第十六章 学術都市 4.運命(さだめ)と導き
「イアリオ殿」
老人はさっと手を出し、イアリオにガラスの椅子に座るよう勧めました。そして、自分は対面の座席に腰掛けました。両方ともに、羽毛のクッションが敷かれていました。座席はひんやりとしていて、少し触るだけで頭脳が冷たく冷ややかになりました。彼女の背後で入り口が閉められ、弦をかき鳴らすあの音楽は遮断されました。ここが特別の空間であることは、否が応にも認められました。イアリオは目を瞑り、自分の心が、意図していたよりもずっと落ち着き払い、それでいて、気持ちがしっかりとしているのを確認しました。彼は、二度咳払いをしてのち、じっと、何事か考える仕草をしました。彼はイアリオに微笑みかけました。その意図がよくわからずに、イアリオは戸惑う気色を浮かべましたが、この老人なら、私が相手をだまそうとしているかなんてすぐに判ってしまうだろうと気がつきました。そこは待ったのない裁判所でした。被告は、しかしある核心を胸に収めて、その熱を感じながら、いかなる裁きも待とうとしました。沈黙の時間が流れました。その時が経てば経つほど、鼓動は大きく、いや増しに増していくようでしたが、気は晴れて負けませんでした。
やっと賢人の口が動き出しました。重い大きな鐘の音が、太い柱の真上から、決定的に響きました。
「私が一番あなたに会うのを恐れていたのです。あなたの持って来る情報が、いかに真実であるか、空想するだけでこちらが大変な思いになるのです。イアリオ殿。私はトルムオといいますが、この国を預かる碩学の大賢者の地位にいます。よくぞ、来られた」
その自己紹介は、ぎこちなく、まるで、裁かれるのは今からこちらなのだと言いたげでした。イアリオは、空気の端々の沈黙に、壁が迫り来るような逼迫感を味わいました。その力は徐々に強くなっていくようでした。
トルムオは大きな息を吐きました。これから会話する内容の重さが、先に彼の肺いっぱいに満ちていたのでした。
「閉ざされし扉は封印が開くのを待つ。それは人間が自分で付けた約束事であるのに、忘れた場所と時と、秘密の土地で、行われる。今、その扉が開こうとしていて、あなたはここへやって来た」
トルムオはゆったりと歌うように語りかけてきました。
「あの町で実際に起きた三百年前の出来事と、その罪と。かの魔物は然るべくしてそこにいただろう。あなたはその両方のちからに突かれてやってきたはずですね。我々の同士ハオスが、それを知らせてくれた。使者とは、カモフラージュのものでありながら、本当は、まったく使者なのです。あなたはここへ、その知らせを届けに来てくれた。じわじわと広がる魔の勢いが、たまらずに一人の人間を外に飛び出させるくらい、かの町では、事態が進行しつつあるのですね。私たちは待っていましたよ」
ふわりと空気が流れました。それは、賢者から、彼女へ。空気が歪みました。まるでガラスが割れてしまったようです。
「人間は…どんな態度をもって、この試練に臨むべきだろうか。きっと、全世界の人々が直面するはずの問題なのです。しかし、それを意識し発見できるのは、ほんのわずかだ。悪魔は人の口から出てきた。それは我らから分離した。けれど、また、こちらに向かおうとしている。それは、元々我らの一部だから」
ぎくり、とイアリオは身を震わせました。彼女は、まだ、オグの正体を知っていませんが、それは今しがた、彼の喉元から言葉として出てきたのです。
「だから人間に影響を与える。敏感な者たちはもう気がついている。あなたのように、どうしようもない、焦燥に駆られてしまうのですよ。オグという悪魔が、出現しようとしているのですから」
「どこまで知っているのです?」
イアリオは尋ねました。
「ひょっとして、私の町から、もうすでに、別の使者がやって来ているのでしょうか?」
トルムオは首を振りました。
