第十五章 オルドピスへの道 3.嘘と共鳴
トラエルの町とは、彼女の町では自称しない、オルドピスがその町を呼ぶ呼び方でした。イアリオはいいえ違いますと思わず答えそうになり、思い直しました。彼女は、彼女の町からは絶対にオルドピスなどへ何か連絡を寄越すことはないはずだと考えていました。いくら危急の存亡の時を迎えても、またかの国から物理的なかつ技術的な援助をしてもらっているとしても、黄金の都を守るためには自分たちの力だけを頼みにするように、町の人間には常々覚悟が求められてきたのです。町の運命は町の人間が自らで決めるのです。使者…?そんなものが、かの国に行くことになっていたのでしょうか?そういう約束を、彼女の町は彼らと交わしていたのでしょうか?
だったら…と、彼女は考えました。私の言葉も通じやすくなるかもしれない。考えていたよりもずっと早く、クロウルダにも会えるかも知れないじゃないか!私は決して使者じゃないけれど、途中までならそのふりをして行くことも、こちらのためになるかもしれない。彼女の中で打算が働きました。彼らの言う使者が、ひょっとしたら山脈の外側に出てしまった町人を保護するための方便かもしれないなどとは思い当たらず、深く考えず、またイアリオは行き当たりばったりの計画をぶち立てたのです。
「それは本当にありがたい話です。よろしくお願いします」
彼女は嘘をつきました。必要な嘘というのもあるものだと思ったのですが、それは危うい選択でした。しかしこうして、彼女は一路目的地まで行く手段を獲得したのでした。イアリオは隣を振り向きました。マズグズは、依然怒りに燃えた瞳で、彼らを睨みつけていました。
「本当に行っちゃうの?僕たちの村で、一緒に暮らさない?」
マズグズはそう小さく言いました。彼女は困った顔をしました。
「こんなに気に入ってくれたのはすごく嬉しいけれど、どうしてそんなに私を引き留めるの?」
「あいつらと一緒に行けば、イアリオは森の声が聞こえなくなっちゃうからだよ?森との関係が、変わっちゃうから。僕たちは二度と出会えないかもしれないから」
「どうしてそんな…」
そう言いかけて、彼女ははっとしました。パズルが組み立てられるように、色々なことが有機的に結び付いたのです。森は、彼女にヒマバクのヨグを寄越したとするなら、彼女の命運は一見森に握られているかのようでした。ですが、そうではありません。事態は、彼女に選択肢を与えたのです。実際には一つしかなかったはずの選択が、増えて、彼女に少しだけ自由意志の機会が訪れました。しかしそれまで彼女の取るべき選択肢はただ一つしかないように、彼女には思われていたのです。町から出るべき、隣国へ入って、自分の町で何が起きているか調べるべきという目的だけが。ですがイアリオは、ヨグに連れられて、自分を取り戻して、なおかつ少しばかりの選択肢を得たことで、心理的な余裕ができました。焦燥は彼女を町から連れて行く重要な要素でしたが、もう、今は客観的にも応対できる、ようやく向き合える課題になりました。焦りにまだ突かれつつも、同化はしていないのでした。森との関係は変わっていいものでした。ヨグの導きは彼女を救いましたが、彼女の道程を制御する働きは微塵もしていないのです。
「マズグズ、」
イアリオは彼に言いました。
「私、森に入って、ほんの数日しか知らないわ。あなたが私がヨグといるところを見つけて、村に連れて来てくれて、そして今、ここにいるけれど、森の声はあなたたちより私は聞こえていなかった。ヨグと出会ったのは偶然なの。それこそ、あなたはきっと森の導きとして、考えているけどね。私は森の一部でも何でもない。私は私、ルイーズ=イアリオだ。きっとまた会えるわ!心配しないでもいいんだよ」
「でも…」
「そんなに私が連中と行ってしまうことが嫌い?」
彼は頷きました。
「では、私が信念を押し曲げてしまって、森に棲むことがどれだけ良いことだろうか?」
彼は頷きませんでした。きっと彼女を睨み、それでいて神妙ななりでした。
イアリオは、彼を連れてオルドピス人のキャンプから少し離れた森の中に入りました。
「いい?これはまだ誰にも話しちゃ駄目だけど、実は私のふるさとに、とてつもない怪物がいるの。もうすぐそいつは暴れ出そうとしているわ。私は、その原因を突き止めなければならない。そのために調べに行くのよ、彼らの国へね。何も、私が彼らの国で過ごしたいから行くのではないわ。でもね、マズグズ、私はきっと町に帰る。この山向こうの、閉ざされた場所へ」
マズグズが目を見開きました。
「あの神の山を、越えてきたの!」
「ええ。やっぱり、こちらではあの山脈はそう呼ばれているんだね」
「神様が降りてくるんだ。あの山に、白い光を纏って!」
彼は興奮して頬を赤らめました。
「すごいや!」
