第十二章 オグ 3.沐浴と少女
ぱらぱらと雨が降りました。天気雨でした。この時間は、女性たちが沐浴をできる時間でした。日差しがはらはらと彼女たちの体を洗い、水がそれを流していきました。沐浴の日は六日に一度と決まっています。町から北西と北東の森の木立に囲まれた川原で、男女は時間を置いて、交互に、体を洗います。ここまで来れない足の悪い人間も、介助されながら、同じ時間に樽や石桶の中で水を浴びました。ぱらぱらとした雨粒をイアリオは仰ぎました。虹色にそれらは光っていました。時間がその一粒一粒に表されていました。彼女は二十四歳になっていました。年々、彼女は集まる人々から離れて水浴びをするようになりました。事実に押し流されるように、彼女は一人の場所を選ぶようになってきたのです。
彼らの中にいると、どうしても焦りと不安が胸を押し潰してくるようでした。いよいよ天女の言葉が生き生きとしてきて、その中で生きているからでした。あの言葉が、現実のものになるとはまったく思えないはずなのに、それでも真実を伝えてきたという逃れがたい感触がありました。彼女はつらくて、日々を子供たちの笑顔に取り囲まれているにもかかわらず、圧倒的な孤独の感覚と、無念と、取りこぼされた幸福とに喘ぐのでした。どうしてこうなったのでしょう。依然、彼女はあの現象に立ち会わなくて済んだならどれほど良かっただろうかと思っていました。…しかしあの二人に会うと、共にいると、その気持ちは幾らか和らぎました。ハリトとレーゼは出来事の共有者でしたから、この感覚が自分のものだけではなかったと確認できたからでした。それでも、まだ若々しい二十四歳の直感は、ずっと遠くの未来を見通していました。それは彼女だけの見識ではなく、あの白霊たち、天女の見識もそこに混じり、ただならない突き通る細長い釘のごとき予感に、ひたすら貫かれていたのです。彼女は自分がいなければとさえ思いました。自分という存在が、何かに晒されているのです。裸の自分が、衆目の入り混じる天と地から、過去と未来から、見守られているのでした。いいえ、見つめられていました。咎められていました。あなたはこれから何するの?と。あなたは今ここで何しているの?と。あらゆる角度からそのような眼差しに晒され、彼女は、自分が、どうして正気でいるのか不思議なくらいだと思いました。
沐浴は、安息できる時間ではなく、裸の自分を、こうして晒しているのだと彼女は感じました。誰もこちらを見ていないのに、だからこそ、見えない存在がこちらを向いているのだと、妄想が憚るのです。彼女は胸を抱きました。美しい日差しが、きらきらと髪を洗い、取りこぼして、蓋をしました。彼女という身体を。光は、いくらの眼差しも、その体の中までは入ってこれないのです。彼女の体は、彼女のものでした。まだ男を知らないその肉体は、まだ、誰もその中に入れていませんでした。
岸辺の草をぱらぱらと踏んで、少女が走ってきました。開けっぴろげなその走り方は、気持ちいいほどでした。裸ん坊で少女はざぶんとイアリオのすぐ脇へ飛び込みました。ハリトはきらきらと飛沫を上げて、歓声を上げました。川原の向こうから、視線がこちらに集まったのが感じられましたが、二人は気にしませんでした。
「あなた、お風呂は嫌いじゃなかったの?」
ハリトが沐浴場に来ることは非常に珍しいことでした。彼女はいつも草木のにおいを付けて飛び跳ねていました。今も、建物の中で針子の仕事を手伝う一方で、自由な時間は、思い切り外で裸足で駆けていました。野性味溢れるハリトの心は、水を嫌いました。ただ髪を洗うのは好きで、自宅で裸になって桶に汲んだ水で頭を洗い流すことはしていました。がさつく髪の毛を翻すより、さらさらとさせて風に飛ばした方が気分が良かったのです。
「素っ裸になるのは好きだよ」
彼女はイアリオに答える風でもなく、自分の意見を言いました。
「ねえ。折角だから町の中でも服を着ないで過ごせればいいのに」
ハリトが珍しく沐浴場に来たのは思い切った決心があったからでした。こうした所でなければ、いつまでも、大切な気持ちは表に出せない、と考えたからでした。ハリトはつつましい胸をイアリオに押し付け、じゃれつきました。こうしていると、少女も安心しました。というのは、彼女も、イアリオたちとは違った不安を感じていたからです。ハリトは三人でいつまでも集って呑気に地下探検など出来はしないことを、十分に知っていました。少女はもっと三人で一緒にいることを望みました。現在も出来るだけそうしていましたが、それだけでは足りなかったと今思い始めていたのです。
