第十四章 北の森 2.山肌の向こう
朝起きると、彼女は茶けた岩石のやや下向きにカーブした面の上に、胎児のように膝を抱えていました。全身が痛くて呻きましたが、眼下の世界をはっきりと眺めて、首を振りました。山裾で小声で歌ったうたは続いています。ここで終わりではありません。イアリオは、鬢をかき上げ、東から昇った太陽の光に黄色く輝く切れ目ない広大な森林を見下ろして、これではすぐに村なんて見つからないわと思いました。まずは、ここから降りたとしても、森を出て行くことが先決でした。しかし、どちらの方向に行けば、最も近いオルドピスの開かれた町へ辿り着けるのか、彼女にはわかりませんでした。あの国の領地とこの山脈は地続きだということは知っているのですが、山脈の北側がこのようにすっぽりとジャングルに覆われているのですから、仮に彼らの村がこの下にあったとしても、見つけるのは骨が折れそうでした。でも、きっと東に向かっていけば、オルドピスの人々に出会える確率は高いと思われました。なぜなら、町とオルドピスの接する領界は、北と東の山脈であると定義されていたからです。(ちなみに、彼女が町から東に聳え立つ山脈を目指さなかったのは、そちらに鉱山があり、山肌に向けられる町人の目が多いと思われるからでした。)とにかくも山を下り、東へ抜ける森のルートを探し出さねばなりません。麓を伝って行くのが確実でしょうか。それとも大河に沿って行くのが正しい道でしょうか。人間の集落があるとすれば、それは必ず水の周りでした。万が一水や食料が尽きることになった場合、川まで行けばそれらは確保もできます。イアリオは狩りは苦手でしたが、漁は並以上の腕を持っていました。けれど、まだまだ十分な糧秣は残っていますし、川に行くにも危険はありました。山脈のこちら側に何が棲んでいるか知りませんから、いつ何に襲われるかも当然わからないのです。森の動物たちが集うところには、それを狙う肉食獣も当然やって来るでしょうから。森を突っ切っていくのがいかにも危ないのなら、いつでも山側に逃げられる、麓周りを辿っていく方が、結局は安全だろうと彼女は判断しました。ジャングルを抜けられれば、見通しが利きますから、それからならば川沿いを行ってもいいだろうと考えました。
さて、そうと決まればとにかく山を下りるルートを見つけ出すまでですが、上りよりも下りの方が、かえって道筋を正しく判断することが難しく思いました。ここから下方へ見通しは悪く、登ってきた南側よりももっと急激な斜面が、絶望的にイアリオの足元に落ち込んでいたのです。しかし、彼女は北側の絶壁の左手に、やや崖がゆるやかになる、降りていけそうな岩場を見出しました。もっとも全身を開き、ロープも巧みに使いながらでなければ降りていけない岩場でしたが、活路はここに見出そうと、イアリオの意志が働きました。パンと干し肉とゆで豆を齧り、水を飲み、トイレもその場で済ませると、荷物をまとめ、彼女は両腕を伸ばしました。痛い箇所は体のあちこちにありましたが、それほど気になりません。一応彼女はこの登山に向かう前から自分なりに激しいトレーニングを積んだりもしていて、それも効果があったのでしょう。ですが、この時は明らかに肉体を精神が凌駕していたでしょう。硬く結った縄を岩の出っ張りに引っ掛け、彼女はそろそろと崖を這い下りていきました。それは、登山時よりまったく違う、より落下の危険が身近に感じる恐怖との闘いでした。まず下を見下ろしながら行くので、いやでも高度を体感しないわけにいきません。それに、山脈の北側の方が南側より風が吹いていました。彼女は運良く天候に恵まれていましたが、ここにきて、どうも怪しくなってきたのです。もくもくと雲が、山の上にかかり出し、冷たい西風が真横から吹きつけてきました。イアリオは慎重に慎重を期する下り方で、ゆっくりと地道に距離を稼いでいきました。ところが、あいにく豪雨があっという間に断崖絶壁をくるみました。岩と岩の間に挟まれたところで、イアリオはじっと嵐をやり過ごしました。しかし、この雨で岩壁が滑りやすくなってしまったことを彼女は恐れました。もっとも森へ下りるまでどこかで睡眠場所も確保しなければなりません。彼女は自分の体力と相談しながら、正確な決断を要求されました。ともかく天気の様子を見て、晴れそうなら少しは行こうと思いました。
