第十三章 接吻(くちづけ) 9.自分の道
町から北の湿原を通り抜け、イアリオは墓丘のある丘陵地帯まで足を運びました。丘地の翳に、馬を用意したレーゼとハリトが待っていました。彼女は彼らに笑いかけましたが、二人とも、悲壮な表情を貼り付かせていました。
「ありがとう。待たせてごめんね」
「イアリオ…」
ハリトが、まっすぐ突っ込んできて、彼女の懐に飛び込みました。
「あらあら」
「どうしても行かなきゃならないの?」
「うん」
彼女はハリトを引き離し、その首に腕をかけました。
「元気な子どもを産んでちょうだいな。きっと三年後、また同じこの場所で、私に見せに来てね?」
「イアリオ、約束だぜ。必ず生きて帰ってくるって」
「勿論」
イアリオは羽のあるようにくるりと回り、レーゼに近づき、その首に同じように手を伸ばそうとしました。でも、後ろからハリトが彼女を羽交い絞めにしました。
「もっとイアリオと一緒の時間を過ごしていれば良かった。こんなに好きな人だから」
「私もよ」
ハリトはもっと強く相手を抱き締めました。泣いていました。本当の涙でした。イアリオは彼女の手の甲を優しく撫でました。そして、いつまでもこうしてもいいんだよ、と、無言のメッセージを与えました。その瞬間、ハリトは体を離してくれました。思いが伝わりました。
「じゃあ、行こうか」
馬は二頭用意されていました。イアリオは意外な顔をして、レーゼに窺いました。
「俺が途中までついていくよ」
彼は意を決したかのような鋭い眼差しで相手を見つめました。
「あなたに渡すものを、行きながら説明してあげようと思って。それに、俺からどうしても言わなければいけないことがある」
イアリオは何も言いませんでした。彼の中に覚悟の火を見つけたのです。レーゼはハリトを慰め、馬に上りました。イアリオもさっと馬体に飛び乗りました。と、彼女は飛び降りて、ハリトに駆け寄り、その丸い頬に口づけをしました。
「ありがとう。大事な人。もう行くわ。元気でね!」
こうして二人は馬で丘陵を駆けていきました。飛ぶように過ぎていく景色はもうこれで見納めになるのでしょうか。イアリオはそうは思いませんでしたが、ある意味で、そうなりました。町へ戻ってきた時、彼女はもう、元の姿のふるさとを見ることはできませんでした。ですから覚悟があるとはいえ今生の別れのつもりでない彼女の目に、丘陵や、田園や、作物の実る雄々しいつる草、垂れ下がった瑞々しい葉っぱ、遠く聞こえる牛の鳴き声などは、絵のように焼きつきませんでした。二人は駆けていって、風を、にぎやかな町人たちの交わす声のように聞きました。もう後にしたそれは、彼女に懐かしむ間も与えなく、色々と、感謝したい気持ちに変容しました。彼女はこの町を憎しみ、育てられました。齟齬感を持ちながら、生活を用意されました。だんだん遠くに離れていく生まれ場所は、こちらを見つつも、そっぽを向いてしまうように思われました。依然、あの国は地面の下のみを覗いているのです。そこから離れられないのです。イアリオは唇を噛みました。悔しい気持ちが溢れて、故郷を、もう振り返らぬよう立ちはだかる山脈に目を向けました。レーゼは何も言いませんでした。この共乗りの途中で、彼は渡すつもりの道具について、彼女に話をする予定でした。しかし、この別れの時を、そんなにも冷静に迎えられるほど、彼は強くありませんでした。彼の胸は張り裂けそうでした。彼は彼自身の運命をがんじがらめにしてしまった自分を感じていました。俺も、行ってしまおうか。この人と共に、山を越えようか。そんなことまで彼は考えました。彼は今が幸せでした。彼女とともに、二人で、並び走っているこの時が。
夜の間に山脈の麓に到着して、二人は馬を下り、レーゼは彼女に鞍から小さな袋を取り出して、あげました。イアリオはそれを受け取り、中を確かめました。
「何、これ?」
