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破滅の町 (分割版)  作者: keisenyo
第二部 前
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第十三章 接吻(くちづけ) 7.導きの運命(さだめ)

 イアリオは歩きながら静かな湖面を見つめました。ここにひょっとしたらハオスが喰らわれたかの魔物がいるのかもしれませんが、仮にオグがいても、どうでもいいと思いました。彼女は知るためにこそここにいましたが、かの魔物を見ても、それと対峙しても、自分にできることは何もないのです。いにしえがそこに現れていても、自分は、もう後戻りのできない旅に行こうとしているのです。命を懸けて。そして、彼女そのものと対峙せんとしていたのです。今、ここでオグが現れても、彼女が知るべきことは何も見えないのです。それをどうしてかよくわかっていた彼女はぞっとするほど冷たい湖の水を、懐かしむように見ました。イアリオは遠く湖水に張り出した岩壁の向こうも見透かしました。そこには彼らからは見えない湖面が想像できないほどずっと広がっていましたが、ぬっと突き出した壁が視界も行く手も遮っていました。すると、その反対側に、ふいに白い光が現れました。彼女は右手にあるその岩壁から、左手の岸辺に目を移しました。彼女は目を瞠りました。光の中にいるのは、彼女たちのような衣服に身を包めた、憂いに満ちた顔の女性だったのです。女性の着ている上着のセジルは今のものよりもずっと簡素で腰から下が縫い止められていません。女性の下穿きはこの地方で「パンセ」と呼ぶスカートを、もっと長くしてあり踝まで裾が垂れていました。イアリオはぎくりとしました。あの顔は、もしかしたら、北の墓丘に天女たちが集った光の中に見出していたかもしれなかったのです。女は、やつれ疲れた頬をしていて、生命力がありませんでした。幽霊ならそのはずでしょうか。でも、何か、死後の憂慮とでもいうべきものがあるのなら、それに取り憑かれた者の顔つきでした。白い光はその女性の霊魂そのものでした。その光は女性の体にいいように収まらず、誰かを求めて、ついぞ外に溢れていたのです。女はイアリオたちを見ました。そして何か言いたげでした。しかし、女の目的は三人にはなく、湖の上の、あるものにありました。彼女は手を広げて、空間にその腕を伸ばしました。すると、湖面が急にざわざわと波立ち始め、巨大な塊が上からその中にぼちゃんと落ちたかと思うと、鎌首をもたげた霧の魔物がぞわりぞわりと立ち上がりました。

 イアリオたちは戦慄し、声が出せませんでした。ずっとそこにオグはいたのです。女の合図で出てきた魔物は、じっと女を見つめ、動きません。その体である霧の、一粒一粒は人間の悪意です。魔物の中にはたくさんの宇宙が漂っていました。人の悪が醸し出す記憶と激情の渦でできた宇宙です。生きている人間は、皆、その中に自分の一部を探ろうと思えばできました。それは、彼らのものだったのですから。ですが、彼らの悪は、この魔物の中に、所在を定めていました。彼らのものでありながら、彼らからそれは離れていました。なぜでしょうか。その中にあるものは、全部が、同じ種類のものだからでした。悪は塊となり、人を襲うのです。

 光の幽霊はオグに手を差し伸ばしました。オグは、それに応えて、自分の巨体をゆっくり彼女に倒しました。両者が重なる時、新しい悪が誕生しました。オグは、女を取り込み、もだえました。それまで明確な形を持っていた霧の粒子が、湖面にどさりと崩れ落ちました。そして、速やかな溶解が始まりました。霊がうたって溶けたのです。自分自身の一部の中に。

 イアリオはひんやりした妖気を感じました。何か、危険が、こちらを向いて流れてくるようでした。彼女は急いで岸辺から離れて、レーゼとハリトを呼び、この場所から出て行こうとしました。ぞくぞくと意思ある手が彼らに伸ばされました。何本も、白く、地面を這い進んできました。ほどけた悪魔が、彼らの足を掴もうとして、素早く移動し始めました。徐々に、徐々にそれは走る彼らに追いついていきました。まるでそちらに下り坂があるように、霧の粒子は、水のごとく流れていったのです。

 霧が、その足に触れるか触れないかのところで、二人を先に送り、最後尾を走っていたレーゼの肩を、誰かが掴みました。彼は絶叫して、振り向く間もなく転びました。イアリオは彼の声に反転して、さっと懐からナイフを取り出しました。それは探索用のナイフですので、大した武力もないのですが、彼女は、レーゼが捕らわれてしまったのであれば、このままハリトを連れて自分たちだけでも逃げようと考えました。そのように考えたはずでしたが、彼女は、武器を取り霧に対峙しました。

