第十三章 接吻(くちづけ) 2.白い光芒
イアリオたちは、ハリトが襲われた、浸水した洞穴の近辺を探りました。勿論危険はありましたから、できるだけ、逃走経路をきちんと確保しながらの探索でした。無謀だとはわかっていましたが、矢も盾もたまらず調べるつもりだったのはイアリオでした。彼女は、レーゼ以上に責任を感じていたのです。そして、ハリトが襲われたことで、否応なく顕れるあの感覚が、エアロスという言葉に刺激されるどうしようもない焦燥が、不安が、いや増しに増すのを止められなかったのです。彼女は、どうしてもオグと会わざるをえないと思い始めていました。どれほどの危険があるか十分分かっているつもりですが、そうでなくば、あの予言は確かめられないと断言しました。
オグの棲家とされる湖はその近辺には見つけることはできませんでした。彼女たちはクロウルダのハオスがかの魔物を監督していると言ったにもかかわらず、オグがハリトたちにのしかかってきたのは合点がいきませんでした。是非魔物に襲われた現場と、その棲家に向かわなければならない理由ができたのです。しかし、現場の暗闇の穴蔵に水で濡れるのを我慢して、頭上に空洞があるところだけを進んでみるも、よくよく注意しながら周囲を当たっても、オグでしか通り抜けられない水路が続いて、人間の足で向かうのはとても難しくなりました。
ですから、以前ハオスに会った所から周りを探った方がいいということになりました。勿論、地下道を隅から隅まで洗っていく作業中にハオスが通ったであろう道のりも調べたのですが、三角に細く割れた通路など、あまりに細かい通り道などはなおざりにされていました。それより太い洞窟が広範に広がり、そちらの全体像を知っておかなければ、迷うばかりになると思われたからです。しかし、そうした窮屈な穴にも足を踏み入れる時が来たのです。松明が、石版を赤く照らしました。木炭を葉で包んだチョークで描かれた地図帳に、黒い点が記されました。彼らは赤と黒のチョークしか持っていませんでした。それ以外の色の付いた物は生産されていないからです。赤色が、張り巡らされた通路と洞窟を示し、黒は、仮の通路を表します。灰がかった石版に赤色はともかく、黒はあまり目立ちませんが、灯の明かりだけが頼りのここで、彼らはそうした作業はお手のものになっていました。
イアリオはここに来る途中の壁に記された赤い文字を思い出しました。「鼓の音に気をつけろ」その言葉を心に記銘することにしました。レーゼもハリトもオグが動き出す時に鳴らすその音はあまりに遠くて聞いていませんでしたが、彼が湖の住処からのっそりと出て来る時に、震動が、そう聞こえるのです。全身の五感を澄ませて、彼らは縦に細長い穴をゆるゆると下っていきました。すると、行き止まりに差し掛かりました。イアリオは、この穴が人工的に掘られたものではないかと疑いました。狭くとも移動しやすく気配りされた幅に思えて、まるで人間が入るための必要な措置が取られたようだったからです。ですから、単純な穴だとは思えず、彼らはあたりを探ってみました。すると、行き止まりの壁が、扉のように思われました。イアリオは試しにカツンカツンと壁を叩いてみました。
鈍い音ではなく、反響のある音が返りました。向こう側が空洞になっている証拠でした。イアリオは唾を呑みました。もしかしたらこの先に、目標がいるのかもしれません。オグという、怪物が。ところが扉は開け方がわかりませんでした。取っ手もないし、探るに溝らしきものはあれど、いくら押しても、びくともしません。しかし、へこんだところを撫でていくと、奇妙な引っ掛かりが縦に走る溝の中ごろにありました。そこを持って、彼女は岩を引いてみました。
くるりと岩が回転して、新たな道が臨めました。その先も後ろと同じほど幅のない道でした。三人は慎重にこの狭くじんめりとした空間を、左右から圧迫される感じを受けながら、そろそろと、前に進みました。ですが、ここに扉があるということは、つまり先には危険が待ち構えているということだと、三人は思いました。その防波堤のための仕掛けでしょうから、レーゼがその場に残ることにして、他の二人が先に行くことにしました。通路は二人がやっと通れるほどの幅でしたが、もしイアリオとハリトがこの先から逃げ出してきたら、彼女たちを先に行かせて、彼が素早く扉を閉められるように態勢を立てたのです。
イアリオとハリトはレーゼを後ろに置いて、前へ行くほど湿気が増すように思われる古い道を進みました。オグに触られたことのあるハリトのうなじが、ざわざわと震えました。
「ハリト?少しつらそうよ。レーゼと待ってたら?」
ハリトは勿論彼女たちにまだ同行していました。イアリオから彼を奪い取ったとて、それは、本当の満足ではなかったからです。彼女は首を横に振って答えました。
「私、納得がいかないんだ。勝手に私の知らなかった自分があの化け物に呼び出されてしまって、いいようにされたからさ。すごくむかむかしているんだ」
