第三章 死者の骸 2.ピロットとイアリオ
外では雨が降り出していました。突然の大雨が屋根を打ち、遊んでいた子供たちは皆屋内に引っ込みました。地下世界にその雨は届きません。わずかに開いたドームの間から降り込んでもちらちらと散ってしまいます。この街にも水道の整備はあり、三百年前の機構が生きて、水を井戸などに流し入れていましたが、人工的に水を運ばなければそこは満ちませんでした。地下には霧の形をした魔物が棲んでいました。オグです。彼はさまざまなかたちを取りますが、今はぼんやりした白霧に化けておりました。
盗賊のトアロとアズダルが鐘楼塔の高台に登ってこの様子を見ていました。霧は、ゆったりと彼らの侵入してきた神殿の方から流れ出て、街中にはびこりました。トアロはこの景色を眺めて、背筋が寒くなりました。あの霧が、生命持つ意思の存在だということに気がついたからです。
「あの霧に触れちゃ絶対にいけないぞ?」彼女は小声でアズダルに注意しました。「あれこそ魔物かもしれない。確信はないが、危険なものを感じる」
アズダルもうなずきました。二人は一度外に帰って、付近の村に逗留しました。トアロは所持している書物を紐解いて何度も目を通し、必要な情報を再度確かめました。彼女がメモに写し取った、クロウルダの町や、オグについての記述も読み返しました。
「なんでも、あの化け物は人間の悪意の総体らしい。近くに人がいれば、そいつを喰らい、とりこにして、自分の代わりに悪を働かせるのだという。水辺を縫って進む習性があり、その姿は鯉、鳥、蛇、実態のないものに変化するのだ。ある町はこいつに喰われて人間が狂いだし、互いに破滅しあったということだ。悪は、人を惑わし、本来の生活をおびやかす。命を狂わせ、衰弱させる。やがて破滅が訪れる」
トアロはぞくぞくとした悪寒に苛まれました。何度腕を擦っても、その寒気は取り除くことができませんでした。
「もし、あの霧がその魔物ならば…!て、確かめる手段はないのだがな。こっちが破滅しちまう。だが、ぐっと私の推測が現実のものだということができるようになるのだが」
「トアロは、冒険家だと思っていたが、その実は歴史学者じゃないのかい?」
アズダルが訊きました。
「ハハ、そんな運命も残されてもいいのかもしれないな。生まれ変わったらぜひそうなりたいものだよ。今世じゃ無理だ。私は、根っからの盗賊に生まれついてしまったからな」
霧は、子供たちのいる区画にも忍び寄りました。その脚は結構速く、流れる川のごときでした。人々の怨念が渦巻いています。それでなくとも、この街には人間の欲望が残滓を残して、ピロットに張りついた霊のように、処々にぼんやりと悪霊も住まっていました。いいえ、それだけではありません。もっと激しい、もっと力ある怨霊も存在しました。ここにはオグ、亡霊、悪霊どもがひしめきあっていたのです。
子供たちはそうとは知らず、彼ららしい活力でもって暗闇を切り開いていました。ラベルに選ばれた四人は早速大屋敷に向かいました。彼らは一階の広間はアツタオロたちの調査域でしたので、二階の住居の方に行きました。三人と目を交わし、大階段を上っていきます。石段は重厚な古さを温存し、質素なあつらえはこの屋敷の持ち主の鈍重さか、もしくはセンスの良さを思わせました。
階段を上りきると、ぱっと違った風景があらわれました。欄干に掛けられたのは様々な意匠の掛け軸で、統一感がありませんでした。床石には絨毯が敷かれ、虎の文様が施されています。それこそ豪華絢爛といった刺繍で目がちかちかとしました。これを見たハリトはうんざりした顔でした。彼の最も嫌う、装飾に凝ったけばけばしい物だったからです。しかし、彼は廊下の壁に掛かる額の絵を見て、目を輝かせました。紙に描いた絵は上の町にもあり、ハリトはそれがいくら色あせても飽きずに見るほど鑑賞が好きでした。彼は将来は絵描きになりたいと思っており、紙は貴重品なので絵を描くとすればまだなめした厚手の葉の上や石版や地面に描くくらいでしたが、色のある石や葉などを細かく砕いて水に溶かし、筆も自分で用意して本格的に取り組んでいました。ハリトは、地下にこんな立派な絵画が存在するならば、どうしてもっと早くここに来れなかったのだろうと、唇を歪め悔しがりました。しかし屋敷の壁に掛けられた絵は絵の具がいたるところはげ落ちていて、状態は悪いものばかりでした。ですが、絵描きの彼にはわかります。どれだけの価値がそれらにそなわっているのか。どれだけの技術がその絵たちに施されているのか。筆致、盛りつけた絵の具、構図、色、様々な要素がまとまりを持ち、その価値のほどを小さな絵描きに見せつけていました。それほどの絵画がここには掛けられていました。