「いいえ、使者はあなた、ただ一人。もしくは、ハオスがあなたの町から情報を送ってくるのです。彼とあなたは会って何を話しましたか?彼は特殊な民族の出なのですが、死して、霊魂が言葉をこちらに寄越してくるのですよ。あなたのことも…」
彼女は霊が瞬間に時空を超える力を有していることを知りませんでした。しかし、トルムオが言ったことは事実だろうと自然に思われました。驚くよりも、あの白い光芒を纏った地下でしか出会わなかった男との邂逅を、色々と思い出しました。
「彼に、言われたのです。私が、この街へ来るように」
「そうでしたか」
トルムオは再び目を瞑り、心の中に、ハオスを思い浮かべました。そうして霊たる彼との交流を意図したのではありません。死んだ彼を、供養する、静謐な気持ちになっていたのです。
「クロウルダの運命は…あなたはご存知か?かの魔物とともにあります。それを生涯の役割と認識する、彼らの生き方は、私には止められぬものの、痛い気持ちにはなるのですよ。ですが、彼があなたを連れて来た!その姿勢には誠実に応えねばならない。イアリオ殿。私は別に、正式な町からの使者を出迎えたのではない。ここに、運命の導きが決定した、恐るべき事態を鑑みて、一層の努力を払うために裁かれに来たのです」
「と、いうと?」
彼女の唇がかすかに震えました。
「あなたは使者であると嘘をつき、自分の意志で、ここまで来られた。それがたちまち恐ろしいことだと我々には受け取られるのです。何がこの邂逅を用意したのか。静かに、物静かに考えなければいけない。トラエルの町は、巨大な遺産を懐に抱えて、身動きの取れない、身を縛る町です。かの町の人間は皆それぞれがあの黄金を守らなければならないと、自負している。それは強すぎるくらいです。誰もがその秘密を外へ洩らしてはならないとされる。命を懸けて、彼らは己の町へ閉じ籠もっている」
トルムオはふいに左手を動かしました。イアリオの前で、弧を描き、丸い円を書いて、彼は彼女を見つめました。
「脱出は重罪なり。死をもってあまりある罪だといいます。彼らと、私たちは契約を結んでいます。彼らの町から出て行った者は、私たちの責任で、拘束すると。彼らに引き渡すかこちらで処刑するのかは任されています。ですが、今は、過去と事情が違う。以前ならあなたの身の上は、こちらのものであり、あなたに自由はありません。トラエルの秘密を、我々も洩らすことはできなかったからです。かの町に眠る黄金は、とりもなおさず戦争の火種ですからね。でも今は、それよりももっと大きな畏怖すべき力が目覚めようとしていて、それが一番懸念されるのです。言ってみれば、黄金そのものを司る力が、神とも呼べる威力が、出現の時を待っているのだという、破滅的な懸念です。それもまだ秘密の材料ではあるのですが、だからこそ、あなたとは手を組まねばなりません」
ふいに、細かい木琴の音が、かたかたかたりと、頭上で流れたようでした。シンバルも、鳴りました。
「私は…」
「そうです」
「導かれて、ここに来たと?」
「ええ」
大賢者は頷きました。
「そうですか」
イアリオは、呟くように言いました。むらむらと不思議な怒りが立ち昇ってくるようでした。ですが、この清涼な部屋の空気が無理矢理に荒ぶろうとする心を押し付けました。イアリオは、どうしていいかわからず、座ったまま立ち尽くしていました。自分の息が、あの暗い闇の中でするように、口の周りだけに、押し留まっていました。彼女は、今までの緊張感が連れていった天井の裏にも等しい高さから、一気に引き摺り下ろされて、地べたを這いずり回される、内臓の奥に痛みを覚えるような、命の張り詰めた糸をその身に感じました。彼女の肉体が悲鳴を上げました。心よりも、体の方が、先導していった、その先に、今いるこの場所があったのです。いいえ、どちらが本当は先だったか。何かがずっと、置いてけぼりでした。
