第十三章 接吻(くちづけ) 6.式典の後
多く…自分の家族をも殺して、すべてを破壊し尽くそうとするような若者の意思は、テオルドの中に、非常に集約されていました。彼は、勿論オグだから、人間の破滅への意図を過去も今も未来をも含めて感じ取っています。彼は悪なのです。彼はその先に行かなければなりません。
彼は終末期の悪でした。
式典から逃げ出したハリトは、自宅のベッドにうずくまり、誰をも、レーゼをも求めませんでした。あの真っ赤に燃え上がるような血液が、彼女の胸を焦がしました。どきどきと、心臓が力強く鳴っています。血など、珍しいものではありません。殴り合いの喧嘩に出くわせば、血は飛び出します。ですが、彼女は元々こうした野蛮なものを好む傾向があったのです。レーゼの手前でおとなしくなっていたシオン=ハリトは、こうしてかつての自分を思い出したのです。いいえ、彼女は彼女らしく成長したはずでした。針子の仕事を目指すようになったのも、レーゼと、イアリオに会ったからでした。ですが彼女は何が自分そのものを形作っているか分かりませんでした。
ハリトはオグと出会ったことで、その心がふわふわと所在を定めなくなっていました。オグは、いつまでも変わらないものです。彼の意思は、悪にあり、いつまでも囚われて、そこから出ることはできないのです。悪意など珍しいものではありません。ですが、変化する日常の間にあって初めて人間の前にそれは現れます。どこか遠くにあるのではありません。彼女は、自分の中の悪を、どこか遠くへ遠ざけました。大事なものとしたのです。その輝きは黄金に勝るとも劣りません。彼女は今の自分から、いつでも戻れるように、自分の大事な一部をそこへ匿ったのです。彼女は鋭く怯えました。変わってしまうことを恐れました。彼女はいつまでもレーゼとイアリオと一緒にいたいと願い、それはかなわなくなってしまったのです。彼女は大好きなイアリオを留めておくために、レーゼを誘惑したのです。しかし、大事なものは、三人で共有されるものではありませんでした。悪意はどうしても彼女自身のものでした。彼女が、自分のものとしなければならないものでした。
オグが隈なく広がります。
式典は、その後再び開催されましたが、その前に痛切な悲しみを伴う葬儀が何日か開かれました。人々はなぜ、若者たちがこんなことを起こしたか、想像するに無理でした。突然の、まったくの悲劇に、誰もが口を閉ざし、お通夜は普段以上に重々しく悲哀に染められました。鉱山の落盤事故とも、川の氾濫による子供たちの溺死とも、全然異なる悲壮がありました。その一件には、悲しみに暮れる理由が見つからないのです。彼らは自殺したのです。悲嘆は絶望ともなりました。未来を志向することのできない、悲哀だったのです。ある人々は幾年か以前のラベルの自殺を思い出しました。あれも、理由の見つからない悲劇でしたが、これほどまでに重々しくはありませんでした。彼らが鈍感だったということはできません。ただラベルが、そしてこの件に巻き込まれてしまった若者たちが、まみえた事実が、どうしようもなかったことだったのです。日常の水面下での出来事は、後であますことなくこの紙面に書き記しましょう。今は、イアリオの心理を追って、彼女が町から出て行くまでをつづりましょう。
彼女は仕事に追われていました。彼女は、この儀式が終了次第、町から出て行くつもりでしたが、ハリトやレーゼが彼女の出立を遅らせる気にさせるまでもなく、町に残らなければなりませんでした。若者や子供たちの心のケアに奔走しなければならなかったのです。それに、議会の議事も大量にあって、二つの仕事に忙殺されました。ようやく落ち着いたのは春も過ぎて夏に差し掛かる季節でした。うららかな陽気が過ぎて、一層草葉がその緑を雄々しく濃くしていく銀色の日差しが訪れて、人々は初春の哀惜も消えてはいませんでしたが、前を向いて少しずつ進むことができるようになりました。こうしてやっとイアリオは自分がすべきことに向き合えるようになりました。彼女をしても、生きてきた年月を推してこの年の最初にあった悲しむべき一件は心にひび割れるような思いでした。彼女は、行くべきかどうか、迷いました。子供たちの恐怖と苛立ちに付き合う日々を過ぎて、どれほど自分が役に立つか改めてわかったのです。彼らのそばにいなければならない役目を感じたのです。彼女は負い目を気にしました。彼女は、別に生まれたこの故郷を捨てていくのではありません。ですが、このまま行けば、やはり町人であることを放棄するのです。教師である自分を投げ捨てるのです。戻ったとしても、彼女は必ず咎められます。その時、訪れるのは処刑でした。それでも行かなければならない理由は、果たして、納得するほどに心にあるのでしょうか?イアリオは日々苦悩しました。どうしてこんな決断をしてしまったのだろうと後悔しました。けれど、心にはあの焦燥が戻り、どうしても出て行かなくてはならない理由も、徐々に心の中に収まっていきました。
(今年初めの一件も、必ず天女たちの言につながっているのだわ)
こう考える度に、彼女はぞくりとしました。
(当事者たちの物の考えはわからなかった。けれど、何かに突き動かされて、彼らは事件を起こしたんだ)
彼女の教え子もその中にはいました。彼女は眉間に皺を寄せ、その日はそのままずっと、一晩を明かしました。明くる朝、イアリオは、自分の心と体が一致するのを覚えました。完全な気分となった時、彼女は、かつてした決意に目覚めました。
