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破滅の町 (分割版)  作者: keisenyo
第二部 後
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第十六章 学術都市 5.あどけない足音

 扉が閉まりました。女の子は、花畑の中に、一人だけ置いておかれました。イアリオは目を瞑りました。たった今目に留めた、可愛らしい相手を、吸い込むように、心の中に間を取ったのです。ぬくもりが、あちらにあります。

 ここには、冷たさがあります。冷徹な積み重ねられた事実と思惑だけがあります。クロウルダの長が、薄い唇を開きました。

「いかにも彼は、人間の柱になって、あの町の地下にいる巨大な怪物に喰われました。しかし、そうすることで我々に、特別な知らせをもたらしてくれました。クロウルダは、このようにしてかの魔物をずっと慰め続けてきた民族です。我々の魂は、しばらく生きるのです。オグに喰われるとは、不可思議な現象で、恐らく誰もがあの魔物の中に自分の悪意を棲まわせているからでしょう、生きた声を届けてくれるのです。こちら側に、実際、あの悪魔の中に何がいるか」

 イアリオは恐ろしくなりました。ここで、ずっと知りたかったオグの正体をたった今知らされているのです。

「あれは、旧時代に人々の悪意を塗り固めて出来た怪物です。ですが、人の悪意とは宙に浮かんでいるのです。かつて抱いた悪意、現在抱いている悪意。それは、人間の傍を離れて、ふわふわと浮いています。魂がそれを手放すのです。そして、それは誰かに取り憑きます。自分自身に取り憑くことが、ほとんどですが。悪意は創造されるのです。古いものなどありません。それは、常に新しい!

 だから、例えば言語によって過去あったようにしゃべることは、かなわないのです。いつも生まれ変わって、次々に殻を交換するのです。わかりますか。継続するのがそれなのです。もう一人の自分と言っていい。だから、オグにはあらゆる人間のそれが潜んでいるのです。自分の傍ら、己の影そのものが。あれは、いにしえの世に、それを全部集めた。だから、我々の霊魂の一部が、あれなのです。ゆえに、あの中に入れば、これは我々だからこそできる技なのですが、我らと交信ができるのです」

 ニングは立て続けにオグの本質を言いましたが、あまりに続けざまで、イアリオは混乱しました。トルムオがそれを案じて、もう一度噛み砕きながら伝えました。つまり、かの魔物は輪廻転生する人間の心の一部そのもので、すべての人間が、彼に自分の幽霊を預けているというのです。クロウルダはその秘密の技術で、彼らとその彼らの一部である、オグに取り込まれた悪意の霊との結びつきを辿って、遠隔地でも交信できる手段があるということでした。ハオスが死んでもなおしばらくは、オグを通じて、クロウルダは死霊となった彼と言わば無線ができたのでした。

 碩学の長は噛み砕いた説明のあとに続けて言いました。

「苦しみは糧になります。十分な糧となれば、それはある哲学を有します。立派な御殿が建つのです。きらやかに、民族の太い轍をなおさらに太く、消せぬようにするのです。クロウルダの歩みは、まるで一枚の羊皮紙(契約の紙)のように、確固として動かない大岩のごとき歴史の真実で、それは称えられるべきものなのですよ」

 トルムオは慰めるようにそう言って、彼女を見ました。彼はハオスの死が彼らにどのように扱われたか、丁寧にイアリオに伝えました。そして、オルドピスは、クロウルダのそのような伝統を芯から敬う心を持っていることも、同時に伝えたのです。

 彼の、トラエルという小さな町から来た女性にも、まるで呪われた伝統を持ってしまった民族の代表者にも、両方に示した細やかな心遣いに、彼女は気づきませんでした。イアリオは目を瞠って、中空を見つめていました。彼女は心の中で、ニングの話をよくよく噛み砕きました。そして、なぜ彼女がここに連れて来られたか、自然と理解できる素地を見つけました。彼らは、知りたいのです。オグを、監視する者として、表立ちつつある危険な事態を、敏感に察知する能力を多分に持った、彼女から情報を引き出したい。

「どうしてあなたは町から出てきたのですか?なぜ、命の危険を冒してまで!」

 その言葉は、彼女がその耳で聞いたものではありませんが、無意識に響いてきました。それは監視者の声でした。彼女の町は、クロウルダからもオルドピスからも、見つめられ続けていたのです。

