第十七章 大図書館にて 5.生なるもの
昨夜も、彼女はほとんど徹夜をしていました。明るくなる頃に寝入って、午前中の今に起床したばかりでしたが、少女のように、その体は充実していました。大変!と、ニクトは慌てて扉を閉めました。そうするまで、わずかな間でしたが、少女はしばらくぼうっとしてその裸身に見入っていました。
完璧でない女性の裸は、誰に見せてもいいものではありませんでした。それがありえぬほど完璧ならば、石像のように、美しさに溜息をつくばかりなのでしょうが。しかしニクトの目に映ったのは、まったくそれとは異なる人の美でした。金髪の女の子はベッドに急いで向かって、タオルケットを一枚、寝床から引っ張って彼女の裸身を包みました。豊かな胸が少女の腕の中ほどに当たりました。少女の腕は縮こまりました。そして、一挙に、ニクトはこの女性が好きになりました。窓から満ちる太陽のあかりが、透けるほど薄い布を、それに包まれてしまった成熟した体は、ひらひらとさせました。桃色が辺りに立ち込みました。
その瞬間、世界は青く沈みました。少女はまだ甘酸っぱいかたちを口の中に頬張っている十二歳でした。世界に手に負えないものがあることを知る子供でした。にもかかわらず、この場において、ただ一つ、許せないことがありました。
「お母さんは、こう言っていたわ。みだらに人に全身を見せるものではないって」
ニクトはなぜか祈りたくなりました。自分が触れたこの体が、たった一人の誰かのものになるようにと。ハリトも、彼女の女としての幸せを願ったことがありましたが、それと同様に、少女もあまりに性的な魅力に溢れるイアリオの裸身を、心配し、心からそれがまことにふさわしい相手に貰われるのを、無意識に願いました。彼女らを巡って、右からラッパが、左からテューバが、鳴りました。その高音と低音は、意識しながら、互いの周りを巡り巡りました。
完成した女性の肌が間近に迫って、少女の唇は震えていました。目が濡れた様に光っていました。いやでも性を意識しなければならないはずの、ありのままの健康な体が、今、少女のものだけになっていることに、少女は恐怖すら感じました。勿論頭脳明晰な金髪の少女には性の知識がありました。そのための授業は書物による座学だけではなく、教育に慎重なオルドピスでは、実践とまではいかなくてももっと立ち入ったことを教えていました。体の構造も、恋愛の果ての到達も、夫婦となり子供が生まれる責任を負うことも、性にはまつわっていました。少女はその知識を一辺に頭の中でおさらいしました。そして、ニクトはイアリオの体に同性愛の興奮を覚えたのではなく、彼女に一目惚れをしてしまった人間を頭に思い描きました。
少女の腕に包まれたイアリオは、少女の中にある性の意識にも触れました。はっと、彼女はニクトの中に、その一人の人間が大きな影を作っていることを感じました。ニクトは、イアリオに想い人の存在を明らかにしていました。ですが、その人物に自分が惚れられてしまった後、少女にそれについての気持ちを訊いていませんでした。
彼女はニクトの柔らかな腕に抱かれて、自分が、このくらいの子どもと同じ背丈に返ってしまった気がしました。そして、ふと、なぜこのくらいの年齢の時に、性に色付き始める頃に普通抱くような言葉と気持ちを、大事に大事に自分自身にしまい続けていたのだろうと思いました。あれっと彼女は思いました。ニクトに抱かれた自分の体が、ぶるっと震えました。それまで、素っ裸でも、全然構わない気分のいい朝でしたのに。彼女はこの時間帯ならば部屋を訪ねるのは少女くらいだと分かっているから、全部の服を脱いでいたのです。なぜ、そんなことをしたのか。そのような気分になったとしか、彼女には言いようのないことでしたが、随分と殻を破り曝け出されたくなったのは、その身の上にこびりつく歴史だけでなく、またがんじがらめのような運命たる導きによるものに定まることもなく、その心も、肉体も当然に、生そのもの、心と体の結びつくものこそ彼女の内側から出て行こうとしたからでした。しかし、危ういものでした。人の裸身というものは。それは、誰に対しても誘惑する力を発揮し、持て余されうるもので、世界の隙間にはみ出すものでした。生は、社会など遥かに悠々と超える力を持っていました。彼女はしかしここに到達する過程を、あの町の地下に十年ぶりに潜ることになった時から経ていました。殻は破られるものでした。そして、
破られる殻を持っているのは、彼女だけではありませんでした。いいえ、誰もが破られる殻を持っているものです。そして、今にも破ろうとしているのは、あの町と、その下に居る怪物でした。
彼女は人の視線を感じました。今、そこにいるのは己の裸を見せてもいい少女だけでした。ですが、ニクトは自分以外の誰かに見られたら大変!と感じて、彼女に駆け寄り、タオルで包んだのです。イアリオは自分の体が薄い布で包まれたのは、なぜかと分からず、しかし少し経って、分かりました。彼女が裸になるのは彼女の町では自分の家か、あるいは沐浴のための森の中だけでしたが、ここは彼女の国の外でした。自分の町でするように、彼女は裸になったつもりでした。しかしここに来るまで彼女はたくさんの人と出会いました。ゆっくり、彼女はそれまでに自分がいなかった環境に慣れてくる最中でした。
自分の体が、誰かに見られうる、なんてことは、それまで考えてもみないことでした。彼女のボディは、彼女以外のものになることを、それまで想像をしたことがなかったのです。しかし、今は違いました。本当は違いました。
あれっ?あれ…?どうして私はここにいるのだろう、と彼女は思いました。ニクトが好いている相手を彼女は知っていました。ということは、ニクトは、彼のものになりたがっているのでしょう。塞いでしまっていた性への意識が、とめどなく、彼女の心の中に立ち昇ってくるようでした。自分は…?と、彼女は思いました。そして、
どうして自分は、こんな使命を背負っているのだろうか、と考えました。クロウルダとオグのことを調べなければならないような。
彼女は急速に自我が空虚になるのを覚えました。それまでこれぞ「私」と認識していた自画像が、薄らぎました。彼女の顔面は紅くなりました。少女と彼女の、二人の眼差しは、まるでどちらが年上で年下なのか、わからなくなりました。苦しみがイアリオの胸を襲いました。たとえようもない苦しさが、胸の奥から、表に昇ろうと貫きました。まずい、まずいと彼女は思いました。何かに囚われている。どうにかして、収めなければ!彼女は、自分の胸をぎゅっと掴みました。それが物であるかのように。
今まで、もしかしたら彼女は自分を物のように扱っていたのかもしれません。多くの人に、自分は育てられたという自覚は、彼女にあまり芽生えていませんでした。そのことは、理屈に留まっていたのです。人間の隙間にいながら、彼女は屁理屈を繰り返したのです。しかし教師にはなれました。誰かを育てることはできました。ですが、はたして自分を育てていたのでしょうか?彼女は、自分に起きた経験を、しっかりと自分に根付かせていたのでしょうか?
