第十二章 オグ 5.彼方に呼び続く音
イアリオは、アツタオロと話せて無論気分が良かったのですが、その後、次第に元気を失くしていきました。それは、アツタオロの根源的な不安を吸い取ったからでした。彼女は、友人の話を聞いていて、親身になるも、語られる言葉以上に様々な思いや感情まで聞き取っていたのです。その話し相手がアツタオロであれば、なおさらでした。イアリオはその深い情動まで理解する土壌を彼女と共有していたのです。あの事件です。夕方になれば怯える、世界中がぐらぐらと揺れてしまう、この町の根元が根こそぎ覆ってしまうような経験を、二人はしたからです。イアリオはつらくて、しかしそのつらさの原因もわからずに、ふらふらとしました。アツタオロは、彼女の旦那の弟が地下の今でも捨て置かれている死体をなんとかしたいと言っていた、と話していました。それは、すごくイアリオにとって頼もしい感覚でした。そうした仲間を募ろうとしていたからです。ですが、はっきりと彼女は、彼をして仲間に誘うのはむつかしいと判断していました。町の、これまで続けられてきた厳然とした生活スタイルをよく見ていると、それらをみんな引っくり返してしまおうとすることは当然無理だったのです。しかし、アツタオロがその話を導入にして彼女にいまだ地下へ臨む訳を訊いてきました。すると、自分でなくても、あの黄金都市に囚われて、自分のように考えてしまう人間は、他にいくらでも出てくるものと彼女には思われました。ふと、未来から過去まで自分の意識が伸張していくように感じ、イアリオは耳を澄ませました。現実の雑音に混ざりながら、何か音楽が聞こえてくるようでした。遠い星空の向こうから、手に持った体にすぐ近いコップの中から…その音楽は、楽しげであり、苦しげであり、つまらなそうだったり、面白そうだったりしました。ものすごく近くから、ものすごく遠くまで、彼女の心は伸び広がりました。過去と未来を含めた、この世界の端々から、家具のわずかな隙間に入った石ころのような、非常に微細な事柄まで。それらは、実は皆、大切なものなのでは?そのような思いに、まるで世界中から聞こえてくるような音楽は、彼女を連れていきました。そして一斉に、それだけではなく、世界は、彼女に語りかけてきました。
どうしているの、ここにいるの、あなたはなぜ、存在しているの…?
イアリオは首を振りました。またわけのわからない不思議な感じに悩まされました。しかし、その感じはあのエアロスと、ほぼ同様でした。彼女は、ふと、ずっと前にハリトから聞いたことを思い出しました。テオルドが(と、イニシャルを見て判断したが)、あの天女たちが北の墓丘に降ってきたところを、彼女の兄に絵で描かせたことでした。どうして、彼はそんな絵を欲しがったのだろう。多分彼なりにあの光から受け取ったメッセージがあったのだろう、あの文言も書いてあったし…でも、彼は何を思ったのだろう。彼は、あの現象をどのように感じたのだろう。彼は、私に協力してくれているし、相談にも乗ってくれた。しかし、彼の気持ちは、何も聞いていない…?
彼はにやにやしていただけだった。私の言葉をちゃんと聞いて、適切な答えを返してくれたけど、あれは、本当に彼の意見だっただろうか。いいや、違う。私に合わせて、返していただけだ。私が欲しがるだろう言葉を、選んでいただけ?彼は、一体どんなことを考えているか、私にはちっとも教えてはいなかった…?いやいや、そうした人間なのだろう、彼は。彼が人と親しく話しているところなんて、見たことないもの。
私は何を考えているのだろう。無性にテオルドのことが気になるわ。何か、ぞくりとする。何…?彼は…あの暗闇で…子供の時…一人で…いたんだったけれど…?
何?何?何?イアリオは、ピロットとテオルドと三人で聞いたテオルドの母親が語った物語を思い出しました。今、どうしてそれが頭に浮かぶのでしょうか。かちかちと瞬く間に記憶がピースになりました。決まった形にそれは嵌ろうとしました。一方的な画面が出来上がりました。その画面は、天女の下した宣告と一致しました。この町の破滅を予言していました。誰かがそれを望んでいるのだと思いました。自分ではありません。しかし、彼女もそれを望んだことがありました。否応なく、生まれ故郷を憎んだことがあったのです。あの暗い地下に行っていなければ、多分、そうしたことは感じたことがなかったでしょう。これは誰の思いでしょう。気持ちでしょう。ああ、そうだったとイアリオは考えました。テオルドの母親、彼女の語りには、当時は知らない毒が含まれていました。大人になって判る、様々な言い知れない深い猛毒が、あの話の群には具わっているのだと、彼女は気づきました。どうして、テオルドの母はそんな話をしたのでしょうか。テオルドは…確か…黒い表紙の日記帳の、著者の苗字でした…!