イアリオは、すまないような顔をしました。彼女は、ハルロスの日記を通じてこちら側の人々が、山をどのように見ているかを知っていました。彼女はそれを乗り越えてきたのですが、一介の人間が、彼らの神聖視する山岳を制覇しても、とどまるところ、何も得るものはないと思いました。マズグズはいよいよ彼女を尊敬の視線で眺めましたが、そんな価値は自分にはないのにと彼女は思いました。
「伝説では、あの山の向こうにいる人たちは、皆敬虔な神の徒なんだって。勿論、神様のお膝元に居るから!」
「そうね。そうだわ。あそこにいる人たちは、皆信心深い人々よ。だから…」
彼女は、また嘘をつきました。
「神様の神意は、私たちに、こう教えているの。急がなくては。オルドピスへ行き、適切な判断を下せるように、調べ尽くしなさい。怪物が、暴れようとしているから。これはエアロス、暴風が吹く。来たるべきイピリスを迎えるために、準備をしなさいって」
イアリオは、マズグズの表情がみるみる変わっていくのを見ました。彼は、さっと顔を青くし、とても恐ろしいことを聞いたような、怯えた様子を示しました。
「エ、エ…」
彼女は彼の心理を推して「言わなくていいわ」と言いました。彼女ほどその名前の力を今感じている人間はいませんでしたが、きっと、マズグズたちにもエアロスの伝説は伝わっていたのでしょう。しかしその伝説は広く世界に広まっているとは彼女も聞いていましたが、こんな風に強い反応が返ってくるとは思いもしませんでした。
「本当?」
「ええ」
「じゃあ、イアリオは…」
「神様のお膝元で繰り出されることだもの、決して理解できない破滅じゃないけれど、私たちに、猶予を与えてくれたということは、その破滅を止められるということではなくて、すべて、準備しろということなの」
「ヨグはそれを占うんだ。ヒマバクが蟻たちに食われると、破壊と再生が同時に起きるって。神様も意図しないことが。でも、去年は食べられなかった」
「まだその時は来ないわ。でも、近い将来、きっと訪れるの」
「イアリオは…」
「大事な使命を帯びているの」
少年はわかったと言いました。少年は大人びた表情をしました。すっと頬骨が立ち、首筋がするりと引き締まりました。
「我々は大事な客人を迎えたということが、これでわかった。敬意を表します。我々は森と共に生きる。でも、あなたの心は、遥か高い天井を臨んでいる。いつまでもよき隣人でありたい!だから、僕はあなたを送ります」
イアリオは、背筋をぴんと張って、この申し入れを受けました。
「旅の道中、あなたたちの村に入れて良かったわ。そしてヨグにも、感謝してあまりある感謝を。マズグズ、また会いましょうね?神様は、きっと、その邂逅を用意してくれると思うから」
マズグズは、力強く頷きました。
彼の怒りはほとぼりが冷めました。なぜなら、オルドピスこそ、小事となったからです。連中が火を土から出したのも、彼は忘れてしまいました。忘れてもいいことだったのです。火は、彼らの生活する森にとって危険極まるものでしたが、実際、彼らの森は縮小しつつありました。火や伐採による縮小ではなく、自然現象としての進行でした。いつか森から暮らしの場を移す未来が我らの行く手にあることを、とは、来るべきその日を予感した森人の遠い祖先が残した言葉でした。それでも彼らは森のあった一帯から住処を移すことは考えていませんが、徐々に乾燥しつつある森林の周囲の環境は、否が応にも段々と覚悟が求められていました。彼らは森を、神意の表れとしています。でも、その森自体の破壊を誰が起こしているかといえば、やはりそれも神でした。彼らを指して、自然主義だと言いました。彼らは別に森に棲んでいるからそうなのではありません。それは彼らの意志で、生き方に他なりません。
火は彼らを亡ぼす可能性があります。けれど、真に彼らがいなくなることではなかったのです。火は一面的な怒りを煽ります。ですが、消え去るものでもあるのです。火の始末に気をつけろ、ということではありません。火の扱いは、その人間の思想を表していたのです。火は、土の中から出してはいけないというのは、まるでイアリオの故郷が、黄金とそれにまつわる人の欲望を、からきし地面の下から出さない様にしたことにとてもよく似ていました。
マズグズは、許すなどという観念で火のことを忘れたわけではありませんでした。再びオルドピスの人間が、地面の上で火を焚いたのを見れば、また彼は怒るでしょう。彼は、その柔軟な感性が町から出て来ざるをえなかったある人間の過程と響き合って、彼にとって新しい見方が開けたのです。そのために、森人にとっての火の思想が忘れられたのでした。
「僕たちは、どんなことが起きても、イアリオやイアリオのふるさとの無事を願ってる。きっと、ヒマバクのヨグも、そんなはずさ!」
彼女はマズグズに笑いかけて、オルドピス人のキャンプに戻りました。