彼女の嘘はすでに看破されていました。彼女は手の平で転がる起きあがりこぼしの人形のようでした。彼女の脱出は前々から知られていたのです。彼らはそれをわかっていたというのです。ハオスは、いえハオスが、彼の皮肉な意図でもって、彼女をこの場所まで走って来させたのです。納得ができるでしょうか。物静かに背後でハープがちりんとかき鳴らされました。
でも、彼女は、自分の立場をゆっくりと理解するしかありませんでした。コップの中で、かき回し棒が上下に揺れました。攪拌は切るように、行われました。記憶は混ぜっ返されるのではなく、糸のように、繋ぎ止めていったのです。内容が、おのずとそう繋がっていったのでした。閉じられた部屋に、風が舞ったようでした。イアリオの髪は、揺れてないのに、揺れたみたいでした。
「私の騙りは初めから見破られていて、ここまで連れて来られた、と?そうですか。いいえ、なぜ、それならそうと早くにおっしゃってくれなかったのでしょうか。ここに来る間までの怯えた日にちを返してもらいたいものです。ああ、しかし、それ以上に私はあなた方を疑ってやむなくなってしまいました!信頼してもいいものか、どうか。はっきりとおっしゃってください」
イアリオは困惑を隠そうとしませんでした。ここに来た以上、彼女の今後は向こうに委ねられていることを、十分わかっていたのです。ですが、その要求はトルムオには通じませんでした。
「それは、おそらくこちらからの要望でもありましょう。我々はまだ手を組んでいませんから。いにしえの怪物を退治するのは、おそらくあなたもわかっていらっしゃるとおり、不可能なのですよ。かの魔物を、監視する以外に我々はすることがないのです。ただクロウルダだけが、それを慰めうる…」
紫服の老人は、手を叩きました。四回鳴らされた後で、彼の後方から、かたりと物音がしました。それは木の掛け金を回した音でした。この部屋には裏口がありました。花いっぱいに咲き誇る小さな花壇が、香しい匂いを銀のテーブルまで届けてくれる、美しい庭が向こうにありました。そこへの出入り口が開いて、本棚の傍が、暖かい陽の溜まる場所になって、清涼な部屋に、まことの光が届きました。上二階にガラス張りの窓をこしらえている執務室は十分に明るく感じられていたのですが、それでも、まともな陽光は目に直接柔らかな光を届けてくれました。苦しみが癒されました。そう感じたのはイアリオでした。重い金管楽器の音が響きます。光の中にたくさん咲く花を、人の影が邪魔をしました。彼もまた老人でした。トルムオよりも幾分かは若く見えましたが、厳しい顔つきに、ぼさぼさの髭が似合っていました。彼は細長く、手の指もその背と同じように先細っていました。どこか、病み上がりの人間のような、不健康さを感じさせました。
「初めまして。クロウルダの、ニングという者です。私はハオスの師に当たる者です。イアリオ殿」
イアリオは立ち上がろうとしましたが、ニングがそれを制しました。
「そのままで…いいのです。私もそちらに腰掛けましょう」
彼の声は、前に聞いたハオスのように、いやに響きの良い音声でした。高めの音を出す、金属製の鐘を思わせるものでした。それは祈りのようにも響き、辛気臭さも蓄えていました。
イアリオはふと彼の裾に隠れて少女が立っているのに気づきました。少女は中を窺っていました。金髪のボブ・ヘアーの、人形のような可愛らしい子どもでした。彼女と、イアリオは目を合わせました。二人は、きらきらとした、互いの目つきを認め合いました。出会いには、すぐにもお互いの考えていることが分かり合えてしまう、不思議な最初の邂逅があります。二人の交わした視線はまさにそれでした。お互いに得難い出会いがたった今起きたのだとわかりました。それまでの重たい音色の楽奏は、りんりんと、軽やかに鈴が鳴って曲調を変えたようでした。
その幻の楽器群を奏でていたのは、世界でした。




