第十二章 オグ 4.アツタオロとピオテラ
ソブレイユ=アツタオロは、かつての十五人の仲間の一人ですが、今は二児の母親になっていました。かつての噂好きの女の子は、落ち着いたお母さんになっていました。彼女は糸車や針やのこぎりといった物を補修する、技師の男性と一緒になりました。生来の話し好きは、驚くほどにめっきり潜み、今は、近隣の母親たちの模範になっていました。ぺちゃくちゃのおしゃべりは卒業していたのです。自分でも信じられないほど、彼女は無口になり、必要なこと以外、まったくしゃべることはなくなりました。
それは成人してからでした。あの儀式を受けたアツタオロは人々が憎くてたまらなくなりました。その数年前、彼女の昔の仲間だったラベルが自分で命を落としていますが、その原因は、ここにあったのだと彼女は気がつきました。彼女は十余年前のことをずっと飲み込んだまま、事件のその後を生きていました。子供たちに説明ができるくらいのあの地下のあらましを、その時に十分聞いていませんでした。それは成人した時にわかると言い渡されていたのです。十五人の子供たちは、確かに大人たちが厖大な死者の潜むあの危険な場所を知っていたのだとわかって、少しは安心したのですが、成人の儀を迎えていざあらましを聞いてみれば、その意気地のなさと意地汚さが子供たちに隠し事をしていたのだと思い知らされたのでした。アツタオロは元来元気者で、口から生まれたような少女でしたが、隠し事は嫌いな方でした。いいえ、誰かが自分に何かを隠しているということが、我慢のできない性格でした。町人たちの、ずっと過去に怯えている所作は、子供の頃から間近にしていて、何事か感じ取れるものでしたが、成人式を終えたアツタオロは、それに対して深い悲しみを感じてしまいました。それ以来、この町に住む者として彼女は元気をなくしました。それで、滅多にしゃべらない寡黙な男と、結婚したのです。男にはこの町に生きる覚悟がありました。それで、そこに惹かれて彼女は彼を好いたのです。安心したのです。それで、彼女も寡黙で十分になったのです。生粋の話好きならそうはならないかもしれませんが、アツタオロの場合、空回りする元気がおしゃべりにさせていたところがあったのでしょう。農家の娘である彼女のエネルギーは、落ち着くべき所を発見して、また深い悲しみと共にいて、体に籠もるようになったのです。しかし、依然として我慢は続いていました。いいえ、我慢を余儀なくされたから、悲哀が深まったのかもしれません。子供時代しゃべることで発散していた鬱憤は、大人になった彼女の精神をある方向へと連れて行きました。しゃべることができないと、それは恐ろしく自分を痛めるのです。感情が内に沈み、欝へ欝へと追い込むのです。謎を謎としてアツタオロは自分の中で所持できなかったのです。
アツタオロはイアリオの家の玄関を訪ねました。別に、彼女たちは近隣の付き合いだったわけではありません。今も地下都市の捜査にあたっているイアリオに、アツタオロは用事があったのです。
イアリオは、勿論驚きました。十五人の仲間たちと話したいと思いながら、まだアツタオロの所には行っていませんでした。しかし、彼女の用事は、彼女の旦那の弟が、ふとこんなことを漏らしたというものでした。
「下の街の、死体のことだよ。あれをどうするかって、旦那に食いついてきたらしいの。彼は成人して初めてあの話を聞いて、すごく興奮したらしいけれど、なんだか納得できなかったらしくてね」
アツタオロは差し入れに漁師から夫が頂いた魚を桶に入れて持ってきました。イアリオはその返事にと、生徒の家族からもらったクッキーを、編み籠に敷いて彼女に出しました。焼きたての匂いのするクッキーは、それまで粘土板に議会の予告を書き記していた彼女の油臭い手の臭いを、いくらか誤魔化しました。
「ごめんね。仕事中だったもので」
彼女は気さくにアツタオロを出迎えましたが、これ良い機会と思ったのは勿論でした。アツタオロはちょっと顔をしかめました。臭いに敏感なところがあるので、イアリオが思ったように香ばしさははっきりとそれを打ち消さなかったのです。
「でも、懐かしいね。懐かしい、と言ってはいけないかしら?」
イアリオは相手の様子を窺ってみました。すると、アツタオロは自分と同じ感じの目をしていました。
「イアリオは、まだあの暗い街の中に行っているのね。なぜ?」
「一応、評議会から達しがあったと思うけれど、あのためよ。けれど、それ以外にもまあ…」
