第十三章 接吻(くちづけ) 5.業と解放
心にそう決めれば、いくらか、気持ちは落ち着きました。イアリオは常にせっつく何かの働きを感じながら、自分の生活にも集中できました。あと何ヶ月かのこの町での、生活を。イアリオは非常に大事にこの期間を過ごしました。そうしていると、面倒を見ている子供たちの様子が今まで以上にはっきりとわかりました。誰が、誰を気にしているかわかりました。そして、皆が、それぞれに一日一日、成長しているのだなと感じました。彼女はこれまでにないほど教師として自分が教壇に立っている意義を感じました。自分の教えが、また子供たちの日々の事柄が、一様に、響き合い高め合っていく様を如実に実感したのでした。自分がいて、彼らがいました。両者はまともに組んでいました。子供たちの彼女の授業への集中はおそらくどんな教室もかなわないほどに高かったでしょう。彼女の教室を出て行く少年少女は皆、満足した顔をしていたのです。
一方、レーゼは反対に仕事に手がつきませんでした。彼はイアリオのことばかり考えました。ハリトと同様、なんとかして彼女をこの町でつなぎとめることはできないだろうかと考えていました。彼はイアリオの意志を尊重した途端、自分の心に気づいたのです。彼が求めたのは、彼女でした。ハリトではありませんでした。しかし契約は続行中でした。彼はハリトの両親からも慕われていました。彼は、ストイックでありながら、お人好しでもありました。一度自ら決めたことを、覆してしまうのは、彼の倫理にもとることでした。彼はハリトを生涯大事にすると宣言したのです。ですが、それを彼はどんな理由で口にしたか。彼には正直さが足りませんでした。彼は彼の言葉に囚われたのです。彼は自分を知りませんでした。彼は空虚を認識しました。彼は…偽物の黄金を、本物だと言ってしまったのです。彼はハリトを以前と変わらずに大事に思っていました。けれど、本当は、現在のような関係を望んではいませんでした。彼は彼女を好いていましたが、それは、イアリオ以上の感情ではなかったのです。
自分に嘘をついた正直者は、それに気づいた若者は、自分を、責めました。彼は、どうにもならないことを自分で用意しました。彼自身の手でそれを、引き寄せました。その罰は激しいものでした。しかし、
彼は、待たなければなりませんでした。イアリオの出立を。そして、帰還を。
「私は何も町やあなたたちと、今生の別れをするわけではないわ。数年ちょうだい。もしあなたたちがまだ私を待てるなら。オグについて、ハオスや、この町で起きうることをちゃんと調べられたら、その時にはいつでも帰ってくるから。ああ、でも決めときましょう。出掛ける日と同じように、帰ってくる日も。ひょっとしたらその日までに帰れるかもしれないから。私はオルドピスへ行くのだから、そこから何か連絡を寄越すことだってできるわ。もし、約束の日に無理であっても、きちんと連絡はつけるから」
その時は、出掛けてから三年後の、新月の晩ということになりました。彼は苦しさの中でその時を待ち侘びることになりました。それが、唯一彼の中で光となったのです。彼は泣きました。泣くということは彼はこれが初めてでした。彼は本当の相手を見つけることができたのです。生涯を賭して連れ添う覚悟のある人を。でも、その人が行ってしまうのはまもなくでした。彼は悲しみの只中にいました。ハリトの前ではそんな自分を見せることは絶対にしてはいけませんから、彼は夢中に、今ある快楽に打ち込みました。そして、彼女こそが自分の相手であると自分に思い聞かせました。レーゼは非常に真面目でした。真面目さは時に頑なさとなり、思ってもいない傷害を周囲に散らすことがあります。ハリトがそれに気づかないわけなどありません。しかし、彼女は、イアリオから彼を奪い取ったのだという歪んだ認識に頬を染めていましたから、それで十分でした。彼女は付けられた傷を愛することができました。その上で、ハリトには包容力があり、彼女は年上のレーゼを愛撫することができました。二人ともイアリオを尊敬していたのです。ですから、二人の馴れ初めは、必然でした。
ですが、そこには、オグがいました。イアリオはどうだったのでしょう。彼女はレーゼの気持ちに気づいていませんでした。ただ、町から出て行くための力をどうにかして得たいという思いばかりでした。彼女にとって十余年前のピロットの喪失は無論大きいものでした。彼と共に生きる選択をなくし、そうであれば、彼女は墓参りを志向し、あの亡者たちを何とかして供養したいと願ったのでした。ですが彼女の中でピロットの喪失が収まった途端、いにしえの幽霊たちが残していったメッセージが旗に翻りました。望みたくはないエアロスの紋章が、高々とその旗に取り付いたのです。幻であれば、よかったのですが。しかし、彼女は行かなければなりませんでした。そこに用意する力たるや、常識を超えたものでなければなりません。一つの悲劇が用意されました。彼女が彼に気づくのはその寸前だったのです。彼女が出ていくための力は、彼がいればこそ発揮されるものでした。ところがイアリオは、自分の使命に沈殿して、ただ、いたずらに魔物を相手にするだけの膂力を自分の中にだけに訪ねたのでした。彼らが相手にしなければならないものは、自分の中に棲む魔物でした。クロウルダは、オグには前世たる自分がいると考えて、かの魔獣を御することにその命運をかけました。オグと共に生きることを彼らは望みました。
