の嬉しさ
やがて、青年は地方の図書館の管理官として、赴任することになりました。その挨拶に、フィマはイアリオの下を訪れました。その時、彼女はクロウルダの研究書を読んでいました。ふいに扉が鳴ったので、慌ててそれを閉じました。どうして慌ててしまったのか、自分でも判りませんでしたが、親指は今開いていた箇所に挟まって、そのページはオグがエアロスの力で消滅したという三つの事件について書かれていました。ドルチエスト…マガド…クエボラという地で起きた悲劇です。オグは、自らの消滅を望むようになるのですが、彼の体は各地にいくつもあるために、その各々の身体が別々に終末を迎えねばなりません。トラエルの町にいる者はほんの一部なのです。でもそれが危機を望む時、迎える時は、果てしない強力な力が顕在化して、大勢の人間を巻き込む大惨事となることを、書物は切々と伝えていました。
扉を開けて、彼女に自分の新しい赴任地を報告しに来た彼は、生き生きとしていました。どこか、身を任せても安心なところがありました。彼の抱えていた悪は、彼のところにすっかり還っていました。もし、人知れず彼が抱えていたものを、彼が創り出した幻の母親を、ずっと彼が抱えていたことを、悪と呼べば。
「イアリオ」
青年は、下穿きだけでこの部屋に突っ込んできて以来、初めて彼女と会いました。
「ありがとう。あなたには感謝しなくちゃいけない」
深々とお辞儀して、その上ひざをついて、彼はじっとこらえるようにしました。この報告を彼女にすることは、その言葉どおり彼女に感謝を伝えることで、どうして感謝するかといえば、その意味で、それだけで、胸がいっぱいになることでした。彼は、床にひざをついたまままともに顔を上げられませんでした。
イアリオはニクトから彼が出世して新しい土地に行くことを聞いていました。多分その挨拶に来てくれたのだろうと思いました。
「おいで」
彼女は青年を祝福しようとしました。自分が彼よりうんと年上になって、姉のように抱擁してあげようとしました。しかしイアリオと青年の歳は、ほんの少ししか違っていませんでした。彼は、強く、歯を食いしばりながら、彼女に近づきました。彼女は彼を、うたうように抱きとめました。
「本当に、自分の弟みたいだわ。いいえ、もしかしたら、自分の子どものようにも思えるわ。変な形ね。あなたのこと、何でもわかるようで、何にもわからないのに」
「僕は、あなたに約束しなければなりません」
心地よい感触に喘ぎながらでしたが、彼は、はっきりと言いました。
「え、何を?」
「あなたの後見人になるのを、決意する約束です」
彼女は彼から体を離しました。
「何、それ?」
「どうして言ったらいいか、わからなかった。もしかしたら、それは老後の自分の親の面倒を見るのと同じような気持ちなのかもしれなくて。でもそれならこんなに早くから決めなくてもいいでしょう。イアリオはまだ若いのに。
でも、この国は他国からの移住者を厳しく制限しています。職業だって自由に選べるものではない。いずれ、あなたがこの国で暮らす用意を、僕は準備しなければならないと思っているのです。オルドピスは…あなたを、そしてあなた方を、迎え入れなければならなくなるのではないでしょうか?」
彼は、幻の影ばかりを追っていたのではありません。彼は、ずっとイアリオの背中に乗るものを観察していました。
イアリオは彼が言ったことを考えてもみませんでした。なぜならオグと、自分の町の歴史にまつわるものにかかりっきりでしたから。ですが、いずれ自分の町が破滅したら、後に残る生存者たちはどうすればいいのかと、彼女は初めて思いました。それを考えることは、とても自分の身の丈には合わない大きな問題だと感じましたが、なるほど彼の言う通りであるとも思いました。
そして、つと自分が彼やニクトに何かを任せたがっていたことを思い出しました。こんな異国の地で、異国の人間に何を求めるのでしょうか。彼女は一人きりで町を出て、一人きりで調べものをしようとこの国に臨んだのです。たった一人で。それはすっかり覚悟の上で、誰かにものを頼むとしても、その目的はたった一つでした。彼女は命懸けでした。誰かに任せられることなどその一つの目的のため以外に考えられるはずがありませんでした。しかしそうではありませんでした。
そうではなかったのです。彼女の町は、異国によって守られていました。彼女の町の下に眠るオグという怪物も、異民族によって監視されていました。彼女の町は、外側の世界とずっと関係していました。手を取り合っていました。彼女もまた異国にその身を引き受けられました。協力者が現れました。彼女はいつのまにか目的を果たすために自分の周りに環境を整えられていました。彼女はこの国に自分がいることを許されたのです。
あの町は、今も変わらずあの町たらしめているのは、自分たちの力だけによるものだと固く信じていました。ですが、そうではありませんでした。そうではなかったことに、あの町は、気づいていたでしょうか。イアリオはあの町の先を見通せました。それは、まるごとあの町を見守り続けてきた、大国にそっくり身を預けることです。今の彼女がそうであるように。
