第十四章 北の森 1.山越え
イアリオの目の前には、こんもりと生い茂る森と、その頭上に高く天を突くように聳える険しい山がありました。彼女は自分の荷物を確認しました。食料と、予備の着替えと、包帯と、いくつかの薬を入れた箱と、火打石と松明と、縄と靴が鞄には入っていました。彼女は早速レーゼがくれた鏡入りの筒を、目の所に持っていきました。彼女はガラスを見たことがありませんでした。本当は、子供の頃地下で大屋敷の二階でそれを見たことがあるのですが、彼女はそれを忘れていました。ですから、そこに何か嵌っているように見えても、きらきらと光るその表面を、覗き込むには勇気がいりました。透明なのはこの町ではただ水だけなのです。彼女は、まるで水が硬物のように硬くなって、この形になっているのかと思いました。思い切ってそれを覗くと、何が見えているかわからない景色でした。辺りは曙を迎えて、来光がだんだん地面を温めてきていました。澄んだ空気が湿けた気層を吹き払っていきました。望遠鏡が見せたのは生い茂る木の葉の重なりでした。イアリオは、鏡を傾けてもっと高くを覗こうとしました。すぐに、鏡は青くて白っぽい絵の具を重ねたような、変な空域を映しましたが、それは勿論、望遠鏡をはずしてある空でした。空は、この鏡を覗き込むと、こんな風にも見えるのだということは、イアリオの心を温めました。ですが、それが拡大して見ている空だとはまだ彼女は判っていません。
風が起こり、立木が揺すぶられました。彼女は、では、森の木立はどう見えるだろうと覗き口を下方に下げました。すると、その中に狩人たちの集落が、すっぽりと収まって見えました。彼女は望遠鏡を上げて裸眼と見比べました。当然、鏡を覗いた方がまったくはっきりと目に映りました。イアリオは何度も何度も、鏡の見せるものと裸の目が捉える景色とを交互に確かめてみました。あっけに取られた彼女の顔つきは、不思議なものに遭遇し、その正体を知った時の子供のものでした。
「これって凄いな」
彼女はこんな貴重な道具を貸してくれたレーゼにいたく感謝しました。そして、少しだけ寂しくなりました。これは、間違いなく行く手に危険があるかどうか、確かめるためのものだからです。彼女は行かなければなりませんでした。彼やハリトと、このおもちゃを使って楽しむことはできないのです。イアリオは自分の行路を確かめました。彼女は普段町人が見張りを立てている山越えの道は避けて、狩人たちの土地を突き進む計画を立てていました。彼女は狩人たちの生活のパターンもじっくりと調べていました。彼らは何日かに一度村を挙げて狩りに出掛けることがありました。今日がその日であることをイアリオはわかっていました。彼らが狩場を視界に納める前を横切らなければ、見つからずにある程度の所までは進めるはずでした。ですが一番の問題は、目の前に立ちはだかる山を、どのように越えていくかでした。彼女は山登りなんてしたことがありませんでしたし、登山が可能なルートだと思われている所には抜け目なく町の人間の目があったのです。
しかし彼女は、町人の罪人の記録を洗った時、町から出て行こうとして処刑された人間の諸々の情報を参照できました。その際に、一人だけ、山脈を乗り越え、その後その向こう側からこちらへ侵入しようとした人間がいたことを知りました。彼は、一体どの道を辿って向こう側に渡ることができたのか、資料には書いてありませんでしたが、この記録が細い糸のような可能性をともかくも示してくれました。もとい、イアリオはせっつかれるように山越えを目指さねばならなかったのです。天女の言しかり、ハオスの言葉しかりでした。当たって砕けろの精神ではないにしても、彼女は、強い精神力でもってこの無謀な挑戦に臨んだのです。自分の生命は自分に懸かっていました。ですから、無謀であっても恐れてはいませんでした。山登りのために、オルドピスから贈られた本を見て、もしくは自身の歴史の知識から、必要な道具は自分で作りました。靴もそうですし、縄で製作した滑り止めの手袋も用意していました。木登りと山登りでは言うまでもなく勝手が違うでしょうが、木登りの得意だったイアリオは、その時の武器だった縄を最大限利用して登る覚悟でした。彼女は自分のチャレンジを必ず出来るものと信じていました。