イアリオは、少し焦らしました。アツタオロはお尻の下に、むず痒さを感じました。丁々発矢のやり取りの方が彼女の望みでした。
「何?」
「言いにくいことだけど、まだ、私の中で事件が整理されていないから。私情ね、これって」
「そう」
アツタオロはこの女性から、話を聞きにくそうな堅物狭い感じがしました。自分とは最も疎遠なタイプの相手でした。
「私も整理がついた、とは言い難いわ。あの件からこの日までずっと夢の中でも苛まれていたんだもの。成人式で、あの話を聞いても、なんだか納得ができなかったわ。大人たちはずっと私たちに隠してきた!ラベルが死んでしまったのもそのせいだと疑ったわ。実際はどうだったか知らないけれど。でも自分も彼らと同じ大人になってしまったじゃない。同じように守るべき義務として、この町の運命を一緒に背負っちゃったでしょ。だからね、どうしようもないことだとは判っていても、まだまだ受け入れることはできなくて…」
湯水のように彼女は語り始めました。堰を切ったおしゃべりは、ついぞ忘れていた行為でした。彼女は我慢を強いられていたのです。彼女の従来の噂好きの話し好きの口が、せわしなく動いて、くるくると回って、目の前の女性をあっちやそっちに目まぐるしく連れていきました。イアリオはこうしたタイプの相手とも今まで何度か応対していましたからうろたえませんでしたが、子供の頃のかつての仲間として彼女の話を聞いていると、このしゃべくりも、なんらかの不安がその背中を押しているところがあるのではないかと思われました。
ようやく話が切れて、アツタオロは息を切らせました。久しぶりの行為はひどい疲労と充実感とを寄越しました。しかしアツタオロの会話は地下のことだけではなく、最近の家での出来事や隣人の不満話もいくらか混ざっていました。彼女は自分が本当は何のことを言いたかったのかすっかり忘れてしまっていました。イアリオも、深い水底から上がってきたような、ほっとする息を吐き出しました。
「ごめんなさいね。私ばかりしゃべってしまって」
「ううん。でも、こうしてあなたの話を聞いているのは、なんだか楽しいわよ」
「そう…そんなこと言われたのは初めてだな。大した人間ねえ。やっぱり、毎日生徒たちの相手をしていると鍛えられるものなのかしら?私はそうはいかないわ!自分の子供たちで精一杯!今度もね、あいつらったらいたずらしてさ…」
しかし、このままでは一方的に向こうに話されるばかりでした。アツタオロの口調はすっかり甲高くなっていました。このまま世の噂話を全部まくしたてようとする勢いでした。
「近所の人たちも注意しないのさ、私だけで、彼らに目を配るのは限界があって、でも私だって他人様の子供の面倒は見ているのにねえ。でも隣の旦那が目をかけないから私だってしないのさ、なんて言うの。矛盾してるわ、だけど、こちらが何も言わないのをいいことに、押しつけるばかりで、あれじゃあ根も葉もない噂を立てられてもおかしくはないね。私は黙っているけれど、聞こえてくるのよ。あれは、お互いに責任をなすりつけあって、それで子供たちは他の家に出掛けてしまっていて、そちらで問題を起こして、帰ってくれば、どちらもいなくて、また他の家で預からなきゃならなくて、その繰り返しをしているの。でね、醜聞が立ったのよ。おかしな話よ、どちらも恋人を作っちゃってさ、なかなか家に帰れないんだって。そんなことは普通ではないけど、わかる気がするわね。だって私も、そうしたい気分になるからさ。え?自分はそんなことしないわよ!でもあの家じゃそうなったとしても、裏づけがあるから、納得はいくわねえ。え?ああ、こうした話じゃなかったわね。ごめんなさい。でもこんな話もあったのよ…」
イアリオはさすがに両手で相手を遮って、口を止めました。もういい加減溜まり溜まった相手の気分はすっかり聴いてあげたと思われたからでした。
「まったく、昔と変わらないね、アツタオロは。しゃべり出すとたちまち止まらないわ。でも、そんな話をしに来たんじゃないでしょ?」
「そう、そうだった。でも聴いてくれてありがとう。私、こうして話すことをしていなくてさ、溜まっていたんだねえ。しょうがない」
しょうがない、と言いたいのはイアリオの方でしたが、それでも元気のなかった相手の表情が輝いてきたので、よしとしました。すると、矛盾した感想が同時に浮かびました。彼女と自分とでは、まったく気分の変え方が違うのだということと、同じように、町への不満は持っているのだという、似ていても異なる、互いの齟齬の人生を確認したのでした。
