第十三章 接吻(くちづけ) 8.後押すもの
「じゃあ、私は行くよ」
外に出て、開口一番、イアリオは二人に告げました。
「オルドピスへ」
「ええっもうこのまま行っちゃうの?」
「まさか!でもすぐに準備して行くわ。彼と、会えたんだしね」
彼女は颯爽と背中を見せて、前を歩いていきました。初夏の、匂い立つ空気がその衣服を膨らませていました。髪の毛に、光線が混じり、揺れる度に、周りに輝きが振り散るようでした。レーゼはじっとその背中を見つめて、この女性の中で起きた想像し難い変化を臨みました。すると、何か、腑に落ちました。彼女の人生を賭けていたものが、憑き物が落ちたようにその身から剥がれ落ちたのです。彼女はこのまま行くでしょう。何も、この町にもう残してはいないのですから。彼は、自分の指先が震えるのを感じました。さっきの冷気にあてられたのでしょうか。いいえ、何か、途轍もない事柄に目を向けた、自分の感覚を、それは正しく表現したのです。
「ピロットは、煮ても焼いても食えなかった。あいつはきっと、地下を無事に生き延びたんだ。そうでなければ、海の外へ出て、またこちらに戻ってくる間に、ひどい目に遭って、ああなってしまったんだと思うわ。けれどとにかく無事だった。ああよかった!私はほっとしてしまったよ。あいつが、一人でも生きていけるって、目の当たりにしたんだから。だから、私がここにいなくても、あいつは大丈夫だと思った。あいつと一緒にいたいし、あいつの傍にもいてあげたいけれど、もうそんなことは言ってられない。私には、眼前に、やるべきことが見えているから。それに…」
彼女は二人の方を向き、目を伏せました。その視線はどこともなく流されていました。
「あなたたちに、彼は任せることにしたの。私の勝手でも、頼むわ。それで、いいかな?」
「行っちゃうの?」
ハリトがまた同じことを尋ねました。イアリオは頷いて答えました。そして、目を上げて、彼らを一人一人見つめました。いいえ、レーゼは、見つめられませんでした。彼女は無意識に彼と目を逸らしました。ハリトには頼めても、彼には頼めませんでした。
「ピロットが記憶を取り戻すのを待ってから、行くことはできないのか?」
レーゼが訊きました。
「そうした方がいいだろう?彼は、オグを退けたんだぜ?」
「その理由は、あなたたちが聞いてくれるといいわ。私は私で、あの化け物を調べるから。それに、あの怪物を調査することが、私たちの本意じゃない。天女たちの文言を理解するのが、本当の目的だったよね?」
「そうだけど…」
レーゼとイアリオに再びあの焦燥が蘇りました。こうしてはいられないという実感が、ひたすらに大きくなっていく、巨大な不安が、津波のように持ち上がりました。
「そう、だな」
「ね?これしかないのよ」
それでレーゼが納得しても、ハリトは不満を言いました。そこで、イアリオは決定的な言葉を口にしました。
「私は三年後に戻ってくる。そしたら、あなたたちの子供が見られるかもしれないね。ハリト、あなたレーゼと結婚するんでしょう?おめでとう!もう言っとくわ。私たちで、三年後に知り得た情報を持ち寄りましょう!あなたたちには、ピロットが記憶を取り戻したら、どうして今まで生きてこれたか、それに怪物の撃退方法も、聞いておいてほしいわ。あなたたちに任せるから、私は、堂々と町から出て行くの」
彼女の無謀とも言える挑戦は、こうして着実に実践の時を迎えました。レーゼは、自分が代わることはできないかと色々その可能性を調べてみましたが、幾度も、完全な壁にぶつかりました。彼は、この町で生まれて、この町を好きでした。彼女のように、憎んだりすることがあまりありませんでした。彼以上にイアリオは町を愛しているから、出て行くのです。そうでなければ出てゆく力は体に宿りませんから。彼と彼女は違いました。代わりになど到底なれるものではありませんでした。