町の人々は地下都市で起きたことをずっと恐れました。彼らは、あの暗黒と共に生きてはいませんでした。それを封じて、連帯を維持して、自らの暗黒を抑えることで、生き続けてきました。彼らによってつくられた物語は、地下の滅びを人間が陥ってはならない教訓として、教えるためのものでした。しかしその思いの呪縛は、それぞれの人間の中にいるはずの、確かな悪を、見逃させていました。彼らの町が三百年間維持されてきたのは、たまたまなのです。悪を封じ込めることなどできるのでしょうか。それは、いつも私たちのそばに息づいているのですから。
テオルドは、彼はオグなのですから、人々のそうした欺瞞を看破していました。彼は、町を世界につなげなければならないと思っていました。オグは、悉く町村を破壊していく水辺の毒虫でしたが、町人である彼は、人間の中にいるオグをどうしても外に出してやらなければなりませんでした。なぜならそれがオグの役割だからでしたが、それは、とりもなおさずに町中を悪と共に生活するはずの元の世界に戻すことをも意味しました。テオルドにはそれが判ったのです。ですから、彼の計画は慎重を期して行われたのです。町を、壊そうと動いている者は、彼だけではなかったのです。もう一人の悪の遣いが、今や、彼の旗を掲げてその町を蹂躙しようとしていました。
その兆候はいつあったのでしょうか。例えば、若者たちが一斉に精神を病み始めたことも関わりがありますし、シュベルとエンナルの一件もそうですし、また、イアリオが十年ぶりに滅びの都に行くことになった、子供たちの事件もこれにつながっていました。それを目論んだ人物は、地下で、密かにこのための準備をし、いよいよ打って出る頃合を、心待ちにしていました。彼は猛獣のような目をしていました。彼の体は痩せさらばえていました。彼の上半身は裸で、下半身は二股に分かれたパンツを穿いていました。彼は分厚い唇を上下にぐにぐに動かしました。酷薄な視線が闇の中で蠢いて、地下にいる、もう一つの存在を確かめました。彼はオグと出会っていました。彼はオグと対決していました。彼とオグは互角でした。一方は完全な悪の巣窟で、もう一方は、生まれたばかりのそれだったのでした。
ハリトの成人式の日がやってきました。五百人ほどが二列になって、火の輪をくぐり、総長から勾玉の首飾りを渡されました。その後、川の水で禊をするのですが、川原に、違った人々がいました。式典の補助係の者たちではない、若者たちが、沈黙してそこに立っていました。川原はかがり火から遠く、何人いるのかわかりませんが、相当数いるようでした。
新成人たちはどうしたらいいかわからず立ち往生していました。その折、河原にいる者たちの中から、幾人かが、指を一本天に突き上げて、「自由を!」と言いました。
「何事だ」
総長その他議員たちが彼らを問いただしました。すると、彼らは水際の新成人たちの間に飛び込み、大人たちを向いて、ハハハと笑いました。
「一斉にかかれ!」
連中は口々にそう叫び、懐から刃物なりハンマーなりを取り出し、上手に振りかざしました。危険を覚えたハリトはすぐさま人々の後ろに隠れました。ですから彼女はこの後何が起きたのか詳しくは知りませんでした。事件はすぐに収束しました。大人たちに襲い掛かってくる若者たちを、周りから、盾を持った守備隊の人間が取り囲み、彼らに投網を放ちました。すると彼らは腕や足や首をとられて引っくり返りました。彼らの中には心の病にかかって身動きが取れなかった若者たちがいました。そして、網の包囲をかわして猛然と飛び出してきた者たちの間には、エンナルとシュベルの姿がありました。
ですが、盾を持った人々はよく訓練されていました。凶器を持たない者たちの周りをがっちり守り、襲い掛かってくる者どもを、固い守備で跳ね返したのです。それでエンナルやシュベルたちは、作戦失敗を判断したのでしょうか、散り散りになってその場から逃げ出しました。しかし、まだ何人かは暴れ回って、その凶器が人を打ち、血が流されました。ハリトが目にしたものはその血でした。人々の頭上に振り上げられた鈍器に、生々しく付けられた、その赤い色をかがり火の明かりに見たのです。こうなっては成人式どころではなく、新成人たちは声を上げて逃げてしまいました。
事件を起こした人間の中で、生きている者はいませんでした。彼らは捕まると次々に舌を噛み切り絶命したのです。このとても悲しい狂乱の首謀者ははっきりとしませんでした。理由を聞く前に皆命を落としたからです。散り散りに逃げた連中の中には成人の儀のために開けられた地下への穴へと飛び込み、街中を逃げ惑った者もいましたが、やはり舌を噛んで死にました。エンナルとシュベルも、地下で遺体を発見されました。
この一件を予期していたかのように夜闇の中に守備隊を配備していたのは隊長のテオルドでした。彼は、地下に潜った連中も他の者と同様に自殺を図ったと議会に報告しましたが、幾人かはそうではありませんでした。何者かに殺された跡がありましたが、彼は、それを守備隊には黙っているように言い渡しました。
「事件を大きく広げても、誰が一体得をするか?首謀者がいたことは間違いがないが、こうして無残な死体をこちらに残したということは、何か計算が働いているものだと見えるから、黙っていよう」
特に、エンナルとシュベルは首を折られて死んでいました。テオルドはこの二人が事件の中枢にいると判っていましたから、死体を詳しく調べて、真犯人は口封じのために彼らを殺して、もうすでに遠くテオルドたちも手の届かない場所に、逃げてしまっているだろうと考えました。「やれやれ」彼はひとりごちました。「僕以外にもこの町をかき乱そうとするのは結構だが、野蛮に尽きるよ。彼は、きっと、黄金に唆されているんだね。でも僕は、オグだから、そんなのはもういらないんだよ。もういい。もういい。もう、たくさんだから。この町を破滅させて、何もかも新しくしようということなんだ。荒い仕事は好まれないんだ。この場合、切実な理由が大事なんだよ?」