ですが、今こうして、朝空の下を山の肌に目を向けて立っていることが、どうしても不思議でした。これからの冒険が、まったく未知の世界に踏み出すことになるのです。どうして自分は、こんなことを望んだのか。考えるまでもないことを、イアリオは考えてみましたが、わざと首を振りました。その時、彼女のまぶたに、つい火が灯りました。熱い火がめらめらと燃えて、揺らめき、うっすらと人の目がその中に見えた気がしました。彼女は目を開き、一体今の幻は何だったのだろうかと振り返りました。オグ…その単語が閃いて、イアリオは唾をごくりと飲みました。そして、一歩を、森の方へ踏み出しました。
「さあ、行こうか」
覚悟の足は、明るい日差しを、夕暮れ色に押し潰さんと、未来へと進みました。さて…イアリオは、もはや町を振り返りませんでしたが、ピロットのことはどうしたでしょう。彼女は記憶を失った彼を一人、洞窟に放っぽいて帰ってきました。それは、その時彼女はあまりに喜び過ぎて、彼が生きていたことを不可思議ではなく必然に捉えたからでした。どうあっても彼は一人で生き抜く力があったのだと、信じ込んだのです。彼女は彼を心配するより彼の能力を信じました。そして、彼女はハリトとレーゼに後を任せました。イアリオはもうピロットのことを考える余裕はなかったのです。彼のことは、すでにもう解決していたのです。その再会によってとてつもない喜びを得たとして、それが後ろ髪を引くことにはなりませんでした。ピロットの帰還こそ、オグの導きがあったことだとしても、それはまだ、彼女に働きかける力ではなかったのです。
冷たい地下水が揺らぐ上に、かの魔物はいました。その場所は世界の原初でした。生まれながらに体に悪を宿すのは誰でしょうか。そして、生まれながらに人と人との間にあるのも。
森林が、斜めに生い茂っています。繁茂するつる草は、とげがあり、熱い匂いを立ち込ませていました。草木はとても元気よく育っていて、イアリオは、この森の中が心地よく感じられました。それは、幼い頃この辺りに遊びに来た記憶と何ら変わっていない感覚でした。その時は、確か、ピロットもテオルドも傍にいました。保護者同伴で、大勢でここに来ていたのです。彼女は、高い木を目指して突き進み、樹に取りつくと枝葉をかき分け登っていきました。ロープはこの樹に使う必要がありませんでした。大人になった彼女に樹木はやさしく枝の手を、方々に差し出していたからです。彼女は苦もなくするするとてっぺん近くに到達しました。そこから、早朝の狩人の村をまた偵察してみました。青々とした茂みの真ん中に、やや禿げた土地があり、そこに藁葺きの家がいくつも建っています。村人たちは、たすき掛けにしたきらやかな編み物と、腰蓑とを身に付けていました。そして、一様に盾と槍とを持った男たちが整列し、歳若き長老に挨拶をしました。女共は彼らを見送ろうと表に出ています。やはり、彼らはこれから狩りに出掛けるのでしょう。しかし、狩場がこれからイアリオが行くルートに重なっているのかどうか、そこまでは窺えません。彼らの狩りは山脈に沿って連なる広大な森の中で行われ、町人たちの管理する田園までは下りてきませんでした。彼女は、このまま彼らがどこへ向かうか見てから行くか、それとももう少し先へ進んでから、また様子を窺ってみるか、判断しました。彼女はするすると樹を降りました。どちらにしても、町から彼らに自分がいなくなったことの連絡がつかないうちに、是非にも山を越えなければなりません。彼女は行程に彼らの邪魔が入らないよう祈り、歩を進めることにしました。
先日は雨が降ったためか、地面が相当にぬかるんでいました。イアリオは山登りなどほとんど初めてですから(丘を含め、急な斜面を登ったことはありました)、かなり登山にてこずりました。足を擦りながら、道なき道を背を屈め渡り、やっと、目標の平地に辿り着きました。森の切れるまでの距離の三分の一を経て、イアリオは改めて高い木に登り、周囲を見渡しました。レーゼから借りた望遠鏡を覗き、狩人たちはこちらとは反対側の森林で狩りを行っているところを確認しました。彼女はほっとしましたが、まだ行く手に障害があります。先住民の部落はこの上側にもう一つあるのです。そこは彼女の登った木の高さとほぼ同じ高度にある湖の、やや上手側にありました。イアリオがその部落に鏡を向けると、住民たちは煙を立てて御飯の準備をしているところでした。丁度正午を回り、イアリオも空腹を感じていました。彼女は目を細め、裸眼でそちらに注意を向けつつ、背中の背負子からパンを取り出してかつかつと食べ始めました。木の上の食事など子供の時以来です。あの頃はわくわくした食事も、今は喉を通らぬ心地がしました。あそこの住民もやはり行く手の森を狩場にしています。しかし今日はそこは集団狩猟の日ではないようなので、食後に人々がどちらに出向いてくるのか、まったくわかりませんでした。彼女は意を決するしかないと思いました。緊張がずっと続くのを覚悟して、彼女はするすると木から降りようとしました。