イアリオは聞くまでもなかったと思いました。以前のように彼女は方々にエネルギーを撒き散らしてはいませんでしたが、こうでなければ、ハリトではないことを十分にわかっていました。彼女はレーゼにこそ、ここ最近従順な態度を取るようになりましたが、一方で、イアリオには普段通りの姿勢を見せていました。ここにも彼女の複雑な心理が見えました。彼女は、おそらく憧れの女性の一部を自分のものとしたのでしょう。それはレーゼではなく、相手にも自分にも触れる本質を。ですから以前のようにハリトはイアリオに怯えなくなっていました。彼女はずっとイアリオに恐れを感じていました。何かがあばかれてしまう恐怖がいつもその相手といると刺激されるのです。それでいて、離れずに、ずっと傍にいたいと思ったのは、彼女が間近にしたイアリオ自身が、絶えず変わっていく姿を見ていたからでした。いつまでも今のままでいないはずだという確信が、ハリトの心を慰めていました。彼女は自分が決して無視できない女性と共に、変わっていく自分をものにしたのでした。目の前の太陽は明るくても翳を見せ、その悩みは包み隠さず目の前に表してくれました。いいえ、イアリオは、二人の前でそうしなければ圧倒的な孤独で潰れてしまいました。
ハリトとイアリオは松明を前に向け進み、狭い穴から抜け出しました。冷たい空気がそわそわと漂い、ぴちゃっぴちゃっと水の滴る音がしました。灯にかざされた空洞は、つららのように垂れ下がる岩の天井と、黒い水溜りを照らし出されました。二人はハリトがその場に居残って、イアリオが先に進むことにしました。水溜りは彼女の思った以上に広がっていてあちら側にずっと遠く続いていました。イアリオはここがハオスの言っていた湖かしらと考えました。生き物の棲む気配がします。今そこにいるかどうかわかりませんが、とにかく、生き物の這いずった匂いがします。彼女は手を差し出して湖面に触れてみました。骨の髄まで滲み透る冷たさに、ぶるりと震えました。
イアリオは白い光芒が左手の奥からぼんやりと移動してくるのを見て驚きました。その光は白い天女のものではなく、あのハオスのものでした。彼は前に出会った時もほのかな光を放つ外套を着ていましたが、その光は前よりも強烈で、彼の全身を覆っていました。彼は寂しげにうつむいていました。物静かに歩きながら、それこそ脚などないかのように無音のまま、湖のほとりに回ってくると、足元にある何かをじっと眺めました。そして、
「なくなった。なくなってしまった」
と言いました。
「ハオス?」
イアリオが呼び掛けました。ハオスはうつろな眼差しを彼女に向けました。
「ああ、あなたは」
「大丈夫ですか?」
イアリオは奇妙な感触に揉まれました。彼女は評議会に、ハオスがまた町に来た際には、必ず自分に知らせるようにと言っていたのです。にもかかわらず、知らせは来ていませんでした。
「こうして同胞は悪を慰めてきたのだな」
ハオスはイアリオから目を逸らさずに、まるでイアリオに話しかけるように言いました。
「かの者の中にある存在が、私に一様に言うのだよ。こうして私は人間を奪い、閉じ込めて、破滅させてきた、と。私はかの者の一部となって、大勢の人間の苦しみを垣間見た。悪も苦しむのだ。長年の行為は慰められうることを知らない。いつまでも、その存在のままなのだと。悪は、変わらないのだ。変わらないことこそが悪なのだ。命は巡る一方だが、悪は、悪たちは、己の役割がゆえに、閉じられている。分かるか?それが本当の絶望なのだよ」
しかしイアリオは、彼が自分に言ったというより、自分の内側の誰かに、声を掛けているように思いました。
「あなたの中にかの魔物はいる」
そう彼は断言しました。
「逆か。この体の中に、あなたがいる」
イアリオは恐ろしくぞわりとした衝動が背筋を上るのを感じました。彼の言っていることは正しくて、自分は、それから逃れられないのだという感覚でした。彼女は急に体中から力が抜けたような気がしました。ですが、それでへなへなと地面に倒れるよりも、もっと相手から話を聞いておかねばならないという意志を、持ちました。
「それは悪を超えた現象か、それともまだ囚われ続ける実態か?私はなくなり、今ここにかの悪魔と共に融け合っている。私たちは、皆、一つのことを切望している。
オルドピスに行かれるといい。あなたにできることは何もないから。ただ知ることはできよう。我らの仲間に会いに行くといい。この町は、破滅を望んでいる。どうしようもない事実だから」
「あなたに何がわかるというのですか?」
イアリオは毅然にも言いました。
「この町は不変の意志に貫かれている。三百年ものあいだ、伝統を守ったのです。しかし、それが壊されるということは、ありえないことです」
「さればやはりあなたは悪を超えし者だな。超えようとしているのか。呑みこもうとしているのか。いにしえの伝説を思い出す。それは、大きな獣がやって来たという伝説だ。
もう話しすぎた。私はここで待とう。粛々と待とう。すべての意思が、集い、同じ一つのものを望む瞬間を。神はいない。だがレトラスはある。我らはそれを望むことができるのだから…」
彼は光芒を後に残して、洞窟の奥に消えていきました。彼女は、今彼がいた場所に黒いものが落ちているのを目にしました。それは人間の骨でした。彼は食われたのでしょうか。骨は、成人した男性のものより、少し大きく膨らんでいました。
「オルド…ピス…」
イアリオは茫然とかの国の名前を言いました。湖の奥で、ざわざわと、蠢く者がいましたが、かの魔物は、じっと息を潜め、こちらの存在を見つつも動かずにいました。ですが、無数の目は光り、かの魔物も、ある一瞬の訪れを待ち受けていました。