「望遠鏡だよ。親父が特別に表彰されて貰った、オルドピスからの贈られ物で、透明な鏡が入っている。それを覗くと、遠くにあるものがよおく見えるんだ」
イアリオは半信半疑にくるくると小さな筒を回しました。
「狩人にも俺たちにも見つかってはならないんだろう?よく利く目よりももっと便利さ。それと…」
彼は、小袋の下に溜まっているものを指差しました。
「それは金だ。外の世界じゃそれが大事になる。何でもこれと交換してくれるそうだってさ」
イアリオは彼に目を向けました。そんな物を、どうしてレーゼが持っているのでしょう。
「大したことじゃないさ。俺が、親父から成人した記念に貰ったものさ。あんたに預けるよ。返してくれとは言わないぜ。俺だって、あんたと別れるのは辛いんだからさ」
レーゼは長く息をついて、辛そうな目を上げました。
「イアリオ、必ず生きて帰ってこい。俺は待ってるぜ。あんたともう一度会いたいから」
彼は、本心を言えませんでした。今もその唇をぐにぐにと動かすのですが、どうしてもその言葉は現れません。イアリオは、勿論だよと言いかけて、その言葉が、ここではふさわしくないだろうと感じました。彼女はじっと彼を見ました。そして、何かを彼から感じ取りました。惚けたような、香しいような、今まで覚えたことのない、特別な感情が体の底から昇ってくるのを、
イアリオは、今更、知ったのでした。
「じゃあ、こう言わなければならないんだね。レーゼ、」
彼女は、まるでピロットのように、彼の体を抱き締めました。そして、熱い唇を、彼の頬に付けました。
「嬉しいわ。あなたと会えて。だから私は行けるんだわ。ここから、外へね?」
レーゼはもうそれで無言に立ち尽くしました。別れの挨拶が終わってしまったのです。でも、その言葉はどうしても真実で、彼の奥底を、心地よく、快く、くすぐりました。
「イアリオ」
意識しない声が漏れました。彼は燃えるような眼差しをしていました。五メートルほど先へと行った彼女を呼び止めて、レーゼは、ぎっと奥歯を軋らせました。
「行ってくるよ」
「待って」
レーゼは、固く目を瞑りました。行かせたくない。行かせたくなかった。でも、もう、距離は開いてしまった。
待つことはできなくても、待たなければならない。
「待っている」
彼女は頷き、小鳥のように、向こうへ歩いていきました。しかし、少し歩いて、もしかしたら、私の本当の理解者はレーゼだったかもしれないと思いました。こんなにもいとおしい気持ちは初めてでした。相手は六歳も歳の離れた青年だというのに、どうしてこんなにときめくのでしょうか。それは、確かに、初めて出会った時も感じました。北の墓丘で、あの天女たちに遭ったあと、彼女は彼の真剣な眼差しを見ました。自分に叶えられない願い事はしない、と言った彼。それは、夢のためではない、ありえないことを信じるためにしない、自分への宣言だ、と言った彼を、イアリオは大好きになったのです。その時、彼女が好んだのは彼のその考え方だったかもしれません。ですが、今は、その考え方こそ、彼だからこそ具わるものだったと判りました。彼女は、急につらくて、苦しくなりました。ピロットに向けたものとは異なるその想いは、あの時から成熟した、彼女の今の本当の気持ちでした。
彼女は何かを後悔しました。いいえ、彼女はもう何もあの町に残してはいませんでした。町とは関係がありませんでした。彼女自身もまた、あの町に取り憑かれていたのです。彼女は彼と接吻をしていなかったと思いました。いいえ、確かにイアリオは彼の頬に、口を付けました。そうではありませんでした。
彼女はやっと自分の齟齬を発見したのです。彼女はやっと自分の至らなさと誤魔化していた気持ちに気づいたのです。しかし、もう後悔しても遅いのでした。後悔は先に立たずも、後になって、知るのですから。
そして三年後…定められた轍の道は、すべてが直結し、あるひとつの破局へと皆を導きました。しかし、ようやく、イアリオは自分の道を歩き始めたのでした。