その時でした。彼女の目線と標高の同じ湖から、わっと何かが立ち昇りました。イアリオは目を瞠りました。巨大な雲が、湖面から怪物のように立ち上がったのです。それは意思持つ者のように、頭を巡らし、じっと、南方のあの墓丘のほうを見遣っているようでした。イアリオはごくりと唾を飲みました。すると怪物の目が、こちらに向き自分の視線とぶつかった気がしました。彼女は全身の神経が逆撫でされる感じがしました。しかしすぐに雲の獣はふんわりとかすんでいって、やがて、霧と消えてしまいました。
その湖は飲むことのできない水を湛えていました。その水は、地下に降って、あのオグのいる地下の湖水となっていました。その水には金属が含まれていました。飲めば体に変調をきたします。実は、その水をテオルドもピロットも飲んでいました。そしてまた、この水の中の成分が、じっくりと溶けて固まっていったのが、あのゴルデスクとフュージでした。オグは浄化された水辺よりもこうした人を憚る水の近くに居を構えました。彼に、その場所を求めさせたのでした。
山腹の狩人たちがこの湖の周りを居住地としていたのは、他に水場があって、また狩場にも適していたからですが、湖畔に住む人々だけでなく原住民の彼らの間では、湖は神聖な人間の還るべき故郷とされていました。何かの重要な儀式をする時、彼らはその湖の水で禊をしました。また、山頂にいてそこから我々子孫を見下ろす先祖たちが、新月の晩にその湖面に集うと言われ続けていました。死霊たちの光がともし火のように、明るく森中を照らし出すこともあり、その際に、子孫にある警告や、啓示や予言を持ってくることもあるのだと言われました。さて、イアリオが見た雲の塊は、一体何だったのでしょうか?それは先祖たちだったのでしょうか?それとも地下の水脈を伝って、もしかしたらオグが姿を現したのでしょうか?生きている人間たちが様々に解釈をすることで、現象はいくつにも喩えられます。ただし、彼女が感じたものは、その怪物と目を合わせたということです。彼女が逆撫でられた、その全身の反応は、その後、再び味わうことになりました。イアリオはこの驚異の感覚を経て、一日で森を突っ切るつもりだった方針を改めてしまいました。不安がもたげたのです。その目に見られたということで、ますます狩人たちのどこに光っているかわからない目を意識したのです。
彼女は、慎重に行動していこうと思いました。本当の目的はオルドピスへ行くことなのですから、ここで無理して捕まってしまっても何の意味もありません。彼女は、夜になるまでここで待って、深夜、動こうと決心しました。それまで、彼女は望遠鏡を使ってこれからの行程を頭に叩き込みました。新月の翌日ですからほとんど星明りだけを頼って森林を進んでいくのです。方角は無論判らなくなります。目指すは山脈から山稜が落ちて西南に伸びている、その山陰です。イアリオはそこまでの起伏と高い木の目印をしっかり頭に入れました。そして夜を待って、いよいよ、暗闇の山登りに挑戦しました。その頃山肌は乾いてぬかるみが減っていました。水捌けの良い地面でした。ある程度山登りにも慣れたイアリオの歩調は、にょっきり突き出た根や岩石を、元気にほいほいとかわしていきました。ぴしりと膝や腕を叩く細くしなる枝や、引っ掻くトゲなどもありましたが、気になりません。まして、聞いたこともない動物の偏狂な鳴き声に、耳を貸す余裕はなく、足元をかすめた小動物らしきものにも構ってはいられませんでした。イアリオは森に棲む者たちを大股でずんずん飛び越えていきました。かすかに頭上で遊んでいる音がする、リスかモモンガの様子にも、心和ませずに、ただ歩き続けました。
目的地まで、夜明けを待たずして彼女は辿り着きました。方向感が優れて良かったのでしょう、ほとんどまっすぐに予定の行路をやって来れました。イアリオは月の見えない夜空を尾根に透かして見上げました。風が、さらさらと森林の頭を撫でていく音にやっと休息を感じました。どっと疲れが押し寄せてきました。イアリオは、小さく歌いました。それは山の夜空を星々が巡る、ロマンチックな歌でした。
かつて遠くへ行こうとしたけど
やっぱりここへ戻ってきた
昔からそれは決まっていること
私はまあるく巡りまわる