「きっと私の何かが麻痺している。尋常じゃないわ。私、生きたくないのかな?いいや、ピロットの喪失から、もう、これは決まっていたことなんだ。私はこの町を憎み、そして愛している。そして私は、いてもたってもいられない。必ず帰るわ。でも、その時に私は憎まれる。きっと蔑まれるでしょう。それでも行かなきゃ」
その理由は彼女の感覚にしか存在しません。共感は望まれません。
白い光たちが彼女に語り掛けます。この町は、滅びる。滅びなくてはならない。行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。オグ、オグ、オグがいる。かの町には溢れ出ようとしているから。古い魔物、オグと、古い死人、あの街に封じられた人々が。
イアリオは稲妻が目の中で閃いたような気がしました。その中に見えたものは、この町の未来でした。ああ、行かなきゃ。行かなきゃ。行かなきゃ。こうしてはいられない。止めるために?そうではない。そうではない。
私は…知らなければならないのだから。
彼女は地下にいる亡者たち、天女たち、そしてオグの意志を感じていました。この町の意志をも。
彼女は行かなければなりませんでした。
太鼓の音色が、遠くで鳴っていました。彼女は、行く前に、もう一度、地面の下に潜る必要があると思いました。ハリトたちとは、事件のあった成人式の前にも、また何度か潜っていました。ですがオグにも何にも会いませんでした。彼女たちは地下に目的を失いました。ハオスは恐らくは湖の傍らになった骨でした。彼はイアリオに「オルドピスに行け」と言っていました。「ただ知ることはできよう。我らの仲間に会いに行くといい。この町は、破滅を望んでいる。どうしようもない事実だから。」彼は、イアリオに何もできることはないと言いました。あれから繰り返し地下に臨んでも、彼女が確認できたことといえば、その、彼の指示のみでした。彼女は物言わぬ骨を眺めました。灯火の下で、彼の頭骨は、真っ暗な目の穴を空けて、彼女を見つめ返しました。なぜクロウルダはこのような生き方を選んでいたのでしょうか。その疑問ももはや、彼女が町から出て行かなくては知りえませんでした。
それらすべてを捨てて、この町に生きる選択も、もう、彼女にはできませんでした。
それは確認のためでした。三人は再び都に下りて、そこからつながる地下道と洞窟とに入りました。そして、その先の、湖の岸辺に行きました。これが最後の探索であると、ハリトもレーゼも知っていました。イアリオがそのように申し渡していましたし、彼らも、その覚悟を付けるようにこの半年以上の期間を彼女から猶予されていたのです。いくら二人の希望は彼女がこのまま町にいることだとしても、決意を固めた大人の女性の、背中は大きく、力強いものでした。そこに悲壮感はもうありませんでした。渦巻く風を身に秘めたような毅然とした立ち姿でした。レーゼとハリトは顔を見合わせました。彼らは恋人同士の関係でした。ですが、そうでなくても、一人一人が、この女性の手足でした。胸でした。顔でした。頭でした。その女性と共になって、行動して、彼女の生き方の息吹を感じ取って、彼らは、その分強くなったのは事実でした。その背中は彼らのものでなくとも、向こう側にある、彼女の正面はすでに彼らのものでした。レーゼはついとハリトから視線をはずしました。ハリトはまだ彼を見続けました。彼といれば、まだイアリオと共にいることになるのです。なぜなら、彼の心は本当はイアリオにあり、彼女は、それを奪ったのですから。しかし、ハリトの感じているその感覚は空虚でした。
今は、まだ、その相手と一緒にいられて空虚はごまかすことができました。いいえ、必然的に、覆い隠されてしまったのです。レーゼは、彼女の決意は変えられないと判っていますので、ただ、本当の悲しみに切々と胸を痛めていました。この背中は、彼が一番抱き締めたいものでした。行くなとは言いません。彼女を送り出すために、彼は、それを望みましたが、心はそうでも腕は前に泳ぎませんでした。彼は…言いました。
「イアリオ。やっぱり俺は、あなたに行ってほしくない。ごめん、これは俺のわがままだけど」
湖の岸辺に立ち、彼女は振り返り、相手を遠いところに立つ者のように眺めました。
「私もそうしたい。でも、いけないわ。謝るべきは私だね。巻き込んでしまってごめん」
レーゼはずっと一歩足を進めました。
「そうした言葉は、一度も言ってはならないよ。俺たちはこっちの意思であんたについてきたんだ。それは満足しているんだ」
ハリトが頷きました。
「だから言っているんだ。行ってほしくないと」
「あなたたちを愛しているわ」
イアリオの言葉が、湖に響きました。
「上の町も。下の、街も。そしてここも。みんなを私は大好きだわ。だから行くの。行くの。だから、もう言わせないで。馬鹿らしいとももう思えないから。私の結論は、愚かだと、繰り返し繰り返し思っても、また同じ所に来てしまう。どうしようもないからさ」
イアリオは顔を背けて、水辺の周りを回りました。裸足がすっすっと軽やかに岩の地面を過ぎていきました。レーゼは泣きそうになりました。いいえ、それはイアリオの側でした。ハリトは黙って、イアリオの背中を追いました。そして、痛烈な痛みをその胸に覚えました。オグに唆された彼女の魂が、疼いたのでした。泣くことができたのはハリトだけでした。
レーゼはまるでイアリオの背中から白い光が現れているように見えました。それは、天女のものともハオスのものとも違いました。本当に彼女が出している光なのかどうか判らず、彼は何度も目を凝らしました。すると、こっちを向いていないのですが、イアリオが、振り向いた気がしました。彼はわかりました。ああ、俺は、俺こそ…この人のことが大好きだった。




