第十四章 北の森 5.背を差し伸べる者
急流のような動きの速さは本当はいりませんでした。それに流されるままなら、溺れ死んでいたのです。彼女は一心不乱に山を登り下りして、その勢いのまま、この森林に臨んでいました。休息も取らず、できるだけ速いスピードでそこを出て行くつもりでした。可愛らしい獣との唐突な出会いがなければ、彼女は自分自身を取り戻すこともできませんでした。動物は、昔から人にとって不可分のパートナーとしての役割を持つ種がいましたが、その役割が思わず彼女にとってこのバクに担われたのです。
いつか山際から森の内側へと、バクは進路を取りました。イアリオは安心してこの動物に行き先を任せました。その穏やかな歩みのさなかに先のような脅威には出会いませんでした。頭上を飛び交う者がいても、それは軽やかな音で、時折きいきいと甲高く啼きながら空中で闘争が繰り広げられましたが、人間をついばもうとする大きな嘴が襲いかかることはありませんでした。獣は、彼女を清冽な泉と、細長い水の流れがあるところへ連れていきました。泉に流れ込む水は西の方から来ていて、出て行く水は東へと向かっていました。爪先もあるかないかの小川がたくさん筋をつくり、水泉を中心に、それが扇子状に広がっていました。木が環状に泉の周囲に並び立ち、この空間を守っていました。泉の周りはしんとして静かで、水の流れる音だけがちろちろと鳴っていました。激しく自ら主張していた、植物や土の色はその背景に下がり、獣たちの喧騒も、不思議なほど聞こえなくなりました。森中の存在が、この聖域を侵すべからずとして、自ずから退いているようでした。
イアリオはそこで髪を洗いました。埃を落とし、頭皮まで冷たい水が行き渡るように、長い縮れ毛をかき上げて水飛沫を飛ばしました。バクが、その様子を目を細めて見ていました。うららかで甘い匂いは泉の水のものでした。髪の毛を洗い終えた彼女は水筒を空けて、その水を汲み、思う存分飲みました。小魚が中に棲んでいました。ですがイアリオは獲ろうとは思いませんでした。水だけで十分腹は肥やした感じがして、もっと何か欲しがるなら、それはよくないことだと思われたのでした。バクも鼻を鳴らして彼女の傍に寄って、水を飲んできました。イアリオはやさしくその耳の裏側を掻いてやりました。
「どうして」
イアリオは彼に尋ねました。
「どうして私を乗せたのかしら?私は多分、この森には合わない、餌になるべき身の上じゃなかったの?」
バクはじっと、彼女に目を注ぎました。彼女が何を言いたいかわからないといった風に。彼女は小さく笑いました。
「どうも、いじけてしまって、気分が良くないわ。思いがけない歓迎に、きっと萎縮してしまっているのね。こんなにも私は弱い性根の持ち主だったのかな?まるで弱虫だな、こりゃ」
ずっと…町から出て、それは感じていたことでした。彼女は、周りに人間がいるからこそ自分は強かったのかもしれないと思いました。あの地下でも多分そうで、ハリトやレーゼを連れず、一人で探索していた時も、ピロットのことがあるから強がれていた気がしました。今、まったくの一人で、まったく知らない場所に侵入した途端、こんなにも慌てふためき、結局必死で逃げ出す始末になるとは、なんて自分は頼りないのかと彼女は思い知りました。慌てるだけ、もしくは焦るだけで、その気分のまま浮き足立ってしまっては、遅かれ早かれ猛禽の肥やしにもなったでしょう。己の実力は実はこんなものかと、愕然と彼女は認めさせられました。
まるで彼女に同調するような声で、バクが哀しく鳴きました。彼女はまた彼の耳を掻きました。イアリオはふと、あと何日で自分の誕生日が来るだろうかと思いました。彼女は夏日生まれでした。真夏日に生まれて、重湯に入れられ、体を拭かれ、一声大きく泣いたのです。その時にわずかに動かせる指は、母親の指を掴んだそうです。ぎゅっと握って、放そうとしなかったと、彼女は幼時に母親から聞きました。
そんなことを思い出しつつ、イアリオは元気になりました。結構なリフレッシュが済んだと思い、彼女はバクにお礼を言いました。そして、彼と泉を背にしました。彼女は、もう自分は大丈夫だと思いました。歩むべきペースと道のりを、把握できるだけの余裕を心に持つことができたと考えました。そして、これ以上バクに頼ってしまうことを拒みました。ともかくも東へ進めば、いずれ人里が見つかり、その前に夕暮れが訪れても、きっと安全な寝床が見つかるはずだと、彼女は思うことができました。
しかしそんな彼女を、バクは察して、進行方向に先回りしていました。彼は、彼女をまだ背中に乗っけてあげると言ったのです。
「もう十分だわ」
イアリオは目を細めて、バクに再度感謝を表しました。
「私、あなたのおかげで、自分を取り戻せたもの。もう大丈夫。この足で、行けるから」
それでもバクは動こうとしません。彼女は彼の耳の裏を一撫で撫でて、ぽんぽんと叩き、大きく息を吐くと、彼の背に頭をつけて、その背中に意を決して跨りました。バクは立ち上がり、のそっのそっと泉から離れ、環状に並ぶ木々の間に動物たちの分け入った跡のある、茂みの窪みへと向かいました。
「ねえ、あなたには名前があったりするの?人に慣れてるのだもの、人間があなたに出会っているならば、きっと、素敵な名前を贈ろうとするから」
背中から彼女は彼に声を掛けました。バクは鼻を鳴らしただけでした。でも、どうやら彼女の言葉どおりだと返事したようでした。
「へえ…知りたいなあ」
その時、彼らの後ろ側で何かががさごそと音を立てました。イアリオは注意をそちらに向けませんでした。
褐色の肌の少年が、彼らの後を追いかけていました。
学術の国オルドピスの書庫に所蔵された本には、イアリオが乗ったこの動物について詳しい生態が書かれています。その中でも注目すべきは、この動物が森に住む人間から神聖視された獣だということでした。彼らは「ヒマバク」と呼称されていました。非常に大人しく、象のようにゆったりと歩き、体皮がとても硬いので、天敵はおよそいない動物でした。しかし、森に突如発生する肉食蟻の大群に出遭うと、たちまちに溶かされるように食べられてしまうといいます。ヒマバクは決して人間の家畜になったことはなく、その肉は固くて食べるのに適してはいません。また、大量の排泄をし、森の土で彼の肥料の恩恵を受けていない土壌は皆無だと言われました。ヒマバクがなぜ神聖視されているかというと、彼が森中の土を肥やし、みずからも小さな蟻たちの糧になる諸相から、回転する宇宙をこの動物に見て取ることができるからでした。森の人々からは、彼は森の総意をあらわしていると思われ、転移する命のめぐりそのものを体現していると信じられていました。
イアリオを乗せたヒマバクは、泉から小一時間進んだところで、足を止め背を丸め、彼女に降りるように催促しました。ここで降りろという命令に、彼女は意外な顔をしました。人の住む村まで彼は案内してくれなかったのです。それに、降りるにしてもこの場所は中途半端で、なんら今まで辿ってきた道中と景色は変わりませんでした。ともかくも彼女はバクに感謝して降りました。名残惜しく彼を見るイアリオの視線を背後に、バクはすたすたと行ってしまいました。