つっと細い涙が彼女の目の横から垂れ落ちました。イアリオは少ししんみりしてしまいました。まだこれからなのに、最大の困難はすぐ明日なのに、心がいっぱいに張り裂けました。自分の選択に後悔はありません。しかし、置いてきたものが、たくさんあることに、置いてきて初めてわかったのです。イアリオはこの場所で眠りました。予備の着替えをくるんでいた布に足を突っ込み、布団代わりに巻きつけて、ぐっすり、すやすやと寝てしまいました。二十五歳の女の頬に強い日差しが照りつけて、彼女は目を覚ましました。低い尾根を越して、北東へと駆け昇った太陽が、きらきらと美しく光り輝いていました。イアリオは目を細め、ああ、とあくびをしました。そして、意外なほど体が強張っているのを気にしました。眠ったのは岩場の上でしたから、体の骨が、柔らかい肉に食い込んでいる感じがしました。彼女は少しストレッチをして、さっさと荷物を片付け、パンを一切れ千切って頬張り、水を一口飲みました。まったくここまではうまくいったものだと思いました。ですがこれからが大変です。彼女は頭上に聳える山肌を見上げてみました。目の眩む高さにその頂が見えました。ここまで来て初めて彼女は山越えのルートを見つけ出すつもりでした。彼女の木登りの腕で、越えることのできる道筋は果たしてあるのでしょうか?彼女は、北側に立ちはだかる岩壁の中でも一段と低い尾根に、レーゼから借りた望遠鏡を向けてみました。その頂に辿り着くまでに、つるつるとして見える岩肌を、どうにかして克服しなければなりませんでした。低い背丈の草が、岩壁に取りつくように生えていて、それくらいしか手に掴むことのできるものはないようです。イアリオは別の所を窺いました。すると、なんとかして登り切ることのできるルートは、ここからまっすぐ北に向かって、険しい絶壁ですがともかくも岩肌はごつごつして取り付く島のある急激な傾斜坂しかないようでした。イアリオは微笑んでみました。決して無理だと思わないこと、勇気は必ず心にあること、何事かなすためにはそれが必要だと、彼女は両親に教わっていました。自分の中に余裕を確かめ、彼女は、行けるぞ、という気持ちになりました。イアリオは鞄から縄と、手製の靴と手袋を引っ張り出しました。手袋といっても形は袋っぽくなく、滑り止めのために縄地を使った指抜きの宛てがいでした。それに、靴は彼女の町では履く習慣がありませんから、資料から類推して製作した、馬革を使った巻き上げ紐の、簡素な草履でした。イアリオは山越えの時だけこれらを使用するつもりでしたから、滑らなければ良いのでした。早速それらを装着し、感触を確かめ、よしとして、彼女は手近な岩石によじ登ってみました。思ったよりも登りやすく、これなら木をよじ登るのとは勝手が違うものの、体力さえ持てば、あと天候さえ変わらなければ、行けそうだなと感じられました。肌を切るくらい鋭い角を持つ岩肌を彼女は猿のようにすいすいと乗り越えていきました。しかしさすがにずっと全身を使うハードな運動ですので、歩くよりもはるかに早く体力が消耗されました。まだ正午にもならないうちに、慣れないハードワークにすっかり息を切らしてしまいました。ですが、休めるような場所がありません。依然厳しい傾斜が続き、麓から同じ距離をさらに上方に進まなければ、岩棚にも到着できませんでした。イアリオは一口だけ水を飲むと、再度勇気を奮い立たせて、次の岩石に手をかけました。とにかく勇気は必要でした。背後を振り返ればずいっとそそり立つ絶壁のように行程が垂直に落ち込んで見えました。登っている時は斜めに進んでいるようでも、上から見下ろすと相当の傾斜があったのだとわかります。もし落ちれば…と考えてしまえば、自分の命はそこで終わると判ります。
登る意識に集中すれば、ともかくも恐怖を後ろに残せます。イアリオは、我慢強く体中を使って山の岩壁をゆっくり、じっくり、呼吸を整えながら上がっていきました。その間、少し心が和んだのは、近くの草の実をついばみに、長い嘴の小鳥が飛んできたことでした。茶色の毛並みはふさふさとして、思わず触りたい気持ちになりました。イアリオは、しばらくちゅんちゅんとついばむ小鳥の仕草を見ながら、体を休めるべくリラックスしました。そして、またよじ登り始めました。
