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破滅の町 (分割版)  作者: keisenyo
第二部 後
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第十八章 夢とフィマの決断 4.肯定

「今まで付き合ってきた人間…その中で、いわゆる美人と言われるような人は、確かにいた。器量のいい人間もいた。だが、なぜ僕の心が揺らがなかったのだろう」

 暗黒の帳が下ろされた深夜、青年フィマは蝋燭の灯を見ながら呟きました。

「あの人は美人かもしれない。少なくともグラマラスだ。そして、気の利き方も、申し分ない方だろう。そんなことはどうでもいい。そんなことに僕は惚れたのではない。僕は…あの人の…」

 フィマは、一目惚れしたイアリオの殺害を計画するほどまでに追い詰められていました。どうせ自分のものにならないなら、そうするまでだと考えたのです。彼は司書の仕事をなんとかこなしながらもイアリオの姿を追い続けました。街中で彼女を偶然見かけた時に、彼はそのあとをついていって、彼女の住まいがどこにあるかまで調査していました。彼女はほとんど部屋から出てきませんでしたが、彼は毎日その部屋の前に通い、彼女が出てきたところをつかまえることもよくできました。オルドピスの兵士たちも彼の邪魔をすることなく、遠くから見張っているだけでした。

 彼は、一度彼女を押し倒したことがあります。イアリオが大事な書物を抱えて部屋から出てきた時、彼が居合わせて、その重たそうな本を持ってあげようとして手を出して、二人とも引っくり返ったのです。彼女の、淡い色の瞳が間近に迫りました。体の匂いが、自分を包みました。そして、幾箇所か彼女と体が触れ合いました。彼の欲情はその時にはじけようとしましたが、彼女はまるで子供を扱うように、彼の髪をくしゃっと触り、微笑みかけました。

「なぜ、あの人は、そんなことをするんだ。どうして、僕は、受け入れられないんだ。いいや、僕は…そうだ…僕は…」

 それで、彼はイアリオを殺すしかなくなりました。彼がどんなことを思おうとも相手はそれをいなし、また吸収して、彼に充足を与えてしまうからでした。彼の手は絶対に彼女に届かず、想いは遂げられぬことを、むしろ突きつけてきたのでした。

 彼は自分が社会にしっかりと貢献していることをあまりよく意識しませんでした。彼の優れた能力は頼りにされて、その将来は司書以上のものになるとも期待が掛けられていました。それ以前から、彼は人の役に立っていたのです。ですが、彼の持つ自画像は、ずっと曖昧なままでした。彼がそれまでそれでいいとしていたものは、まるで全部、イアリオの前では無意味なように思えました。彼は彼女に太刀打ちできませんでした。彼は本当は幸福でした。その背景にそれなりの不幸が潜んでいても。彼はそれを知りませんでした。彼は自分を知りませんでした。その時彼はまるで生まれ変わろうとしていたのかもしれません。いいえ、生まれた時からやり直そうとしていたのかもしれません。イアリオを通して。

 彼女に偉大な母性を感じ、まさに求めていたものがそこにあると分かり、彼はやり直しを自分に求めざるをえなかったのかもしれません。しかしその衝動は、あまりに激烈でした。彼は刃物を研ぎました。血を見たくなりました。彼女を生かしておくわけにはいきませんでした。それは彼女が生きている間ずっと

 彼は幻の母親を求め続けねばならなくなるからでした。

 …事件は未然に防がれました。ニクトが、彼のベッドに忍び込み、性交を求めてきたのです。少女は今こそ彼を賭けて己を懸けて勝負しようとしました。勝負の相手に、彼女はイアリオを選びました。