イアリオは山肌に背をもたれて、この岩壁の裏側にしてしまった自分の故郷を思いました。どきどきと心臓が高鳴るのを気にしました。子供の頃に初めて遠出をしたような気持ちにもなっていました。そんなに甘い望郷のヴェールで気持ちを覆うのもどうかと思いましたが、まだ、この一枚の山脈を隔てたところに自分の町があるという感覚は、彼女に少女時代の幻影を見せたのです。赤色の甘い木の実も、ぷりぷりとした川魚も、牛の匂いも、地上にもあった廃墟の町も、自分は皆置いてきた。ああ、こんな所に私はいるんだ、どうしてここにいるんだっけと、水玉を落とす憂鬱な空の模様を眺めながらそうした気持ちにもなりました。しかし、雨空は上がり、少々鬱屈した気分に落ちた体を、嫌でも動かさなければならなくなりました。まったく空は晴れ上がり、少しも雲は見当たらなくなってしまいました。風も、穏やかになり、いかにも冒険を後押ししてくれる天候になりました。まだ正午を少しばかり過ぎただけでした。イアリオは崖の影で、この日の昼食を細々と取ると、意を決して、降下に挑戦しました。
いいえ、下へと伸ばした足と手は、まだ、ためらう思いが乗っていました。これまでの冒険の中では珍しくその一歩は躊躇の念がありました。彼女は、惑いながらも、決断を下してきたはずでした。しかし、自分を後押すものは、決して自分自身の意志だけに感じていませんでした。勿論、ハリトやレーゼ、そして自分の母親に、その背をしっかりと押してもらっていたのですが、まるで、何かの流れに流されるように、自分は動かされてきたと思うこともあるのでした。それをして、彼女は「エアロス」という言葉を使い、訳の分からぬ感覚を、レーゼとハリトに何とか説明しようともしたのです。雨脚に遭って、どうしようもない自然の抵抗に遭って、彼女ははっきりと「自分の意志」と「その他の意志」の区別を付け出したところでした。それまでは、それらは如実に混ざっていたのです。
まだまだ冒険の口火を切ったところで、イアリオは如実にも成長し出していました。そして、彼女はためらいの気持ちが足と手の先に乗っていることを感じながらも、がっちりと岩の先端を指は掴み、奇しくも幼い頃の木登りの感覚を携えて、その両手と両脚が自分を安全に降下させていくのも体験しました。裸足に履いた馬革靴も、順調に仕事をこなし、決してやり慣れてはいないロープ捌きも、極端に注意せずとも的確な判断を続けられました。彼女の体はこうして降りていくことに全力を尽くしたのです。
彼女は崖の中ほどに到達しました。辺りは夕暮れを迎え、十分に全身を伸ばすほどの空きがないその岩棚で一泊することになりました。岩壁の端に身を寄せ、寂しく独りで空を仰いで、町を出てからまだ四日しか経っていないのに、彼女は山の裏側の故郷のにぎわいが恋しくなりました。あの子供たちの笑顔にまた会いたくなりました。レーゼとハリトと再び地下にも潜ってみたくなりました。そして、そんな風に今日一日付き合ってきたこのどうしようもない女々しい感情に、いい加減見切りをつけたく思いました。目的は、果たしてこの道程で辿り着けるか確証の無い、しかし辿り着かなければならない、隣国オルドピスへの到着なのですから。