「あの巨大すぎる悪にはとても手が出せない。だから、これからどうなるのか、その手掛かりを、当事者であるあなたが一番所持しているのです」

 そういった言葉も、本当は聞いていません。軋むような弦の震えが高音帯で鳴っています。

「オグとは何者ですか?」

 それは、実際にイアリオが言った言葉でした。

「私は…」

「いにしえより生き永らえる怪物です。ですが、それは人間の暗黒の意識であり、元々は人間の一部だったものです。彼はより大きな一つの実体だったのですが、ばらばらになり、いくつかに分かれました。あなたの町の下にいる者以外にも、オグはいるのです。これまで、彼は自らを滅ぼす巨大な破滅をもたらしたことがありました。それは三度起きて、いずれも大変な惨事を引き起こしましたが、今、おそらくそれが再び起きつつあるのです。あなたの町で」

 大賢者が、言葉を引き伸ばし引き伸ばし丁寧に言いました。

「それが私の感じていたこと…?」

「あなたが何を思い、町から飛び出さざるをえなかったか、それは非常に大事なことです。ただし、我々に分かることといえばそれくらいなのです。

 彼の破滅は、すなわち回帰なのです。彼は、消滅するのですが、それにはたくさんの、非常に多くの命の犠牲が必要です。そうでなくば神話のエアロスのごとき大嵐は起きず、彼は膨大な悪意を消し飛ばすことができません。なぜなら、大いなる循環の流れに乗ってしか、彼の時間は進んでいかないのです。彼は変化をかたくなに拒む、まさに、黄金の存在なのです。この世にいるかぎりにおいては。

 黄金は決して腐食しませんが、霊は永遠回帰の流れに乗れば、いずれはなくなり、まったくかたちを変えられます。その場所は、レトラスといいます。レトラスに到達するには、多くの霊魂がそこへ行きたいと願わなければなりません。オグは、それ自体では決してかの流れに行き着けません。なぜなら、彼は人の霊の、一部ですから。だから、彼は生者も巻き込んで同じものを、同一に望ませるようにするのです」

 イアリオは、自分の体がびくびくと痙攣するのを覚えました。回帰…消滅…それは…あの町が、ずっと潜在的に抱いていた、願望ではないでしょうか?黄金を守るだけの、閉ざされた国が、本当は望んでいた、魂の本質ではないでしょうか?いいえ、そんなことは、あの町の誰もがおくびにも出さないことですが。

 変わってはならないという呪縛はなぜ生み出されたのでしょうか?あらゆるものの本質は変化にこそあるのではないでしょうか?

 それを信頼できない人間が、傲慢にも現在の生だけに執着して。一体人は、何を災いと考えるのか。彼女は煮え滾る何かの欲動をここで感じました。

 だと、すれば…!


「私に、いったいどうしてほしいのでしょうか?」

 彼女は訊きました。


「簡単なことです。あなたの感覚が、いかなるものか、私たちに教えてほしいのです。そしてできるだけ犠牲者を出さない努力を惜しまずに進めていかなければならない。ヒントはあなたの感覚にあります。

 それを言葉にして出してほしいのです。いいですか。人間は簡単に悪意の意のままに貪られえますが、それとどう向き合うか、一生を賭けて探る勇気はないものです。反省はできますが、本当にそれを、自分の手に操作できるものへは変えられない。絶対に自らに引き付けられないのです。悪意は、人から分かれた。しかし永劫の人の友と言っていい!もし、人がこれと向き合えるなら、人間の数だけその向き合い方は変わります。あなたはそれをおそらく言葉にできる人間だ。

 そうでなければ、明確な意識を持ちながらあの町に留まることはできないなどという判断はできないでしょうから。悪が暴れようとしている現場で、耐えられなくなるということはないですから。大勢がそれに巻き込まれるのです。あなたは、あなた自身の位置取りを変えて、その現場を、明確に把捉しようとしてこの場にいらっしゃったのでは?」

 ニングが言ったことは、その通りでした。彼の言ったことは、霊魂となった死後のハオスから彼に伝えられた情報でした。ハオスは、いつか彼女をして「悪を超えし者」と言っていました。それは、こうした意味でした。