 もし、彼がそれを拒めば、彼女は破滅したでしょうか。彼にニクトを抱く理由はどこにもありませんでしたが、いざイアリオに決戦を挑もうとしていたのは彼も同じで、裸のニクトを前にして、彼もまた昂っていました。ですが彼は、目の前の相手を混乱した面持ちで眺めました。彼はその相手がニクトだとよく分からなくなっていました。イアリオとは別人だともよく分からなくなっていました。彼は誰を相手にしていたのでしょうか。幻の母親は誰に宿るものだったでしょうか。今まで彼を抱いた女たちにもその像がなかったわけではありません。小さな頃から彼を世話してきた人々の中にも、そのような幻像はなかったわけではありません。彼の股間は著しく勃起しました。誰かに慰められねばならぬその欲動は、今まで慰められてきたはずなのに、収められたく発情しました。その欲動こそ彼はイアリオに向けたいものでした。しかし、なぜか、吸い込まれるように、ニクトのまだ硬く柔らかい肌を、そのぬくもりの中を、それは目指しました。彼はニクトを犯しました。彼の見つめる目に少女の顔は映っていなく、熱々と燃え滾る下半身の欲望こそ彼の全てを覆っていました。ですが、少女は笑いました。その笑いは、決してイアリオから彼の心を奪ったとか、賭けに勝ち得たというものではありませんでした。それまで彼をよく見ていた彼女の目に映った、本当の彼を、そのからだに受け入れて受け止めてあげられた、という、満ち足りた愛の笑いでした。

 彼は、呆然と犯した相手を眺めました。そして、今しがた自分は犯罪にも等しいことをしてしまったのを自覚しました。彼は、ベッドから悲鳴を上げて飛びすさりました。彼は、部屋を飛び出しました。誰か!誰か!誰か!自分を罰してくれ。今すぐ自分を懲らしめてくれ!

 彼の体はかっかと熱く、彼の頭脳はすっすと冷めて、どこもかしこもぎんぎんに痛くなりました。心と体が絶望を求めました。彼は自分がどのように自分の妹を見ていたかも気づいていなかったのです。自分の、本当に大事なものとして、いかにニクトをはぐくむ愛の目で見守っていたのか。

 彼のその想いは相手に伝わっていました。それが伝わっていたから、少女は彼を求めたのです。花火が咲いて、散りました。綺麗に上がった花火は、どこまでも美しく光を広げ、夜空に神々しい余韻を残しました。突然、彼は立ち止まり、今までのことを反省して、思い出して、息を整えました。彼は下穿きを穿いていたものの、下半身に付いた血を拭うのを忘れていました。血はできた花束をそこに添えました。誰に対して?それが彼に付いているのですから、彼に対して。上半身裸の彼は、オブジェのようにそこに佇み、いにしえからそこにいたように硬直しました。その立派な石像は、壊されるのを望みました。

 彼は吐き出される息を呑み込みました。どうすればいいのかわかりませんでした。彼は気づきました。部屋から出て、家からも出て、気違いになって走り回った先に、イアリオが住まいを借りている邸宅の前まで自分が来ていたことに。彼は恐ろしくて身が竦みました。彼は自分の部屋で今まで、彼女を殺すために色んな用意をしていました。その

 すべてを置いてきて、今、自分はまるであの人と会うためにここへ来た。彼は罰されたく思いました。妹をこの手にかけた罪は、何よりも深く感じていました。彼の心は彼の手を掴みました。あの人に会いに行くべきではないと引きました。彼の手は

 前に進みました。その手が付いている体が、前に向かって進んだからでした。彼の心は真っ白になりました。もう何も考えられなくなりました。

 青年はその人の部屋に入れました。夜は、もう更けていました。ガラスの容器に入ったランプが、煌々と明るく部屋を照らしていました。その人はまだ起きていました。これからまた見るだろう夢を、見るための準備をして、物思いに耽っていたのです。

 青年はノックもせずその部屋に入りました。相手は、いきなりの訪問に、動揺する素振りもなく、ただ自然に、彼を見てにっこりと微笑みました。

「どうしたの、フィマ?」

 イアリオにとって、フィマはもうすっかり弟のような目で見るようになっていました。あまりに彼を心配するニクトから一々彼について聞いていましたし、彼に自分が惚れられていることは分かっても、その惚れ方は、可愛らしいものに映るようになったからです。彼女は彼と健全な関係を結びたいと思っていましたが、そうするには無理があるとどこかで感じました。主従のような関係性を彼は結びたいと言いましたし、それは、どうも姉と弟のような年の差のある上下関係に感じました。だから、彼に対して彼女は警戒しませんでした。彼はあくまでニクトの兄で、そのニクトが想いを寄せている、本当は頗る善い人間であることを知っていたからでした。

 ですが彼にとってはその解釈も、彼が本当は善い人間であるということも、違いました。彼は幻の母親をこそ求めたのです。しかし彼は本当にそれを望んでいたのでしょうか。いいえ違いました。彼は、跪きました。彼は幻の母親に向かって深い悔やみを口にしました。