 ぼんやりとした人影が彼女たちの前に立ちはだかっていました。人影はイアリオに背を向け、霧の魔物と相対して、じっと睨み合いました。魔物の手足は幾本もざわざわと揺れて、彼と、無言の会話を交わしました。

「大丈夫だ。霧はもう襲ってはこない」

 彼はそう言い、面をこちらに向けました。

「私がいるから、危険は去ったのだ」

 その顔に、彼女は見覚えがありました。いいえ、これほどに、驚愕し驚嘆したことなどありませんでした。まさか、まさか…!

 男は痩せた上半身をさらけ出していました。下穿きは見知らぬものでした。彼は、銀色の目をして獣のような酷薄な顔面でした。成長した彼は、まさに、野生で育った狼でした。

「ピ、ピロッ…」

「でも、ここは危ないから、もう、行った方がいい」

 彼は立ち去ろうとしました。彼の目はイアリオを見ませんでした。彼は、ちらりとその素足に目を細めただけでした。どろどろと不気味な鼓の音が、湖の方へ引いていきました。レーゼとハリトはやっと息を吐いて、安全がこの場所にあることを確かめました。

 しかし、二人とも、異常なほど驚いて固まったイアリオの顔と、男の異様な風体に、目を奪われました。イアリオが握り締めたナイフは、その刃を男に向けていました。彼女の手は、震えていました。

 イアリオはその心臓を飛び出しそうなくらいばくばくとさせて、彼にかけるべき言葉を、あてどなく探しました。その時、彼の目が彼女が握ったままのナイフに止まりました。彼女ははっとして、切っ先を懐に隠しました。ですが、どうしたらいいのかわかりません。

「ルイーズ」

 彼は、彼女の下の名前を呼びました。

「二度とこの場所に来るな。忠告はたった一度だ」

 行ってしまう!行ってしまう!イアリオは、彼の名を呼ぼうとして、震える喉を、幾度か開きかけましたが、この十年を越える歳月が、彼を想い続けた心の呪縛が、そうさせてくれませんでした。しかし、相手は目を上げました。そして、彼女と目を合わせました。それで、彼女には懐かしい気持ちが、愛情が、彼がいなくなる前の泉の記憶が、暴風のごとく溢れ返りました。彼女の全身が一斉にとてつもない地震に襲われて、全身が、愛しかった心に満ちました。

 彼は、ぷいと視線を逸らしました。イアリオはようやく自由になりました。「教えて?」彼女の懇願は確かに空気を震わせて彼の耳に届きました。

「どうして、オグを、退却させたの?」

 彼はもう一度振り返って、口を開きかけて、目で合図しました。無言でついてこいと言ったのでした。三人はおとなしく彼についていきました。湖を回り、左手の奥の洞窟の中に、彼らは入りました。そこには、つららのように垂れ下がった鍾乳石と、地面からにょきにょきと生えた奇妙な岩石があり、湖の周りとは異なり黒くなくむしろ白みがかっていました。そこは圧倒的な年月の古さを蓄えた、まったく古代の次元の景色を用意していました。彼はある一つの石に座りました。そして、片手にあごを乗せました。

「もう少し奥には金銀に光る石があって、それはゴルデスク、フュージと呼ばれる金属だ。オグが棲んでいる所によくできるらしい。オグと同じく、人間を惑わす」

 彼は、傍から一つ石を取り上げ、彼らに見せました。

「これがゴルデスクだ。気を付けて、持った者を虜にしようとするから」

 最初に渡されたハリトが松明にかざすと、その塊は毒々しい色の黄金を輝かせて、蠱惑的な表情を浮かべました。きらきらしい毒素が表面から顕れて、こちらの心理の影を、深く深く潜っていくようでした。金属は意外に重たくて、ハリトは持っているだけで腕が痺れてきました。ですが、その塊を放したくなくて、目が吸い込まれるままに、じっと見つめ続けました。イアリオがぽんと彼女の肩を叩き、それでハリトははっと我に返りました。

 イアリオは何度もこの石と男とを見比べました。どうして彼が生きてこの洞窟にいるのか、一体どうしてこの十三年間生き延びてきたのか、彼について、知りたいことや、知らなければならないことが山のようにありました。ですが、質問は何一つ口をついて出ていきませんでした。詰まっていたわけではなくて、この場にいるだけで、もう本当に満ち足りていたのでした。