 彼らの言っていることはわかりました。そしてまた、自分の目的もそれ以外にありませんでした。しかしイアリオは躊躇しました。……あの天女たちが、どうして自分の前に現れたかをもう一度思い出してみれば、オグだけが、あの町の事情だけが……彼女の焦燥感につながっていたのではないようだったからです。クロウルダとオルドピスは、彼女の回答を待ちました。しかし彼女は、まごつきました。

 ニングは、

「いいでしょう。決して焦ってはならない。焦れば言葉は歪み、正しく伝えられないものです。あなたはたった今ここへ来たばかりですから。我々は待ちます。あなたに時間を与えます」

 そう言って、部屋を辞しました。彼の言葉は、とてつもなく重く、イアリオには感じられました。

「イアリオ殿。もしよかったら、我らの図書館を訪ねてみるのもよろしいでしょう。そして、もしよければあなたにオグや歴史を講義してもかまいません。正確な知識が言葉の表れを助けるものです。あなたに必要なことは、皆、このオルドピスが用意して進ぜましょう」

 トルムオはじっとイアリオの顔を見入りました。彼の学問で、彼女の意識を測ったのです。彼女の役割は決していました。あの町に誕生した者して、これから起きるべき現象の正確な観察者たるように、天女たちからも、おそらくは地下で出会った亡霊からも、委ねられたのです。その重々しい役目が泥のようにねばねばと、背中と足元を這いずっていました。

 しかしそのような役割の重さに、今まで彼女は潰されることなく、このオルドピスの首都まで来たのでした。

 イアリオは少し憔悴した心持ちで、目の前のトルムオを見上げました。

「私に起きていることが」

 彼女はおもむろに話し始めました。

「あの町で起きることに関連しているのは、言わずもがなです。でも、どうして、私なのでしょうか。どうして、よりによってこの自分なのでしょうか?いいえ、そんなこと、追求しても始まらない。それが私に起きている、それだけが、正しくわかることだから。私はなぜ出て行ったか、その原因ともなった焦燥は、ずっと、旅に出てからも消えないでいます。

 その理由は、ただちにここで言うことはできません。時間を下さるとおっしゃいました。私に知識を提供してくれると、言ってもらえました。それが、真実私の望みでしたから、私からこれ以上何を願うことがあるでしょうか。でも、今は、かろうじて縋りつくことのできる唯一の希望さえ、かすんで見えるのです。私は何を、予感しているのでしょうか。


 あの町の破滅です。そう、破滅です。


 でもそれが、どのようにして起きるかは、まだわかりませんが。だから、私は知りに来たのです。逃れられないさだめを、克服するためのすべを。本当に逃れえないのかを。それとも、こう言えばいいでしょうか。私は、ここに、自分の役目を果たしに来たのだと。いいえ、それしか、今は、表現しえない。自分は逃げ出したい。かろうじて、希望や期待ができるものなら、私はそれに。でも、いいえ、本当にやるべきことが目の前に見えているから、逆に、私は疲れました。

 私の理由が、はっきりしたから。私は恐れているのです。未来を」

 ここまで言って、力は尽きました。彼女は、情けない自分自身を感じていました。ここまで来て、ようやく不可解な不安や焦燥が解きほぐされうる場所まで辿り着いたというのに。彼女は独りを強く感じました。たった一人でこの道を歩いていかねばならないことに、強迫感と、強い怖れが迫ったのです。

 しかしそれも今さらでした。ずっと今さらでした。今更だから、情けなかったのです。

 ところが、彼女は一人ではありませんでした。そういう心の状態に、イアリオはならざるをえない理屈があったのでした。彼女は多くの人間にその背中を押してもらっていました。レーゼやハリト、母親にも、そして、あの暗黒の都にいる者たちにも。計り知れない不安にも、どこか、対峙できる強さが彼女に宿ったとしたら、それは、彼女一人だけの力ではありませんでした。しかし、これから向き合わねばならないことになるものを、正確に予感もしていました。オグという、いにしえの怪物を、彼女は正確に調べなくてはいけないのです。それはつまり、自分の一部を、調べるということなのです。

 それは、これから、自分の中にある強大な悪そのものに出会っていくのだということ。


(括弧をして、笑顔になれば、誰もがちやほやとしてくれるものではありません。それが生きるすべだと言っても立派である以外は、何の価値もありません。その人間は、どのようにして生きているのでしょうか。そう、括弧をして、笑顔を作って、そうして誰もを騙しながら、自分の存在を守り切る、挑戦をしています。それが、人間の価値でしょう。もし、そうした人生の可能性を知りながら、そうではない生き方を選択したとしたら、また、新しい価値がその人物には表れるのでしょう。たとえそれが事実を鑑みない、もっと括弧ばかりの「嘘吐き」だとしても、人間は、生きています。かつて、その昔に誕生して確かに生きたことのある。そして、転生をして、再び生きた。