そして、彼女は、その身の上をまるごといつまでも大国の懐に預けておくこともできませんでした。彼女は今国賓として迎えられていますが、そうしたことは、長く続かないでしょう。もし、彼女の町が滅びたら、その後彼女はその町のただの一員としてこの国からは見られるのです。今の特別な身分は剥奪されるのです。
しかし彼女はそうならないような気がしました。特別な身分ではなくなるでしょう。また自分が生き残る保証もありません。いずれレーゼとハリトと約束したように、あの町に帰るとすれば。彼女は向き合うためにあの町から出て行ったのです。いいえ、戻っても、向き合うのです。向き合い終わった時のことなど、自分のことなど、彼女は考えられませんでした。どうなるかわからない自分の身の上など、誰かに任せられるものではありませんでした。イアリオはそれほど自分を信じたかったのでしょうか。向き合いおおせた後のことなど、生き延びた後のことなど!いいえ、彼女は、未来を何も考えていませんでした。未来と過去から、現在に働き掛ける諸々の力だけを感じていました。その諸々の力が、未来にも伸びた場合に、どんなことが起こるかは考えられました。その力が及ばないことまでは、まったく分かりませんでした。
その力が及ばないことを、彼女は誰かに任せようとしていたのです。あの町が破滅すれば、彼女が感じてきた力は、おそらくすっかり収束するでしょう。破滅に向かって、その力は動いているからです。数々の書物にあたって、クロウルダの本も十分読み進めて、イアリオはそこまで見通すことができるようになりました。あらゆる過去を辿って、自分の町の来し方を調べ尽くしたからでした。吸収した知識はその血肉となりました。不安だったことは客観性を持ってその手に乗せられるようになりました。彼女はあの町に強い時間軸を差し込んで眺められるようになったのです。
そしてあの町と、自分の将来も見通せる目を持ちうるようになったのです。彼女は自分の身請けを誰かに頼むことになると予感しました。彼女はたとえ自分が生き残っても、あの町の人間として依然町人たちと暮らしていけるようにはならないと思いました。自分だけが町を飛び出して、町の歴史をすっかり調べ尽くしたからです。彼女はもう町の人間と自分とは相当に違っていると思いました。ああそうか、と彼女は心の中で膝を叩きました。
「不思議ね。うん、そう、私もそう思っている。だけど、どうなるかわからない。それに、私の国の事情も知らないあなたが、どうして私が移住すると考えているのかしらね?」
「どうしてでしょうね。僕は、あなたの背中をずっと見ていました。あなたが、僕に何かメッセージを伝え続けていたとしたら、こんな感じなのかもしれないとは思いました。ニクトのこともそうでした。あなたはこの国で味方が欲しかったのではないでしょうか?もしそうではないなら、あなたは孤独に遠方に来て調べ物をしてはいない気がするのです。じっと耐えるように、ほら、今も何か背中に背負っています。何でしょう。ニクトには見えない、僕だけに見えるようですが」
イアリオははっと鋭く青ざめました。そして、自分の背中に乗ったものを彼も見通せるということに、ひどくフィマに対する信頼を呼び起こされました。
彼女は自分がニクトとフィマに会うべくして会えたと感じました。替え難い出会い、特別な邂逅を、二人にしたのだと思いました。レーゼとハリトもそうでしたが、彼女は、自分が頼り甲斐のある相手をここでも見つけられたのです。安心して、自分の目的に邁進することができるような。自分がそうすることを後ろから、支えてくれるような。彼女は嬉しさに満ちました。
「縁があるとは思ったけれど、味方、か。嬉しいわ。私はあなたの労働力を買おうとしたことがあったね。それは、ニクトと相談した上でだったけれども、あなたの力が私にとって必要になる時が来るとなぜか、どこかで感じていたからだった。今、それがはっきりとわかったね。ありがとう」
彼女は率直に感謝を伝えました。
「おかしいね。あなたが自分の子どもみたいだって、言ってしまった。おかしいけれど、それくらいのつながりを感じるの」
フィマは恥ずかしそうに、ゆっくりと唇を開きました。
「僕は、いや僕にとって、本当にあなたは母親のようです。これもおかしなことです。だから…あの…一度だけ、あなたをそう呼んでもいいですか?」
「え、何て?」
「『お母さん』…」
そう言った後、青年の目に涙が浮かびました。言ってみて彼はすぐに後悔しました。目の前の女性は、まったく母親ではありません。それに、こんなことを言うために、彼は彼女に挨拶に来たのではありません。彼はあの時のように情けなく彼女を頼りました。
「一度だけでいいの?」
彼女はそこまでの機微を彼の心に読み取ったのではありません。
「もう一度、呼んでみて?」
ですが、そう言いました。
「え?」
フィマの前に、凄く魅力に満ち満ちた女がいました。彼はまた相手が誰だかわからなくなりました。しかし彼は、今自分が幸せだと感じました。この人の後見者となる、という彼の自分勝手にもまったく思える決意は、確信に変わりました。
彼は、自分に決断をしました。
「お母さん…」
彼の二度目の呼びかけに、イアリオは笑いました。とびきりよい声で、高らかに。空も突き抜ける感じで。




