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破滅の町 (分割版)  作者: keisenyo
第二部 後
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第十八章 夢とフィマの決断 3.自慰と夢

 フィマは、女と寝るとき、勿論、自分の子種を外へ流していました。そうするように言われていたし、そうする以外になかったのでした。男と女が関係を結ぶ時、ある覚悟が、両者の間で沈黙のうちに了解されます。互いが好きだという感情が、物語を紐解くのです。ですがフィマの物語は、他人の中にありました。彼自身のストーリーは、彼が紡ぐものではありませんでした。彼は育てられてきたのです。彼の意思で、育ってきたのではなかったのです。

 顔面ほっそりとしていてもてる彼は、苦もなく日常をこなしていたはずが、初めて、イアリオと会って今までの生活を超えた環境に自らを突っ込んだのです。それは地獄のようであり、でも、満足のある非常な充実を彼にもたらしました。彼を見た人は、彼を人が変わったと見ました。いつも気もそぞろに変わったと。ですが、その時人は、彼の中に変わらぬものを見たでしょうか。彼の相手をし、彼と交わる時も、自分の言いなりになるもののそれが彼の充足にならなくなった、彼を見て。それでも彼を相手にする人々には彼が大事でした。彼のことがずっとかわいかったのでした。

 彼の暗い想念が、イアリオを包もうとしていました。しかし、そこには彼だけの想念があったのではありません。彼が求めたのは絶対の支配と従属でした。それはどちらがどちらを背負ってもいいものでした。まるで母親と子供の関係、そうでなければ、主人と隷属者の。彼女は彼を放っておくことをしませんでした。適当にあしらってはいましたが、彼が、ニクトの想い人である以上、自分との関係も深まるものだと感じました。彼女はできれば彼とちゃんとした交流を結ぼうとしました。その意図は、彼にも伝わるものがありましたが、彼はそうはできない自分の感情に振り回される必要がありました。

 彼は繰り返し彼女に自分を求めました。その度に彼はいつも何かに包まれました。大きく広がった柔らかい毛布のようなものに。それは

 彼が皆から見られていたその視線だと。彼を可愛がる人々の想いだと。彼のからだは気づきません。当たり前のようにそれはある。気づく必要などないものだったから。ですがその当たり前のようにあった環境は、彼に気づかれることを望みました。なぜならそれは彼だけにある特別な能力ではなく、生まれた時から彼が所持せざるをえなかった、彼に用意された彼の人生だったからです。彼は彼自身だけでできているのではありません。彼を包んだ、大勢の人間の想いからもできているのです。それなのに彼は今まで彼だけで、世界を生きていたのです。本当の彼はどこまでも彼一人だけで生きていることを、彼は、気づく必要がありませんでした。

 偽りではないその人間関係を、ある女性を通じて、彼はみずからつくろうとしました。まるで小さな子どもが砂や粘土で周りにあるものを模ろうとするかのように。そして彼は、子どものように(わめ)かざるをえなくなりました。どうして自分の思い通りにならないんだ。僕がどれだけあなたを大事に想い、自分のすべてを捧げようとしているか、これだけ伝えているのに!彼の言うことを聞かない相手を彼は、次第にどんよりとした目で見つめるようになりました。いつか犯して自分のものにしなければ、その相手は自分のものにならないんじゃないかと、彼は思い詰めた思考に囚われていきました。彼は、まるで雲のように、自分の実体を持てずにあがきました。

 小さな鈴が、小さな音を出して、彼の懐で振られました。そのくらいなら、幼くてもできるといった風に。音は、必死に出されました。

 その音を、イアリオはしっかりと聞いていました。彼女は根っから教師でした。彼は堪りませんでした。いかなる音も、どんなに気づかないような微音も、自分から出しているものであれば、その女性に聞きとめられてしまうのを感じたからです。懐で鳴る小さな鈴の音は、本人にはあまりにせわしく、汚く、ひび割れて聞こえていました。ぎざぎざしたのこぎりの刃のように鳴り響きました。彼に危機が迫りました。彼はとうとう、ものを壊さねば耐えられないほどになりました。しかし彼に何が壊せるでしょう。

 彼の本当に望んだものは、何だったのでしょう。


 その頃から、彼女は夢を見るようになりました。イアリオは、普段はほとんど夢を見ないたちでした。ですが折々見る夢は、どれも印象深く、彼女自身の変化の起点となる時に見ることがよくありました。十五人の仲間たちと一緒にたくさんの死骸に出会った後でも見ましたし、この国に来て読書を始めて、その徹夜をやめた夜にも、夢は現れました。

 この時に見始めた夢は、帆船の多く行き交う港の風景でした。そう、この期間に彼女はまとめて見るように夢を見ていました。夢は連続して、前後のつながりを覚えながら毎夜見るほどだったのです。しかし、それまでイアリオは一度も海を行く船を見たことがありませんでした。もしかしたら、川に浮かべられた舟を(それは帆も張ることができた)、オルドピスの書物に出てくる海洋の地図と船の記述とを元にして、想像の海に壮大なパノラマを思い描いているうちに、合体させただけなのかもしれません。ですが、帆船も港の風景もまるで見たことのある光景のように真に迫っていて、彼女はそこに、かつて自分が生きていたかもしれないほど生々しい実感をもって夢の世界を歩いていました。彼女は港湾に誰かを迎えにやって来ていました。どうやらそれは彼女の父親のようでした。ひげを生やした、船乗りです。

 彼女は夢の中で少女でした。白い衣服を着て、盛んに手を振りました。すると、マストから大きな声で、彼女の父親が応えました。波が大きく船を揺らし、船体が大きく傾きました。イアリオはこの夢を目が覚めた後もいつまでも覚えていました。そして、その続きを毎夜のように見るようになったのですが、夢を見ることと同じように、彼女は今まで頻繁にすることがなかったようなことも毎夜し始めました。それは、自慰でした。