 流れはこちら側にあります。あちらには、本物らしき、影の言葉の群れがあります。それでも、それだからこそ、人は、影を追うことしかできないのでしょう。きっと、本物らしき、価値判断が惑わされるものをこそ、信じ続けるものでしょう。揺さぶられるのが、人なのです。括弧は、恰好。なればその恰好を選択したことが、人間の業なのでしょう。)


 その括弧の中身は、彼女の、その時の覚悟のかたちでした。どんな恰好を選んだとて、自分は変わらず、ここに来ることとなっていた理由はいつからか存在し続けていました。何を選んだとしても、彼女は彼女だったのです。過去は、いつまでもどこまでも本人を追いかけるものでした。

 イアリオは立ち上がって、その場を辞そうとしました。トルムオは、彼女の気持ちを慮って、自ら扉を開けてその向こうに控えていた兵士に彼女の保護と手厚いもてなしを命じました。彼女は兵士について、廊下を歩いていきました。ふらふらとした足取りで、何度も兵士から「大丈夫ですか?」と声を掛けられた気がしますが、定かにも憶えていませんでした。ところが、石の廊下をぱたぱたとはしゃぐようにして歩いてくるなんともあどけない足音に、彼女の頭蓋骨はきりきりと上がりました。同時に背骨もまっすぐ上がり、見かけよりも背丈がぐんと伸びて見えました。昔の職業的な癖が、彼女の身体に命じたのです。どんな時も、子供の前では、自分はしっかりと立つように。

 こんな時なのに、と彼女は内心苦笑しました。それこそ、括弧でくくった自分のあらましをここで披露しているようでした。彼女は、自分を嘘吐きに違いない、と思い始めていたのです。あまりに存在の重い課題が、自分の体を押さえつけていました。ですが、そこから浮き上がってくる、表面なる意識の浮動がありました。すべて嘘っぽい、軽い、定まらない鈍い苦しみを感じさせるもの。まるで借り物のような軽いもの。

 ところが、そのような心の迷宮に迷い込んだのも一瞬でした。

「こら、お嬢様!」

 やって来たのは、別の兵隊に追いかけられた、トルムオの執務室の向こうの花畑に見かけたあの可愛らしい女の子でした。その庭で見た時よりも、近づき、再び彼女と目と目が会いました。イアリオの気分は混乱と冷たさから翻って素直な温かみを復活させました。

 金髪のボブ・ヘアーが揺れて、彼女の前で立ち止まりました。

「お姉さん、背が高いんだね。それに、肌もキレイ」

 女の子は、小鳥の囀る声で鳴きました。

「うらやましいな。お姉さん、体つきも相当、女らしいものね。私もそうなりたいなあ」

 少女は十二、三歳ほどの年齢でしょうか。あどけなさの残る小さな顔は、美しく、目もくりくりとして魅力的ですが、時折、大人の表情も垣間見えるような、著しい成長の途上の、どちらつかずの思春期の危うさをも持っていました。彼女はまたこの少女と目と目を合わせて、ああ、やはりたちまち気が合う子だな、と思いました。そうだ、ハリトにもこの子は似ている。なんとなくやんちゃそうな匂いがするもの。……

「もしかしてあなたも、町の中じゃ、素っ裸でいたら気が楽なのに、と思ったりする方?」

 女の子はきゃっきゃっと笑いました。それで、互いにどんなことを考えているか、二人とも判りました。隣でイアリオを先導していた兵士が粟を食ったようにまごまごとしていましたが、二人には、まったく気にならないことでした。少女が八重歯をきらりとさせて、彼女の手を引きました。

「案内してあげるよ!」

「どこへ?」

「お姉さんのお部屋にだよ!あたし、知ってるから!」

 二人は良い友達になれそうでした。ですが、イアリオはどうも失礼になったかしらと、まごつく兵士を振り返りました。

「この子に案内してもらうことにするわ。早速いい友達ができたって、あなたたちの指導者に伝えてちょうだい!」

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