さて、美術品などに興味のないほかの三人はさっさと行ってしまいました。彼らは不思議なものを見つけました。ガラスケースに収められた数々の蒐集品を眺めたのですが、硝子を知らない彼らにとって、物の手前で炎の明かりが反射する様は、奇妙で不安な光景でした。ピロットがケースに触れようとしているのを見て、イアリオは慌てて止めました。これは十五人で取り扱いを考えた方がいい、そう直覚したのです。彼はおとなしく引き下がりましたが、また、しゅうしゅうと湿った蒸気の音が、彼の喉元から漏れ出しました。そのとき何かイアリオの足元を横切りました。彼女ははっとして床を見ましたが、通り過ぎたものの余韻がどことなく続き、彼女は注意深く周囲を観察しました。四角い窓の外から、まろやかな色の霧が遠くから忍び寄ってきているのを彼女は見ました。口笛らしき音も霧の側から聞こえました。ピロットも同じことに気づいたらしく、二人で目を合わせました。
「肝心の黄金は、この屋形のどこかにあると思うか?」
ピロットが尋ねました。
「ううん。でも…見たことのないものがあったわ」
彼らは同い年の幼馴染でした。少年は野性的な悪童で、周りの者をいじめ手を焼かすのに長けたおよそ子供らしくない子供でしたが、少女はそんな彼に魅力を感じていました。自分自身に好意などなかなか持たれたことがない少年にとっては、彼女の存在もまた貴重でした。彼は、彼女を無視できませんでした。何をしても、彼は彼女にとって許される自分だったと、どこかで理解していたのかもしれませんでした。
それは二人の会話でした。そんな会話を、二人は誰ともしたことがなかったのです。二人は十二歳…この時、成長の早さで勝る、少女のほうが、おそらく自分の気持ちに早く気づいたでしょう。
テオルドは、廊下の隅のドアに寄り、その取っ手に手をかけていました。二人の様子をうかがい、さあ、開けるぞと目配せしました。遅れてハリトがやってきて、四人はいよいよ死体があるかもしれない主賓室の扉を開けました。
リリリン リリリン
突然鐘が鳴り、テオルドは怯えてびくっと手を放しました。ピロットがさっと握りを掴み、そろり、と戸を押しました。戸つきの鐘はやがてからからとみすぼらしい音を立てて止まりました。目いっぱい開けた扉の向こうは、絢爛豪華、輝かしい品々が、当時の面影を残したまま、戸棚や豪奢な机の上に並べられていました。金に銀、あかがねに真珠、翡翠にパール、ルビーなど…彫刻の意匠に嵌められたそれらの輝石が、灯を照り返し、瞬きます。イアリオは、まるでこの部屋から声が聞こえてくるように思いました。いにしえの、故郷の、遠い遠い時代の声が…決してそれは、かつてのにぎわいや恋愛の甘い蜜の香りを漂わせたものではなく、この街で起きた悲劇、人々の怨念、心などが、わっと漏れてきたように思いました。彼女はたまらなくなりました。古臭くて黴びた匂いが鼻をつきこう訴えてくるのです。
僕たちは、私たちは、今どこにいるの?あなたは誰?どうしてここに?…
三人の少年たちはいよいよ探し物が見つかったぞと、部屋に踊り入りました。ほこりは膨らみ、霧のごとくたちこめて、三人に襲いかかりましたが、そんなこと関係がありません。にぎやかさは現在、子供たちによって取り戻されました。ですが、はたしてそれは、まだここにいる亡霊たちの望みだったでしょうか。いいえ、それはわかりませんが、ここまで何の妨害もしなかった彼らは、まちがいなく子供たちの侵入を感じていました。彼らを遠巻きに見守っていたにちがいありません。それが歓迎すべきことかどうかは別として…。
死体はその部屋にありませんでした。その代わり、ある怨念が、強くその場所に留まっていました。彼は、一番取り憑きやすい人間に近づいて、その体を呑みました。ピロットはびくりっと体を震わせ、静かに、その怨霊の想いを取り込みました。彼はまっすぐ暖炉に向かうと、中の様子を見て、満足げにうなずきました。そしてソファにどしっと腰を下ろし、何やらぶつぶつとひとりごちました。ほこりが彼の鼻の穴に入り、大きくくしゃみをしました。テオルドとハリトが思わず彼を笑いましたが、ピロットも二人に調子を合わせて乾いた笑い声をあげました。
(何かおかしい?)イアリオは、彼を見てそう思いました。(また、あいつ少しおかしくなったんじゃ?)