「外でその石を眺めてみるといい。オグはまさにその石だから」

「あなたは何者です?イアリオの名前も知っていた。でも、その出立ちは上の町の者じゃない」

 レーゼは警戒するように言いました。

「私か?私は誰だ?何も知らない」

 戦慄する空気がその場に走りました。男は、ぼんやりした視線を各人に送りました。

「でも、彼女の本当の名前をあなたは言った。名渡しの儀式をしたんでしょう?なら、町の人間のはずなのに、ああ、もしかしたら…!」

 彼はついに判りました。この男が、長年イアリオが無事を祈り、あの墓丘で願を掛けたその人だと。彼は不可思議な心地になりました。イアリオは、上の町から出て行って、途方もない冒険に出掛けて行かなければならないというのに、よりによって、彼女の懸念していた最大の事跡が、今ここで、解決をみたのです。それは全員が期待したものでした。こうであればいいのにという願いが届けられたのです。しかし、ここは洞窟の中でした。暗い闇の内部で想いは実現したのでした。

 どろどろと太鼓の音が、果てしない過去に鳴り響きました。奇跡を望んだのは誰でしょう。

「ああ、しかし、その人の名前は知っている。確か、ルイーズ。そうか、君は、ルイーズ=イアリオという名前か」

 イアリオは彼に名前を呼ばれ、弾け飛びそうな気分を必死で抑えました。嬉しくて、悲しくて、つらくて、激しい喜びと困惑に貫かれて、今までとは別の悶えが溌剌と燃え立ちました。

「ピ、いや、あの、…、ピ・ロ・ッ・ト」

 彼女は区切り区切り呼びました。ここで、彼の下の名前を言うことはできませんでした。言ってしまえば、もう、心は押し込めておけないからでした。

「あなたは、入江から海に出て行ったんじゃなくて?ずっとこの洞窟の中にいたの?」

「わからない。何もわからないんだ。しかし、私の名前は、ルイーズ、ピロットなのか」

 イアリオは思わず首を振りました。もう泣き出しそうでした。ここで下の名を言ってはならないのです。彼にも、自分の名前を言ってもらいたくはありませんでした。その度に、ずしん、ずしんと、胸が軋むのですから。十三年の想いが…それ以上の感情が…。


 しかし、彼は、本当の彼女の同伴者でしょうか。でもその時、確かに、イアリオは誰よりも美しい目をしていたことに、心を奪われてしまったのは、傍らの青年でした。


 ピロットはどこか哀しげな目をして首振る相手を見つめて、溜息をつきました。

「どうやら、私は記憶をなくしたらしい。何を今までやっていたのか、何も思い出せないんだ。だから、放っておいてくれないか。そう、あのオグについても、私はもう何も記憶にない。なくなってしまったから」

 力なく痩せ細った肩を落としたピロットを見て、イアリオは、母のような気持ちになりました。よく無事で、生きていてくれたと、自分の願望が叶ったかどうかではなくて。彼女は、落ち込む様子のピロットの、両肩に、手を置きました。そして、彼の体を、ゆっくりと、時間をかけて、柔らかく、刷り込むように、抱き締めました。彼も美しい目をしました。そして、彼女の名前を、もう一度、小さく呟きました。

 イアリオは、ぎゅっと力を込めて彼を抱き締め、体を離しました。

「まだ、感謝していなかったね。オグから、私たちを助けてくれてありがとう」

 彼女は笑いました。

「ねえ、ピロット。また会えるかな?」

 ピロットは、顔を上げて、彼女と視線を交わし、その頬に、朱の兆しを見せて言いました。

「ああ、ああ」

「ずっとここにいる?」

「わからない。それはわからない」

「町は、あなたを歓迎するから。いつでも上に上っていらっしゃいな。あなたを忘れたとは言わせない。でも、できるならこの二人を頼ってね。私は、町から出て行くからさ」

 レーゼもハリトも、イアリオに目を瞠りました。彼女が、ここでその宣言をしたことにびっくりしたのです。

「お願いね?」

 イアリオは、また、彼女のぬくもりと柔らかさを彼に染み込ませようとして、ピロットを腕の中に引き寄せました。彼は、目を瞑り、その感触に身を委ねました。そうして、三人は湖のほとりの穴から出て行きました。

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