彼の役割はもう決まっていました。生まれた時から決まっているようでした。西の陽光が長々と彼の顔に降りかかりました。澄明な朝が来て、神秘的な透けた水面を手の平で探って、彼は、言葉を発しました。
「イアリオを、待つ」
彼女は、昨日の別れ際、こう言っていました。
「月の無い夜に、また集まろうね」
「三年間、そして新月まで、俺は待つんだ」
その翌朝、レーゼは、自分に言い聞かせました。
「彼女が戻ってくるのを。そうしたら、俺たちは、天女の言った言葉を何もかも知ることができるように思うから」
それは、その通りになりました。レーゼは息を吸って、水をざぶんと被りました。
彼、クリシュタ=レーゼは、それから数日間、仕事に手がつきませんでした。寝床でハリトを抱くも、手に力が込められませんでした。彼はじっとして、彼女に掛けられなかった本当の声を、ただただ、確かめていました。彼は後悔はしていませんでした。ですが、彼女をその近くから離してしまう寂寥感は、耐えられるものではありませんでした。彼の運命は決していました。彼はハリトと共に生きるのです。そして、粛々とこの町の未来を迎えるのです。彼は知ります。彼はハリトと共にこれから幾度も、またあの地下に潜ります。それは、あたかもいなくなった人を思い偲ぶためにも。イアリオが、そうしていたように。心に言い知れぬ焦燥があっても、訳知らぬ不安が存在しても、彼はそれ以上変わりません。彼は町から出て行きません。どうしても、この町が天女の言葉通りの道のりを辿っていることが今後わかってきても、足音を立てて背後から破局点が迫ってきても、彼は、一途にイアリオが帰ってくるのを待つことになります。
現在の彼は、イアリオと同じく、その破滅の足音を聞いていても、ハリトを抱いて、そして己の夢の実現へ向けて行かなければなりませんでした。一方イアリオは、粛々と自分の担っていた仕事が別の人間に引継げるよう用意を秘密に進めていました。彼女がいなくなっても、しかも、突然行方不明になっても、また捕まって処刑されても、授業や、議会の議事録作りなどを手伝える人間をこの半年で十分に育てていました。立つ鳥跡を濁さぬように、周到な準備はほぼ完璧に終えていたのでした。ただし、彼女は両親にちゃんと告げねばならないと思っていました。当然父親は反対するでしょう。しかし、彼女の母親は、一体どう思うか彼女には判らないところがありました。無論彼女を引き止めるでしょう。その時、私は、もしかしたら自分の意志を翻してしまうかもしれない。彼女にはそのような予感があるくらい、母親のことはわかりませんでした。
それでも告白しなければなりませんでした。自分が育ったこの町を、愛しているからです。
立つ鳥跡を濁さず。彼女にとって、これは大事なことでしたが、彼女が愛していると理解した町が…彼女の故郷が、出て行けと自分に言っているようにも感じていました。それも、厳然とした、深く包み込むような声で。故郷に別れを告げるとするならば、その相手は必然的に誰でしょう。彼女は手紙を用意しました(手紙といっても、紐でひとくくりにした何枚も重ねた薄い石版です)。扉を開いていよいよ玄関口から彼女の冒険が始まろうとする時、イアリオはそっと自宅の共用机にその手紙を乗せようとして、向こう側で静かに窓から星空を眺める母親と、視線が会いました。この時間に相手が起きていることは珍しくありませんでした。しかしイアリオは両親が寝静まった様子も見ていました。彼女は無言の挨拶をすることにしたのです。ところが、まるで申し合わせたように、手紙の置かれた台所の机の真っ直ぐ向こうの石椅子の上に、その女性は静かに静かに座っていました。イアリオにとって、この女性はあまりに神秘的でした。つかみどころのない性格で、ちゃんとした物の考えを持っているのは判りましたが、いつも冷静で、慌てたところがありませんでした。彼女によく似た目をしていて、その涼しげな目許は、慈しみの深さと冷然な判断とを兼ね揃えていました。イアリオは母親をずっと恐れてもいました。よほどの事でなければ何かを頼んだりできませんでしたし、幼い頃はともかく、物心ついて甘えたことはありませんでした。