それからは一方的に立ち塞がる岩壁の魔物との格闘でした。彼女は、空を見てどのくらいの時間をかけてきたか確認しても、目も眩む高さに現在いながら、今朝方麓から遠く見た岩棚にあとどれくらいで着くか予想もつきませんでした。瞬きをした途端に、右手に掴んだ岩ががらっと崩れ、少し油断もしていたイアリオは慌てふためきました。ここからは縄も上手に使っていった方が良さそうに思いました。ロープをしっかり腰に巻きつけ、円形に縛ったその先を尖った岩に引っ掛けながら、安全をできるだけ確保していきつつまた岩山を登りました。やがて、上に伸ばした手を掛けた岩面がはっきりと平なところまで来ました。上体を持ち上げると、広々とした腰かけ椅子のような岩棚が眼前に開けました。正午からすでに二時間は過ぎていました。彼女は平面に体を投げ出し、はあはあと空を仰ぎながら、うっすらとレーゼのことを考えました。そうすると、なんとしてもこの山を登り切ってやるという一念が、休憩所に来たにもかかわらず沸々と煮える思いになりました。彼女はここで昼食を取り、二時間ほど休んで、再び過酷な登山にチャレンジしました。
ほぼ絶壁を上へ上へ進むにつれて、彼女は空気がだんだんと冷たくなるのを覚えました。また、呼吸も不可思議な苦しさに変わってきました。彼女は山越えを三日か四日かかるものだと考えていました。山を越えた後は、その後一、二週間で、最低でも村か町を見つけ出すつもりでした。食料はそれを考えて用意して食べていました。彼女は一心不乱に登りました。その甲斐あってか、また彼女の運動神経が実はよほど良かったためか、いつのまにか、少しだけ首を上げれば山脈の尾根を視界にするまで高度が高まっていました。もうそろそろ夕闇が立ち込めてきてものの形がはっきりとわからなくなります。どこまで今日は進むべきか、眠れる場所をどこに取るか、彼女は考え始めました。自分の息遣いだけが間近に聞こえ、遠く沈んでいく太陽がゆらゆらしながら赤い光線を送ってくる、この断崖で、またふとイアリオはレーゼの顔を思い出しました。小休憩を取りながらもここまで運んできた体はもう動けなくなるあたりまできました。筋肉の痺れは言うまでもなく、肩も、首も、足の裏も、あちこちがこちこちに固まっていました。ですがほとんど気力で来たこの道程を、遥かに下方に臨んで、彼女は、まだまだ行けるものだと気を奮い立てました。そして、数回、全身を伸ばして岩に手を掛け足掛けていった時…。
ふと目の前が、何もなくなりました。イアリオは、尾根の頂上に来たのです。その時彼女は南を向いた絶壁を真っ直ぐ上に登っていたのではなく、西の方へ斜めに足がかりを探しながら進んでいました。麓から視界にできた尾根は頂を緩やかにつなげていたのですが、彼女が登攀を始めた所より斜め上方、視界の死角に、尾根がほぼ垂直に落ち込んだ箇所があったのです。下からは見えなかった狭い崖と崖との間に、彼女は到達しました。あっと思って、まじまじと、イアリオは切り開かれた壁の北の方角に、疲れているにもかかわらず目を凝らしてみました。すると、そこには見たことのない外世界の風景が、茫漠と広がっていました。南側よりも広大な森林がどこまでも広がり、どこまでつながっているのでしょうか、滔々と流れる大河が二本、北と南から伸びて西と東に、ぐねぐねとくねりながら、森の中を横切っていました。イアリオは、ふるふると震えました。彼女の目が、感動で開きました。言い知れぬ感情が、どこかで沸騰しました。もうここは、町の規定の支配する土地ではなく、その足で、このまま、どこまでも行くことができる天然の大地なのでした。彼女は、つとあのアバラディア古王国の物語を思い出しました。亡びの一途を辿っていた国から一人だけ出る力を具えた、あの厄災を呼び込んでしまった、周囲の森を切り開こうとしたいにしえの男が、自分自身に乗り移ったかのように思いました。
私は、ひょっとしたら彼のように、何か災厄を呼んだりするのだろうか?そうかもしれない。何しろ、町から出て行くということはそうなのだから。
彼女はぎゅっと目を閉じて、それでも新世界を、まるで自分の一部のもののように見つめました。まだ続く、ここからさらに行く道程に広がる、自分の物語は、真下の広大な森林に、その外側に、あるのですから。内側と外側。大地が続いているのに区別されてしまうその領界は、絶対的な区分のもとにありました。左右に股を開いてその両側に足をかけるということは、第一の禁忌でした。イアリオは今、そのどちら側にもいました。イアリオは両側をまたいで考えました。
ちょうど境界にいる私は、今どちら側にいるのだろう。これから行く場所は、勿論外側であるけれど、私はあくまで町の人間だ。でも…そんなことを考えても、どうしようもないわ。今日は寝て、この場所でゆっくり休んで、また明日の冒険に備えなきゃ。彼女は、鞄から出した布切れにくるまり、そのまま眠ってしまいました。