その女性は少女に抱かれ、口の中から吐息を吐き出しました。女性は少女を向き直り、ちりちりの前髪の下で、くっきりと、その両目を瞬かせ、胸元の相手を、優しく包みました。その時、女性と少女は二人揃って次のステージに進みました。イアリオはえいやっと体を翻して、自分をくるんでいたタオルケットでニクトを包みました。急に目の前が見えなくなった少女は、きゃっと叫んでばたばたしました。ニクトは慌てて腕を掻き、タオルケットの端に両手の指を引っ掛けました。自分に巻きついた布をはずしてみると、そこに、立派な肢体を曝け出した年上の女性が光の中にいました。
少女は顔を真っ赤にして、これではいけないと幾度も叫びながら訴えました。イアリオは明るく笑って、少女をからかいました。しかし、次の瞬間、
彼女が好きだと分かった相手の名前が、自然と頭に浮かびました。彼女は明るく笑い続けました。ですが、その体の半分が、何度も何度も、泣き叫ぶようでした。彼女は知りませんでした。この過程こそオグを知る道標となっていることを。自分の、自分への裏切りが、自分の悪と、つながっていることを。
その夜、イアリオは徹夜を止めました。すると途方もない夢を見ました。彼女は雄の鳥でした。眼下に一艘の小舟があるのを見て、その鳥はその舳先に降り立ちました。すると、舟の中にいた男の子が、いきなり彼女を後ろから引っつかみ、ばたばたと暴れる彼女をそのまま毛をむしり頭蓋骨を折って、食べてしまいました。その少年はピロットでした。「いいんだよ」鳥は、霊魂になって言いました。
「私を栄養にして生き長らえるなら、それでも」
―――洞窟の中で、ピロットは目を覚ましました。彼は怖い表情をして石の上に座っていました。
それまで、彼は夢うつつの中を彷徨っていました。彼は、そのうつつの最中二人の人間に会ったような気がしました。彼よりは年下の、この洞窟の上の町に住んでいる者たちでした。彼は思い出しました。彼は笑いました。
「オグ、オグ、か…生意気だ。まるで幻のような悪魔に、この俺がたぶらかされてしまうものか」
しかし、彼はその悪魔との戦いで、自らの体の一部を犠牲にしていました。そのショックもあり、しばらく意識を混迷させていたのです。彼は、一つの悪魔と対峙できるほどその身に悪を宿していました。しかし、己の悪を守るために、彼は犠牲を捧げなければなりませんでした。
彼こそイアリオの前世を含んだオグに、己を一部を手渡しました。まるで、夢の中で彼女が彼に喰われたように。彼は十二歳の少年の頃、この暗闇から出てゆく前にその顔をどんな人間の表情にもなれる、都合の良いかたちに合わせることができるようになっていました。地下で黄金を見た彼は、その残酷な快感を懐中とするために、表情を失い、感情を露わにすることを遠ざけたのです。しかし、それから成長した彼は、海外を股にかけ残酷な活躍をした彼は、彼が懇意となった人間を守るために、懇意となった人間の前世に、彼の片腕を差し出していました。
オグは、それで退きました。代わりに、彼は彼女に抱き締められました。その一時に記憶をなくした彼は、ようやく、何が起こったかを思い出しました。彼はにやりと笑いました。ぞくりとするほど、寂しそうににやりと笑いました。暗闇で彼はついに自我に目覚めたのです。もはやいかなるものも彼をコントロールできなくなったのです。彼は誰かに剣を突きたてるべく、海の外側からここへ戻ってきたのです。その相手がようやく分かりました。それは誘惑者。オグの中にいた者でした。そして、オグと、向き合うことができた者でした。
「ああ、もう、ずっと長々とした夢を見ていたのだな」
彼は石から立ち上がりました。何も見ることができない真っ暗闇をぐるっと見渡して、こう言いました。
「ようやく俺は、そう、本当の活動が始められるのか。まずは、上の黄金を洗いざらい運ぼう。そうして俺の、自分の王国を築こう。ああ、確かに、もう俺には分かっている。俺はあの町を破壊する」
一つの破局点に向かって、
「食べるんだ。喰らうんだ。そうすれば俺はやっと俺自身の形になれる。今まで俺は誰なのか知らない人間になっていたんだ。
もう、それは終わるんだ」
彼が正しく自由になるために。




