第十七章 大図書館にて 3.ある危機
「あの人は誰だ。どういう人だ。そうだ、名前を覚えている。しかし、あんな名前や姓は聞いたことがないし、あの衣装も、今まで目にしたことがないものだ。気になる。気になる。でも彼女は一体誰なんだ?ニクトが連れ合いだった。ニクトが面倒を見ているんだ。ニクトに貴族の真似なんかできただろうか、でもきっとトルムオの爺さんがまたお目付けに当てたに違いない。何か特別な事情がある人なんだ。そして、良識があって、きちんとしている。そうでなければ、来たばかりの旅人に本を貸し出しするなど、ありえないことだから。彼女は信頼を国から得たんだ。どうして信頼されたんだろうか?その人となりだけで、そうした判断がされることなんてないから。彼女には真っ先に本が必要だった事情があるはずだ。ということは、調べることがあってこの国に来たはずだ。彼女の予約した文献、あれにヒントが隠されている!あれは実用的じゃない、みんな史料だ。彼女は何を調べに来た?ああ、いけない。必要以上の詮索をしてはいけない。それはあちらの事情をきちんと考えてはいない行為だ。僕は彼女に嫌われたくない。絶対に嫌われたくない。だってあんな人は初めてだから!あんなに光り輝いて見えて、突然、こんなに胸が苦しくなる相手なんて、この方一度も出会ったことがなかった!ああ、これは恋だ。明らかに僕は、あの人に恋をしている!なぜ、どうしてあの人を好いた?どんなところが、僕の胸にヒットしたんだ?一度の目撃で、僕は、あの人に心を奪われた。あの強い眼差し、ちりちりとほどけた髪、長いけれどもつんとした鼻、繊細な顎!眉毛は太くて、悩ましかった!目が僕を捕らえた時、走った稲妻は、決して一生忘れることはないだろう。ああ、たまらない!あの人を僕の胸に抱えたい!」
その衝撃は、一度も本気で何事かに向き合ったことのない青年に、文字通り稲妻のように走る感覚を体中に与えました。彼は、あっという間にそれに捕らえられてしまいました。日常は、彼にとってあくまでこなされるものでした。その中で、辻褄の合うことだけをやっていればいいのでした。彼は何も混乱せずにそうすることができて、いかなる風が周りに吹こうとそれに逆らわずに動くことが可能でした。それは彼の特殊能力でした。彼は、人間の隙間にいる自分というものを感じない性格でした。生活をしていく中で社会的存在である人間は、否が応にもその体が、その精神が、共同体からはみ出して、隙間に出てしまうのを感じることがありました。強力に何かを否定しようとする自分、暴力的に反応してしまう自分などを。しかし、そんな自分を如何ともし難いと諦めたり、または必死に捉えようと努力したりして、共同体に収まりのつくように変容していくものでした。
フィマは、頭のいい青年でした。ですが、それ以上に彼には社会の隙間を窺うようなことが自分に起きた時、その体をなくし、はみ出そうとするものを速やかに排除することができました。それは、彼の特別な力といってもよいものでした。彼は、元々非常な女垂らしでした。その気にならなくても、相手がその気になることがたくさん起きました。その容姿と声は、性のシンボルともなりえる端麗さで、彼が異性に飽くことはありませんでした。彼にとって、快楽は向こうからやって来るもので、それに充実していれば、生活は事足りました。彼は自分に悩む必要がありませんでした。悩みなどいらなかったのです。
ですが、イアリオと会ってしまい、彼は身の引きちぎれる思いがしていました。彼の大事な大事な一部が、相手の手に握られてしまった感じを、彼は受けました。それは彼の中を全部引っくり返して、彼をわけのわからない激情に突き落としました。彼は彼女を前にして何を一体受け止めたのでしょうか。それは、一般的ないわゆる一目惚れと、思われてもよかったでしょう。ですがそうなる理由がもしあるとすれば、それは全身的な、理屈のないことで、ほとんどすべての彼自身の存在を懸けざるをえなくなることでした。
彼は命を懸けたことがあったでしょうか。特に彼は、自分の体をなくすことができたのですが。例えば、たおやかに手を振る女の言いなりになって彼の体を預け。こちらから、おもむろに振った何かの仕草に吸い寄せられて、目の前に女性が来ることも。彼はそれを抱くだけでした。抱く、だけで、まるで、彼はいませんでした。心地よい感触がありました。茫然と彼はそれを受け止めていました。昔から彼はそうでした。彼はいつもにこやかでした。彼は人を好きになったことがあったでしょうか?それに近いものは感じても、それに苦しむということはなかったでしょう。彼はいつも笑っていました。人と彼とが強く結び付く経験はありませんでした。彼はいつも…母親の胎内にいるようでした。
フィマ=トルムオは、幼い頃に首都にやってきました。彼の両親は不在でした。彼一人だけが送られてきたのです。彼は当時からにこにこしていました。大勢の人々に世話をされて、孤児としても、思い悩むことはなかったのです。ですから、彼は人々に素直に感謝するすべをよく心得ていたのだと言うことができたかもしれません。彼は、天涯孤独の身を軽々と越えていく、得体の知れない善き力を十分に具えていたのです。父母が不在であれば…もしかしたら…自分の無様な感情や、色んな激しい衝動が、向くべき相手もいなかったかもしれません。自分と他者の比較という、大事な自己主張の心理的機構も、彼は一度も味わうことなく今まで育ってきたのです。
だからといって、彼の言葉に血が通っていないわけではなく、普通は気がつかない冷たさを彼は持っていたとしても、多くの人は、この美男子をつかまえて嫌な気分にならず、むしろ、夢を見るような美しい幻も現れてきて、彼に感謝するのです。けれど彼はどこにいるのでしょうか。いったい、ここにいるのに、人間の彼は、自分が人間の間にいるものと、感じることができない希薄感に支配されていました。
しかし、それらは彼の人としての一面にすぎないとも言えたでしょう。彼の声を、ちゃんとした人間の肉声として聴いていた人々もいたのです。彼の養父である老爺トルムオは彼の難しい性格を最初から知っていましたし、だからこそ、彼の後に養子としたニクトの世話の一部を、彼に任せもしたのです。強い愛に本当は餓えればこそ、かえって愛は希薄になることを、重々承知していたのです。
ニクトもまた彼の本当の声を聴いていました。彼の彼女への警告は嘘偽りなく聞こえ、そこに確かに愛情が含まれていることを彼女は感じていました。彼女は注意深く兄の言葉や仕草を見ていて、まだ年端のいかない彼女なりに、彼の生き方をよく解釈していました。彼女が彼を好きになった理由はただ、彼が彼女の面倒を見ていたというだけではありませんでした。
そして、イアリオもまた、彼の肉声を聴くことのできる力の持ち主でした。彼女は思わず彼を誘惑してしまいました。そんな気はさらさらなく、ましてやもてたという経験もない彼女は、彼の分かり易い反応にまったく驚いてしまいましたが、それがかえって、彼への注目を怠らないことにもなっていくのでした。
フィマには、ある危機が訪れていました。その危機は、イアリオがそのふるさとに覚えざるをえなくなったものにそっくりでした。そして、その危機をこそ、彼女は正体を暴こうとしていました。オグという、かつて人間が預けた悪の集合の成り行きを。