「なんというか、私もあなたと話せてよかったよ。真面目に十年前の事件を本題にするのかと思った!でも、しゃべり続けて納得するのがアツタオロのやり方なんだね。こうしてみると、あなたの方が、あの事件の処し方をうまくこなしているようだわ」
アツタオロは唇を閉ざして、不意打ちを喰らったように、目を開きました。ああ、私はこの人を信頼しているんだと、彼女は思いました。二人は二歳ほど年の差があり、母親である彼女の方がしっかりしていそうでしたが、そうではありませんでした。
「あなたと話せてよかったよ」
もう一度そう言われて、アツタオロの用事は終了しました。しかし、彼女はまだ話し足りない気分でした。イアリオには十分聞いてもらいましたので、今度は別の、昔の馴染みの友達に会うことにしました。それは、空想が好きだった、イアリオと同様かつての仲間だった、セリム=ピオテラでした。ピオテラは今は郊外に住んで、一人で暮らしていました。彼女は一度結婚していましたが、旦那が事故で亡くなったのです。現在、二度目の婚姻を申し込み中の男性がいましたが、相手にはすでにパートナーがいました。
ピオテラは実家に住みながら両親を亡くしていました。それで、アツタオロも自然と彼女から離れていくことになったのでした。相手が一人を望んだからです。彼女は以前あの事件に遭って、想像の世界に紛れ込み、随分そこで過ごしてから、なんとか回復しました。件の事故は、遭遇した子供たちそれぞれに決定的な打撃を与えました。アツタオロとサカルダの二人は唖になり、ピロットはいなくなりました。イアリオは深く哀しみました。ピオテラへの影響は、どんな人間が側にいても、ぬくもりを感じられない冷たさを肌の間近に常に纏うようになったことでした。彼女は人々に骸骨の頭を見出しました。不可思議な空間を自分で創造して、その中に閉じ籠もりました。それこそ、彼女の感覚を具現化した景色だからでした。天と地は引っくり返り、死と生は逆転しました。両者は本当に近くて、一枚の薄い紙の裏表でした。そうでした。人間は、死ぬと骸骨になるのです。この薄い皮膚の下、骨に食いついた肉も綺麗にそぎ落としてしまえば、体を動かしているものは、ただの骨なのです。あの暗闇で会った、私たちに被さってきた…彼女の世界は、そうしたものになりました。
ピオテラには子供がいませんでした。彼女は身軽でした。いいえ、重さなど背負えなかったでしょう。骨ばかりの体に、いったい何が持ち運べるというのでしょうか。彼女は軽い存在でした。憎しみは、イアリオとアツタオロの中に町に対して宿りましたが、それはピオテラには持てない人間の熱い心でした。愛情もそうでした。夫が死んでも彼女は深く悲しめませんでした。悲しみはあるのです。けれど、それを十分噛みしだくことができませんでした。ピオテラは野蛮なものからいつも身を引き、ひっそりと暮らしていくことを望みました。今度の希望した相手はまさにうってつけでした。彼女の他にも、妾希望の女性はたくさんおり、もう既に、公開の妾婦は幾人かいたのです。彼女は誰かに面倒をみてもらうことにしました。自分自身で生きていく力がないことは、十分に知っていたのでした。
それでも、もしかしたら最も軽やかな人生を歩んでいたのかもしれません。それも彼女の選択でした。そうすれば一番安心できる、何事にも波風を立てない立派な人の生き方でした。鼻先のそばかすは前より減りました。身なりもきちんとしています。こんな女性が側に控えれば立つのはまさに男性でした。ピオテラは、愛を激しく表現できませんでしたが、良き良妻になれる素質を持っていました。男の方も、彼女なら相手に良いという者は大分いました。決して面差しは美人ではないのですが、他の人間にはない徳をピオテラは持っていたのです。いいえ、彼女ほど、正直で誠実な感性を持った人間は町中にいなかったでしょう。空想しがちな彼女の人格は、多くの幸せを運びませんでしたが、小さな幸は、注意して気がつけばふんだんにその回りにあったのです。どんな人間よりも、幸に気がつけるのは、彼女でした。
アツタオロは、そうした彼女と気が合いました。二人はお互いが側にいて気分がいい、そうそうない関係でした。一方は、バイタリティを外に放出しなければならない人間で、もう一方は、その力をさりげなく吸収できる能力に優れた人間でした。アツタオロは久々に彼女と話して、その感覚は、いささかも磨耗していないと感じました。二人は以前のように、また仲良しになり、多くの時間を、共にいることができるようになりました。