「まだ、夜中に下着姿で出歩くのは、好き?」
「勿論。でも、そうしていられなくなるよね。子供だから子供らしくはできるけれど、成人したら、きっとそんな気なくなっちゃうからさ」
「ふうん。そう感じているの」
ハリトは髪をかきあげました。その仕草に色気たものは見られませんでしたが、どこか真剣さが垣間見られました。イアリオやレーゼが自分の人生と切り結ばなくてはならないのだとしたら、この少女も、そうした運命にありました。三者三様の人生がここにあるのでした。虹色の飛沫が飛びました。子供であれ大人であれ、それは美しいものでした。ぱらぱらだった雨は、さらりと降りしきって、過ぎました。
「イアリオと私って、結構会話が噛み合うよね。他の人だったら、こうはいかなくてさ」
「レーゼは?ああ彼は、また違った噛み合い方かしら?そうね…彼と話すと、なぜか貧乏人が、相手してもらっているって感じがするわ。私の場合ね」
「イアリオも!なぜ?」
「ハリトもなの?そうだね、彼は自分の世界を持っているからねえ。ほとんど彼は人を相手にしないでしょ?自分の都合で付き合う人間は選ぶけれど、ストイックなのよねえ。きちんとしてるとも言えるけど」
ハリトはこの女性と話しているとたまらなくいい気分になりました。イアリオの飾らない、まったく平行な年齢差のない会話が子供たちには人気でしたが、そうした話し方をする者は、本当に稀でした。
「さて、もう上がろうか。ふやけちゃうわ、これ以上水に浸かっていると」
「あのね、イアリオ」
ハリトが慌てたように呼び止めました。
「何?」
「イアリオはさあ…結婚はしないの?」
「いい人がいればねえ。探してはいるわよ。でも多分しない気がする。ハリトはしたい?」
「うん」
ハリトは正直に頷いて、イアリオの様子を窺いました。もっと何か言いたそうにしている少女を、イアリオは持て余してはならないと思い、「誰かいるの?」と、訊きました。少女はまた頷きました。
「へえ。それはいいことだわ。もう付き合っているのかな?」
「ううん。でも、そうとも言えるかもしれないけど、判らない」
ハリトは俯き、ぼそぼそと唇を動かしました。少女の視線は立派なイアリオの体に注がれていました。自分自身と見比べて、彼女は暗澹たる気持ちにもなりました。しかし、これを確かめるために、彼女と一緒に沐浴場に入ったのです。影になった少女の顔つきを、イアリオは深刻なものと受け止めて、なおかつ思慮深いその仕草を、称えたいとも思いました。
「好きな気持ちはあなただけのもの、大事にしなさい。相手はきっと、それに気づくから」
「本当?」
「ええ」
イアリオはハリトが誰が好きなのか大体判っていました。勿論、彼女が彼といる所をこちらは間近で何度も見ているのですから、女性としてうきうきとしながら見守ってもいたのでした。
「ひょっとして、あの天女たちが来た晩、星空に架けたかった願いはそれかな?」
ハリトは思いっ切りどきりとして、まじまじとイアリオを見ました。
「図星、か。かわいいわね、ハリト。もしかして、今の針子の仕事に就いたのも、その目的があってかな?」
ハリトはごくりと唾を飲んで、力強く、うんと頷きました。
「私、がさつだから。イアリオも相当がさつだけれど、私は本当にしっかりしていないからさ。うん…」
「その人のために、いろいろと努力しているのかな?」
「そう。そうなんだ。でもね…」
「相手は一向にこっちを向いていなくて、それで不安にも思ったりしている?」
「…なんで、イアリオはこっちの思うことを全部当てちゃうの?」
ハリトは涙の混じった眼の光をイアリオに向けました。
「なんでか、わかっちゃうの。きっと、あなたと私、よく似ているから」
そう言いながら、彼女の胸中には、ほのかに失くしたあの少年の顔が浮かび上がりました。しかし、ハリトはそれを勘違いしました。
「…私、イアリオには負けたくないと思っている」
「ん?」
「だから、頑張っている」
その時イアリオは、ハリトの体に黒い影を見た気がしました。しかし、気にしませんでした。その幻は彼女のものではなかったからです。黒い影を見るべきは、いまだ幼い、本人でした。