イアリオは仕事の続きをしに粘土板へ向かわずに、部屋に籠もり、ハルロスの日記を繰りました。その中ごろのいくつかのページは破損していて、そこには亡国への愛とは違うことが書かれていました。前に読んでいる時はそれほど気にならなかったのですが、その箇所では、公然とハルロスが他の生き残りの人々を非難していました。その書き方も熾烈で、容赦ない責めの文句が並びました。こうした鬱憤を文章の中で晴らそうとしたのでしょうが、後で、彼自身が読み返していたたまれなくなって自分で破りちぎったのでしょう。
ですが、いくつかの白紙をまたいだ最後のページも、破かれていました。そこにも同じようなハルロスの文句が並んでいたのでしょうか。イアリオは、この日記帳を発見した際に出会った女の亡霊を思い返しました。亡霊は、この帳面を指差して彼女に託して天に帰っていったのです。もしやそれは、ハルロスの妻だったのではないでしょうか。とすれば、彼の奥さんは、今も成仏せずに、恨みを持ちながらあの場所で何かを待ち続けていたことになります。あのシーンで、光に包まれて空に昇っていきましたが、冷たい凍気を彼女に放って残酷な視線を見せた女幽霊が本を託しただけで満足するでしょうか…?
彼女の意思は、子孫が受け継いでいるのではないかしら…?イアリオは、そんな突拍子もないことを思いました。そんなことがあるのでしょうか。都の破滅から三百年がたっています。しかし、イアリオたちの伝統は、それからいささかも変化せずに現在に来ていました。
何事か判りかけて、イアリオは深く息を吸い込みました。今しがた浮かんだぼんやりした印象を、はっきりと頭に描こうとしました。天女の文言が翻ります。この町は滅びる、滅びなくてはいけない…。
オグ、オグ、オグ…。
学問の国オルドピスには、イアリオの町にある資料など到底及ばない数の書物が収められていました。その中に、彼女も触れたことのないオグについての記述があります。それによると、
「オグは、人の悪意の塊である。それは、霧のように姿を変え、空中を漂い、人に憑く。それは、かつて悪魔と呼ばれていたり、『謗る者』と呼ばれたりしていた。
彼の者が現れたのは、遠い昔、まだ人々が世界に対して蒙を拓かれていなかった頃の、人間の仕業によるものだった。彼らは互いに争い、憎しみ合い、大規模な戦争を引き起こした。その結果である。オグは、強烈な力と力の衝突によってできたものである。
その時は、オグはまだオグではなかった。収束した巨大な力が、その空域に人々の悪意を閉じ込めたのである。離散した人々の意識は空を飛び交い、互いに集まろうとして、合体した。様々な様態の中で、ある時、一斉に悪の意思たちが集合した。それがオグである。高められた文明は滅び、世界は三つに分かれた。人々は生き残ったが、すっかり変化してしまった世界に、新たな秩序と生活を築き上げる努力が求められた。世に言うエアロスの大変革が行われたのである。それを望んだのは人間だった。つまり、オグは人間に求められて生まれた存在だった。彼らは集合した人間の悪だが、人間の悪が、それを求めたのである。旧時代の蒙き知恵が、かの悪魔を生み出した。だが、今の時代も、決して蒙に完全に拓かれてはいない。いつの時代も、人間はどこかに盲で、その度に新たな問題の種を産み落としていると見るべきである。精算はいつも後の時代の人間が受け取るのだ。我々がそうであるように、我々の後の世代が…。」
かの国は放射状の街並みを敷いていました。その中心部には、各都市に、必ず巨大な図書館が設置されていました。知恵によって国を治めるというのが学術国家オルドピスの威容でした。それをして、オグは未だに謎多き対象でした。
彼らは世界中に影響力を持つ大国でしたので、クロウルダともつながりがありました。クロウルダとは、オグを長年追っている民族のことです。彼らはかつて、オグによって国を滅亡されました。それから再興して、危険な魔物を封印することを民族の使命としていましたが、千年に渡るかの魔物との闘いでは、民族の血も減少して、その力を他民族に補ってもらうことを余儀なくされました。オルドピスは多民族からなる広大な国でした。しかし、理路整然とした国家運営は他の国からも賞賛され、非常に付き合いやすい相手国だと見なされていました。学問の国と、いにしえの民族の伝統は、齟齬をきたさず、お互いに有益な関係を築くことができました。クロウルダには、ニングという長がいました。ニングはオルドピスに住まい、かの国で世界中の同胞の情報を集めていました。オルドピスもその作業を手伝い、オグについての研究は、両者が共同で進めていました。
「君たちの同胞のハオス君が、また行くようだね」
オルドピスの政治運営を束ねる賢者が、クロウルダの長に訊きました。
「彼はこれきりです。もしかしたら、まだ連れて行く人間が要るかもわかりませんが」