普段なら…笑われたことを逆手に、すぐに二人に難癖をつけたでしょう。彼は舐められることが嫌いでしたから。十五人の仲間内にいるかぎりの彼との距離にいささか慣れた二人も、ピロットが相手だと、いつ修羅場になるかわからないことはよく知っていました。二人は、しまったという顔をしました。しかし彼はご機嫌でした。
とりあえず部屋にあるものに目を通して、四人はほこりを払い、ソファの上でくつろいだりしました。イアリオは不安げに青いビロードのソファに埋もれて目を瞑るピロットに声をかけました。
「ピロット、あのさ」
「何?」
「あんた、熱があるんじゃないの?それとも病気?」
ピロットは起き上がり、くぼんだ鋭い目の中の瞳を向けました。
「どうしてさ」
ピロットは、まともに彼女の視線を受け止め、探るように見ています。その目は彼女の見たことのないものでした。イアリオは質問しただけで次の言葉が出てきませんでした。感じたものをどう表せばいいかわからなかったのです。
彼は、小さく首を振り、彼女から視線をはずしました。イアリオは黒い風が背後を吹き抜けたかのような違和感に襲われました。いつもの彼ではありません。さっきの質問に対して多少は食ってかかり、納得するまで、執拗な態度を取るのが本来の彼です。
「やあやあ、諸君!」
彼はいきなり立ち上がりました。
「ワインの出来はどうだね?今年の出来は!さも上出来と聞いているが。早速パーティーを開こう。開こう、開こう!今すぐに!」
彼は大きな身振りでいない誰かに指示しました。しかし彼の言葉は空しく響き渡り、ただ三人をびっくりさせて終わっただけでした。
ピロットははっとしました。そのときに、怨霊が彼の体から抜け出たのです。彼は、とにかくただちに場をごまかさなくてはならないと思いました。
「あっはっはっは。まあ、こんな感じにここにいた人間はしてたんじゃないのか?多分贅沢三昧だっただろう」
「ああ、そういうつもり。びっくりしたよ。」
ハリトが言いました。イアリオはうそ寒い心地がしました。
「あんた…大丈夫?」
「何が?なんでもない」
ちらっと彼女を見た彼の目は、どことなく泳いでいました。彼女は、もしかしたらここにいる霊が彼の中に入ったのではないかと考えましたが、確認しようがないと首を振りました。
しかし、それは事実でした。この屋敷の館主がとり憑いたのです。彼は海賊でしたが、海賊たちが王を戴いたときに、一国の王の家臣になったのだから自分は貴族だろうと考えた者でした。貴族であるのだからと、彼は家を絢爛に飾り付けました。そのきらびやかさは悪趣味と揶揄されるほどで、イアリオたちが目にした宝物よりはるかに多くの財宝が、その部屋にも家中にもありました。ところが、彼は部下の裏切りにあって殺されてしまいます。彼は、人を信頼しすぎたのです。元来小心者の彼は、裏切りと下克上が横行する社会でも、誰かを信頼したく思いました。彼は、女を強く信用し、そこに金銭的仲立ちがあっても、男以上に女性を大切にしていました。幼い頃、女性に助けられた記憶があったのです。ところが、その女にだまされてしまいました。
彼の傷を癒そうと、一人の男が近づいてきました。童顔で、朗らかで、いかにも嘘をつかなそうな柔和な顔をしていました。彼はそれまで一切男性を信用していなかったのですが、その男は、彼の傷を全部癒してくれました。まるで彼のことは全部わかるようで、彼の気持ちを、すべて理解してくれたのです。彼は男と無二の友人になりました。その男に裏切られたのです。…浮遊した怨念は、繰り返し過去を振り返っていました。自分が信頼した人間と言う種族に、いたく恨みを持ちながら。