「僕は、たった今とんでもないことをしてしまったんです。どうか聞いてください…!」

 彼は一所懸命に話しました。彼は唾を吐きながら一心不乱に打ち明けました。イアリオは、最高の集中力と姿勢とで、彼の話を聴きました。まるで青い稲妻が二人の間を行き来しました。びりびりと互いの皮膚が、痺れるようでした。

 誰か、傍にいれば、こうして自分の犯したことを、告白できるものでしょうか。そうして見えなかった殻を、突き破れるものでしょうか。

「僕は、ニクトを愛していたんです。それは家族として、愛していたんです。可愛い妹として。だから、なんで自分がこんなことをしてしまったか、理解ができない!説明がつかない!いたずらに小さな体を好き勝手に貪って、僕は大変なことをしてしまいました。取り返しのつかないことを…」

「でも、よくよく聴いてると、あなたの話じゃ、ニクトは自分から来たじゃない。あなたが、彼女の部屋に押し入ってしたことじゃない」

「関係ありませんよ。関係ない。そういったことが問題ではない。わけのわからない衝動が僕を襲ったのです。それはあなたに…いいえ…別の方向を向いているものだった。なぜ彼女が、あのタイミングで僕の寝床に入ってきたのか!そして僕は、どうして見境なく彼女を犯してしまったのか!ああ、僕はどのようにして、その償いができるんだろうか。どんな償いもかなわないくらいの罪を僕は犯したのです!そうだ。僕は…」

 本当はあなたを犯そうとしていた!本当はあなたを殺してしまおうと思っていた!ニクトにしてしまったことを、僕はあなたにするのを夢見ていたのに!彼は、自分の花束を彼女に向けました。

 しかし、その花束は彼のものでした。

「あなたには見えなかったかもしれないね。相手の心も、抱いた体も」

 イアリオは、ゆっくり、時間をかけて言いました。

「けれどあなたは、その人を抱いた。それがどれだけの意味を持っているかしら。後にじゃない。今にじゃなくて、その時に。抱いた時に。ニクトはどうだった?

 あなたにまるで、犯されて、悔し涙を流してた?」

 彼は、唾を呑み込みました。

「喜んでました…嬉しそうに…」

 彼は、思い出しました。ニクトが、事後に彼に向かって両手を差し出していたことを。嬉しそうに。幸せそうに。彼はその時彼女の表情を

 見ていませんでした。行為の最中も、彼はずっと、幻の誰かと続けていました。

「じゃあ、受け入れていないのはただあなただけね。そして、本当はあなたこそ幸せなのに、わざわざ罪を作る必要はないってわけだよ。

 よかったね。おめでとう…!」

 彼女は椅子からさっと立ち上がりました。彼女の、長い腕が、彼を上から優しく抱きとめました。年下の弟を慰めるように、愛おしく、彼の頭をかいてやると、青年は落ち着いていきました。弾んでいた呼吸がじっくりと穏やかになっていき、心臓の鼓動も緩やかに静まり、両目もとろとろと溶けました。青年は力を失ったようでした。それまで漲っていたはずのいびつな力は、どこかへと掻き消えていきました。彼は立ち上がって、彼女の部屋から出て行きました。そして、自分の部屋で待っている、彼の大事な妹のところまで帰りました。

 彼は、妹の前で言いました。

「さっき、イアリオのところへ行って、自分を告白してきたよ。大変なことをしてしまったって。そしたら、彼女は、よかったね、て言ってくれたよ。どうしてだろう、あの人は大きいな。僕が立ち上がれないくらい、大きいな」

 彼は大粒の涙を零しました。涙はどんどん溢れていきました。めそめそと泣く彼の傍らにずっとニクトはいました。そして、言いました。

「愛しているの」

 フィマは、少女を向いて、答えました。

「僕もだよ」

 少女はにっこりしました。少女の目が初めて濡れました。

「やっと見てくれたね、私を」

 フィマは黙り、ニクトの髪をかいてやりました。すると、ニクトは目を瞑り、子供のように、恋人のように、成熟した人間のように、その感触に身を委ねました。フィマは神秘的なものを見るように少女を見つめました。そして、今まで彼がしたことのない、笑みを浮かべました。あらゆる骨が緊張を解き、あらゆる言葉が自由自在になったような、そんな水のような彼になりました。人間としての彼が、そこに現れました。

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