「人柱が、あの魔獣を癒す唯一の手立てであることは、今も昔も変わらじ。人間の悪には、人間のぬくもりが派遣されなければならないとは、まるで皮肉な真実だね。そうであっても、仕方のないことか」
「我々の悪なのです。ですから人間が必要です。我らの犠牲で、世界は平穏だ。これしかないのです」
「今は、な。悪を壊し、我らのものにすることができれば、もう少し違った対応ができるというものだ。だが、事は緊急を要している。あの町で、オグが暴れようとしていることが判ったのだから。最善を尽くすには、君たちの犠牲を黙認しなければならないとは、友人として、痛み入ることだよ」
クロウルダの長は密やかに笑みました。
「それでいいのです。あの悪魔が、実は今生きている人間の生み出したものだったと、最初に気づいたのは我々です。人間は転生する。多くの人々が、無限の因果の中にいる。我らの悪に、我らが応えます。クロウルダのやり方で。それは、悪をこの手で抱き抱えるということ。自分自身を癒すということです。しかしそれは我らにしかできない」
多くの人が、自分の前世など知りません。それを知っても、どうしようもないからです。一体前世などあるものでしょうか。そのような感じ方や概念があったとて、クロウルダのように、かの魔物を自分から出た悪魔だと捉えた民族は他にいませんでした。
彼らは自らを犠牲にしてその魔物から世界を救っているのだという発想を持ちました。それはおよそ他の民族には理解し難いものでしたが、オルドピスは手を差し伸べました。実際、クロウルダによってオグの活動が抑えられていたことは学問を用いて立証されたのです。彼らの監視なくしてかの魔獣を放っておくのはオルドピスにとっても危険なことだとされたのです。
そのオグに喰われ、中身を変えられたテオルドは、その影響力を着実に広めていました。人心の悪を捉える力に長けたその澄明な目は、つぶさにこの町の人々の変化を記録していました。彼は、守備隊に志願し、そこで確実な実績を挙げてみせました。彼の頭脳は他の者たちにはないものだと、思い知らせたのです。罠の張り方や新しい武器の考案、地下都市の見回りの方法の改善など、彼は次々にアイデアを提案し、その悉くが斬新でかつ従来より効率的なもので、古株の隊員らをすっかり驚かせたのです。その後彼は、守備隊の隊長にも志願しました。要望は受け入れられて、史上にも最も若い隊長が誕生しました。彼には思惑がありました。近年若者たちの暴力や、憂鬱に苛まれる人たちの数が増えてきていることに、ある抗力を用意したのです。彼は、その思惑を実践するために守備隊を鍛えました。彼の言う通りに彼らが動けるように、細かい指導を繰り返しました。イアリオよりも、彼はこの町でこれから何が起きるのかを知っていました。それは、彼自身が起こそうとしていることだったからです。彼の目的は、この町の破滅でした。イラの怨念と、オグの反動が、彼の中で渦を巻き、強大な力を発揮せんとしていたのです。
その思惑に、彼女なりに近づきつつあったのを、イアリオは自覚していませんでした。しかし、彼女が急速に記憶のピースをまとめていった先に臨まれるある光景は、そうしたことをメッセージにしていました。今は、ただ天女の言葉にあった情景をこそ映し出している画面ですが、あれは、単に見知らぬ幻が見せた訳知らぬ予言だというのでなくて、彼女の鋭敏な感覚が捉えた、由々しく正しき、完成されたパズルだったのです。この世に生きている者たちだけの力が、現在に働いているのではありません。遠い過去から続いている、呼び掛ける思いが、様々に影響を与えているのです。オグしかり、ハルロスの妻イラしかり、あの街に囚われた死者たちも、海賊も、ハルロスら兵士たちも、皆この町に力を及ぼしていたのです。現在と、過去と、未来がつながります。
では、町人ルイーズ=イアリオは、一体どうしなければならなかったのでしょうか。彼女にしか見えない幻像が、否応なく、それを調べなければならないという感覚に駆り立てましたが。ですが、余すことなく調べられたとして、いいえ、その調べる最中にも、何かを変えることができるにちがいないという期待を、彼女は自分の中から失っていくのを体感していました。そしてその感覚の只中にいる、その体は、ただただ焦燥と、不安とに苛まれ続けることとなったのです。
町人の一人となった古き悪は、彼女の様子を詳細に見つめ続けていたつもりでした。しかし、悪に彼女の本当の変化は見つかりませんでした。悪が、付け入れる隙が、そこにはなかったのです。しかし、こうも言えました。もし、悪が人の一部なら、それそのものが変化する様を、悪自身は感じ取れることができるだろうか、と。イアリオは、ただ自分がなすべきことは何なのか、そうした衝動に突き動かされていただけにすぎないのです。いくら邪魔されようと、人間は、そんないささかの障害など気にならずに動いてしまうことがあります。むしろ、イアリオの場合、障害は自分自身にありました。
鼓の音が響いています。とんとんとん、とんとんとん。遠くで。静かに。鳴っています。