…永い年月は、霊魂の想いも和らげることがあるのでしょうか。彼の遺した想いは、本当は、誰かを信頼したかった自分の弱さに根差しています。彼はここにやって来た四人の子供らを見て、ピロットに、自分に近しいものを感じて、その中に入り込みました。怨霊は、久しぶりに肉体に宿り、昔の通りに振舞うと、ピロットとその魂が響き合いました。その感触こそ実は彼にとって得難いものでした。死後も求めた癒しでした。
彼はピロットに彼がほんの少しの時間でも支配した肉体をそれで明け渡したのでした。
昔…といっても、イアリオがまだ幼い頃、五、六歳くらいの少女時代、彼女ははじめて男の子に噛まれました。痛い痛いと言っても、その子は放してくれませんでした。なぜかというと、彼女は彼を馬鹿にしたのです。汚らしい服を着て、生まれも、育ちもよくわからなくて、そうした意味の言葉を彼にかけたら、彼は飛びかかりました。彼女の腕を、引きちぎらんばかりに喰いました。肉が見え、血が出、彼はようやく放しました。彼女は目にいっぱい涙を溜めて、どうしてこんなことをするのと彼に言いました。
彼はひどくびっくりしました。彼は、彼女を痛めつけて二度と彼に刃向かわないようにしたのです。期待した反応は、ただの泣き叫び、彼を恐れることでした。それほどまで顎に力を込めたのです。しかし、目の前の少女は、彼に「どうして」と訊きました。彼は無自覚に震えました。彼は逃げました。彼女から逃げ出しました。
そのしなやかな腕は大手を振って、体は飛び、脚が空を切りました。その日、彼は雨宿りをしました。小さな穴の中で、小さく体を丸めて小石のようになりながら。そして彼女を呪いました。生まれてこのかた、愛情らしきものを受けていないその身に起きたのは、その芽生えでした。
ピロットは分家の息子ですが、その父親はとうに亡くなり、母親は彼を折檻しました。彼らは本家の家に屋根を借りていたのです。身の狭い思いをした母親は、息子に厳しさも超えた教育をしました。息子は反発をしました。悪は自然と彼の態度にそなわり、盗みも破壊もやりこなしました。しかし彼は悪態をつきながらも、この町に育てられました。彼の目はぎらぎらしていましたが、その視線は人間の方を見ていました。人並みの感情を、彼はちゃんと育てられたのです。
一方、イアリオは議員の娘として育ちました。品のいい両親はなかなかわがままな娘を放牧しましたが、基礎教育はしっかりと行って、許されること、許されざることをはっきりと教え込みました。娘の体は頑健に育ち、男勝りの目をしていました。よく遊び、よく人のいうことを聞き、よく冗談を言い、人を笑わせることもできました。彼女は群れることは好きではありませんでしたが、友達は多くいました。
友人たちは彼女を頼りにしました。イアリオは何事にも動じない芯の強さがあるように思われていて、ことのほか信頼されたのです。彼女はピロットと先のようなことがあった後、彼に近づくようになりました。彼女だけが、彼にものを言うことができました。皆ピロットを恐れて近づこうともしませんが、彼女は違って、おいしいものがあればそれを分けてやろうとしました。狂犬こそ粘り強いしつけが功を奏したわけではありませんが、ぶっきらぼうにも、彼女の手から何か受け取るようになったのは、彼が十になったあたりからでした。二人はあまり一緒にはいませんでしたが、いつも心のどこかにお互いを引っかけ合っているような間でした。
「なぜ、あいつに近づくの?」
そう訊かれて、彼女はいつも一つのことを繰り返しました。
「おもしろいからよ?」
彼の歯型は綺麗にまだ腕についています。まるで首飾りのようにくぼんで、そこに自分の歯を噛み合わせてみますと、丁度同じ大きさでした。この歯型に刻印されたものは、彼の希望と、激しい怒り、飢えた思いでした。これを見て彼女は思うのです。彼が、どんな風にこの世に生まれて、今、どんな風に寝ているのかと。