 自慰の相手は、レーゼでした。

 夢は、しばらくは少女の家庭や、学校の人々、印象深い港の労働者たちを映しましたが、やがて、少女は大人と同じ背丈になり、恋人と船に乗り合いました。彼女は船上で男と婚約を交わしました。幸せな時間が彼女と男を包みました。そして、夕日を背景に、二人は抱き合いました。すると、けたたましい鐘の音が鳴って、甲板が大きくかしぎました。座礁したか、あるいは流氷に追突されて、彼女たちは海に振り落とされました。イアリオは、その夢の中で自分だけが転覆した船から生き残ったことを、浜に打ち上げられて気づきました。

 彼女は、自分のあまりの不幸を呪いました。心を閉ざし、その後自分に寄ってくる男たちを悉く退けました。未婚の処女は、そのまま最期を遂げました。その最期まで、夢は彼女の人生の一節一節を紡ぎ、彼女に幸運は訪れなかったことを教えました。何でしょう。その夢を見終わったその時に感じたものは。イアリオは、なぜか、初めて自分の来し方に確信を持ったような気がしました。不思議な納得を感じました。あの夢のような経験は現実にはしていないのに。それは話に聞いたことのあるようなだけの、誰かの不幸に過ぎないのに!確かに、彼女の町で語られてきた海を嫌悪するよう仕向けられた昔話に、その女性のような物語は出てきたかもしれません。それに彼女は、書物を通して、彼女の町の、そしてクロウルダの歴史を遡っている最中でした。夢と現実と空想が、どこか融合して、感覚の中に溶け合ったのかもしれません。ですが、それからも見続けたたくさんのどの夢も、朝方目覚めればそれと同じような奇妙な実感を届けてきました。

 夢は、はじまりと、おわりを用意しました。まるで何冊もの小説を読み解くかのように、彼女は夢を見ていきました。それが何ヶ月も続いたのです。そして、その都度彼女は自慰行為に励みました。

 ある時、青い空が、彼女の夢の中に現れました。その色はとても濃い青で、まるで海の底を覗いているかのようでした。天と地が逆転しました。彼女は、白いスカートを翻して大地に立っていましたが、真上に落下していきました。すると、頭上の空の中に、ぽっかりと穴が、黒々と開きました。彼女はそこに呑み込まれました。突然、大きな怪物が、目の前に轟然と出現しましたが、よく見ると、その顔は彼女でした。膨れ上がった体つきは、今の身体をもっとよく肥えさせて不健康にすればなれるかもしれない体でした。怪物の彼女は怯えていました。今にも消えそうな予感に、ただただ、震えていました。

 彼女はまるで自分とは別人の夢だけでなく、自分の小さい頃も思い出すようにそこに見ました。彼女はピロットとテオルドの、三人で遊んでいました。三人は小さい頃に戻り、町から北の、山脈の西端にある亡びた町跡に来ていました。彼女の町が、守備隊の拠点にしているあの史跡に、実際に子供らは大人たちに連れて来られていました。成人したら彼女たちもまた、ここで働くかもしれないからです。イアリオは、この不思議な史跡を子供の頃隈なく見ていました。すっかり好奇心が湧いたのです。彼女と同じく、ピロットもテオルドも、目を輝かせてこの辺りを回りました。すっかり磨耗した壁は、焚き火の煤で焦がされていて、絡みつく蔦の色は、茶色と緑色が混合し奇妙でした。壁に赤い目印が塗布されていて、その前に立ち丁度建物の天井と空との境目に目を凝らすと、峠道の頂がそこから見通せました。こうした記憶が、そのまま彼女の夢として現れていました。イアリオはテオルドを嫌いだった感情まで夢の中で思い出しました。それは、彼女が能動的に動き回り、ピロットと一緒に石壁によじ登ったり落ちていた棒切れを振り回したりしている中で、彼だけ研究者ぶった目つきで、史跡をじろじろと見続けていたからでした。彼を自分たちの遊びに誘うも、テオルドは忙しいんだと言って手を振り払いました。彼女は彼に拒絶されたように思い、それ以来自分とは絶対に合わない性格の人間として彼を見るようになったのです。しかし、彼女の目には、テオルドはピロットに憧れているように見えました。彼は時々視線を眩しげにピロットに向けていました。彼は、非常に孤独そうにも感じました。

 いいえ、彼女が幼い頃、イアリオはそこまでテオルドを観察していたのではありません。夢の中で、改めて見た彼の雰囲気が、そのように見て取れたのです。

 そのまた別の夢で、彼女はまったく奇怪な景色に出くわしました。断片的な自分の姿に、自分が取り囲まれている景色でした。辺りは闇の中でした。周りに浮かぶそれぞれの自分の姿は、彼女が抱く自分のイメージのようでした。ただただ彼女がたくさんいて、イアリオは気持ちが悪くなりました。ついには吐き気が止まらなくなって、彼女は口から何かを吐き出しました。すると、それは色を持って、形を持って、立ち上がりました。それは勝手に動き出し、断片的な彼女のいずれかと入れ替わりました。

 あまりに夢が連続したので、イアリオは毎夜見るそれに注目せざるをえなくなりました。同時に、自分は何者かという疑念を強く抱くようになりました。

 その上、毎晩自慰に身を委ねました。その間に思い描くのは彼でした。それは邪まな思いでした。彼女は彼に、その結婚相手を自分から薦めていたのです。彼女も愛したあの娘を。そしてその娘の伴侶となる男を、あろうことか横から恋慕したのです。彼女はあまりの苦しさに喘ぎました。積極的で、前向きで、子供たちの教師であった彼女の面影はここにはありませんでした。

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