イアリオは眠り、その夜に夢を見ました。子供の頃、共に遊んだ、ピロットとテオルドの顔が浮かびました。そこへ、レーゼとハリトも一緒になって、皆でわいわい騒ぐのでした。火をも囲み、彼女はレーゼに打ち明けました。私は、ピロットのことが好きなのに、どうしたら気持ちを伝えられるかわからない。名渡しの儀式をしようと思うのだけれど、どのようにして彼を誘ってみたらいいだろうか?レーゼは答えました。あなたの思う通りにやればいいじゃないか。タイミングさえ合えばいいんじゃないか?イアリオは頷き、ピロットの所へ行こうとして、立ち止まりました。レーゼは、立ち上がり、彼女を迎える仕草をしました。そこで、イアリオは目を覚ましました。
まだふるさとから遠出してきたとは言い難く、望郷の思いを抱くのも早過ぎるくらいでしたが、強く目を瞑ると、涙が滲み出てきました。これで二十五歳の人間としたら、幼過ぎると彼女は思いました。イアリオは自分の体を鷲掴みました。そして、気力を奮い立たせて、なぜこの場所までやって来たのか、理由をまた確認しました。軽く朝食も済ませ、再び岩壁に足を掛けて、彼女は、斜面をそろそろと、ゆっくりと下っていきました。
下へ下がっていくにつれて、彼女は次第に降りるのに苦労をしなくなりました。傾斜が緩やかになってきたのではなく、岩壁がでこぼことして大分行き易くなったのです。探さずに道は見つけられました。ロープもこれであれば必要はなくなりました。イアリオは自分の手製の手袋と靴の状態を確かめてみました。ここまで来るのに、擦り切れ始めた両者は十分な働きをしました。彼女は手と足からその両方をはずしました。岩石は尖りを失くし、もう裸手裸足の方が勝手よくどんどん行くことができそうだからでした。彼女は道具に口付けして、鞄に戻しました。鞄は、牛革でできていて、イアリオの背中いっぱいほどの大きさですが、非常に軽くて丈夫でした。それは灰色に色付けしてありました。別に町を出て行く際に目立たぬようにしたのではなく、この色が背中にしっくりくるからでした。鞄に結わえた紐を腰と肩に結び付ければ、どんな体勢でもそれは体から落ちることはありませんでした。イアリオは手袋と靴を入れちょっとだけこんもりと膨らみを増した鞄を再び背に背負い、大きく息を吸いました。この冒険で頼りになるのは、自分の感覚と、この鞄の中身だということを、もう一度確かめて。
いよいよ山裾まであと少し。森はすぐ近くです。木の匂いが漂ってきます。山の上から見た森は密集していてその樹の形はよく分からなかったのですが、この辺りの木々は、イアリオの故里の付近にあったような育ちのいい木々ではありませんでした。育ちがいい、とは、まだまっすぐで、しゃんとして立って、それほど互いに枝葉を重ねて自己主張をしていないという意味です。山脈の北側の森の樹木は、もっといびつで、奇怪で、ぐるっと湾曲した幹枝がぐんぐん上に迫っていました。緑も濃くて、むっとして、気をつけなければくらくらする臭気を放ちました。イアリオはもといこの森の辺縁を辿っていくつもりでしたから、そこに分け入るイメージは持ちませんでしたが、さすがにこの深いジャングルに入っていくのは躊躇しました。早く森の切れ目まで行きたいという印象を持ちました。しかし初対面の密林は諸手を上げて彼女を歓迎しているように見えました。安心や安全といった言葉は、この森に対してまったく浮かんできませんでしたが。屈曲した枝葉が手を伸ばしていても、決してフレンドリーではない手の平でした。少しも森に入っていきたくはないイアリオは、それでも土の上の方が岩場よりも歩き易いだろうと、ジャングルの隅をこそこそと進んでいくつもりで、裸の岩場を跳ねるように降りていって土の地面に到着しました。しかし彼女はあまりに用意周到に、森林に出迎えられたように感じられました。イアリオはしかめっ面をしました。彼女にとって初めて外世界で遭遇したものは、こちらは歓迎せざる、未知極まりない古代から息づく捻じ曲がった旺盛な植物たちなのでした。