ですが彼女は、この母親に随分信頼されているとは思っていました。どこにもその目があって、地下へ一人で入っていく時でさえも、自分の背中を押してくれているのを感じていました。しかし彼女は、今回の旅においてはずっと母の視線からも隠れて計画を立ててきました。
彼女はしんとした部屋の中で、ほのかな青白い光にちりちりの髪の毛を洗われている母親の前に立ち、何も怖さを感じていませんでした。その人を恐れるも、その恐れは、自分という存在をどこまでも想いながら見つめている目に晒されているからでした。イアリオは、母に正直に告げました。今から、この町を出て行きます。理由は、これこれ、こういった具合だから。彼女はできるだけかいつまんで説明しました。それきりの弁解で、相手に納得してもらうのは無理でも。
母親は、彼女が準備した鞄と水筒との旅支度を見て、うんと頷きました。
「いってらっしゃい」
イアリオは驚きました。
「どうして?」
「あなたは、自分が何を考えているか、結構私によく話してくれたね。必ず、肝心なことは話すね。だから、あなたを気持ちよく送り出すことにするの」
「どうして…?」
「あなたは、自分が地下にいる死んだ人たちを慰めたい、と言っていたね。そのために、子供たち二人を連れて行くのも、よくないことだと考えていると。あたなはいつも、強い意志で、自分自身の悩みに臨んだわ。私は頷くだけだった。
あなたがまた別に何か計画して準備していたのはわかっていたよ。それも、命の懸かることをね。そうでなければ、あんな風に、あなたが変わっていくことはないだろうから。もしかしたら、こうしたことになることも前から私は考えていたわ。私の方にも、覚悟が必要なんだって」
イアリオは気をつけの姿勢を取りました。
「意志が弱ければ止めているはず。大分覚悟の上なんでしょ?そうでなきゃ、母に、計画を教える?自分が、捕まって罰を下されてしまうかもしれないことを」
イアリオはもうその場所に膝をついてしまいたい気持ちでした。そして、何もかもなくしても、この人を世話したいという思いに満ちました。
「ええ。でも、私に教えてくれたから、それでもう十分。あなたにどんなものが降りかかっても、私はここから見ていますから。行ってきなさい」
イアリオは、自分の命を懸けて出て行くということが、その覚悟がどこか大したことのないようにも思えました。彼女は信頼されていました。その信用も、半端なものではありませんでした。彼女は、誰かからそういった信頼を得ようとしていたところがありましたが、自分の心の弱さは今ここで、看破されて、もっと底の、本当の強さのところを見てもらっていると分かりました。彼女は、何とも言えない沸々としたものを覚えました。目を閉じ、開き、自分の母をしっかりと見つめました。もうどんなことがあっても、自分は無事であるという確信に、彼女は満ちました。
「行ってきます」
そう言って、ついに、イアリオは自分の家を出て行きました。
この町での出来事は…必ず彼女の人格を形作ってきたものでした。イアリオは、この町を出て、まったく未知の世界へ飛び出すのですが、それへの恐れはありませんでした。ただ、町が彼女を捕まえようとしてその両翼を閉じていることが、愛する故郷であるのに、憎まなければならないということが、ありました。イアリオは振り返り、この真珠のような白い町並みをしっかりと目に留め、颯爽と歩き出しました。彼女に背後にされたのは、星空からたよりない光線が送られている、まるで命の焔が小さく燃え、ほのかにあたたかく輝く、世界のどこにも知られない小国でした。そこは、死滅した都の真上に築かれた、砂上の楼閣でした。脆くも崩れて、一気に消滅しても、そんなことは世界中が知り得ませんでした。町の命は、町の人間が握り締めているのではなく、大世界の手の平の上に、それはあるのに。
町は、自ら亡びを決したのです。始めから、そして、最後まで。




