第十二章 オグ 1.逡巡と焦燥
イアリオはぐずぐずしていました。これといって手掛かりのない洞窟のこの場から去り難かったのです。さっきの陶酔したような感覚に彼女は囚われていました。ヴォーゼという天女が目の前に再び現われたことで、その前に天と地が逆転したかのような鋭く鈍い情感が無意識に呼び起こされたことで、彼女の裸足は地面に貼りつかせられたのです。何事か深く考えるままの彼女の側にはハリトが付き添って、レーゼは少し離れた場所を探ってみました。岩の廊下には細々した水の流れがあり、壁にはそれが幾筋も見つけ出されました。
イアリオは自分を見つめました。子供たちにも言った、エアロスという言葉が自然浮かんだあの感覚の中に、何か答えを見つけ出そうとしました。緩やかな流れが突如波立ち、遮るものをすべて壊していってしまう様子は彼らの地上の川にも見られます。エアロスは、その様子をも映し出す機能を持った言葉でした。彼女は焦りました。何を焦るか判りませんが、それでも確かな焦燥が存在しました。
(ぐずぐずしてはいられない)
しかし、裸足はどうしても一歩も前にも後ろにも出ず、じっと動かないのでした。ハリトが、彼女の影のように後ろに立ち、洞窟を眺め回していました。音もしていないのにキイキイと声が聞こえたように思いました。それは、ドアの軋みではなく、動物の鳴き声のようでした。(後ろを向いてごらん)誰の声だか知りませんが、そう聞いて、ハリトは後ろを振り向きました。そこには何もいませんでした。何も、いませんでした。彼女には見えませんでした。実はこの時、イアリオの身に起きていたことは、町中の人間たちにも起きていたのですが、彼らはそれに気がつきませんでした。ハリトにも、レーゼにも、それは起きていましたが、一番敏感だったのがイアリオということだけでした。
それが、ハリトに後ろを向いてごらんと言ったのでした。今まで辿った、長い道のり。来るも遥かな道程。言い知れぬ過去が、そう言ったのです。過去が彼らを見つめていたのです。じっと、密かに、動かずに。
その洞窟はまるで母親の胸の中のようでした。
「一度、戻りましょう」
イアリオがぼそりと言いました。
「この洞窟も、事前に色々調べた方がいいみたいだわ。ここで、またあの天女に出会ってしまったんだものね。私たちには情報が少ない。町の資料を当たって、できるだけ、ハオスにも質問の必要のない事情を吸収してからが、本当にここに来る時になりそうだ」
突貫の取材は、効を奏したようでも、そうでないようでもありました。未知は増えて、切り開いたようには思えなかったのです。穴倉は闇に隠れて、立ち入るもその全貌は見えてくるものではありません。彼らには何より知ることが必要でした。しかし、天女の言葉を調べるにあたり、図書館の書物を読み解くのは、遠いことにも感じていました。現在進行中の問題は、実際に現場に向かってみねば感じ取れないと考えたからです。彼らはそれが地下であると感じました。ところが闇は、もっとわけのわからない現象を用意して彼らに何も答えを見せませんでした。
しかし、この洞窟探険の前、イアリオは言葉にするのも難しかったエアロスという感覚を、二人の子供たちに伝えられました。その概念を共有した二人の同志は彼女の意図するところを正確に感じ取りました。彼女はといえば、襲い来る言い知れぬ予感と焦燥に自分が突き動かされていることを感じながら、ともかくもそれを言語化することで、何とか感覚を理性につなぎとめることはできました。エアロスとは、来たる暴風の予感で、イアリオは天女たちの言ったことがまさにこれから実現しうるという、否定し難い感覚を得たということなのです。
彼らは今回の探険に当たり、「オグ」や「クロウルダ」など、調べる必要のある言葉に行き当たりました。彼らはそれらが一直線に天女の文言を理解する手助けになろうとは思いませんでしたが、とにかくもそれらのワードは重要であると考えられました。
オグ、オグ、オグ…それは何でしょう。イアリオは、ハルロスの日記に書かれてあることと、図書館の資料の中に見られる箇所を引き合わせ、色々と考えてみました。「人間の悪の集合体、遥か昔からいた存在!」天女たちの言葉に出てきた文言をそれは超えていませんでした。何より、それが昔からいたことと、伝説のごとく、様々な地方で語られていたということが資料から窺い知れました。きっと、エアロスのように、それは人間が世界を説明するために生み出した概念と同じところにいて、同一のものを各所で感じていただろうと思われました。オグは、この地にだけ棲んでいる怪物ということではなく、おそらくは名前も形も変えて、しかし万人に知られている存在なのです。
それならばこの存在をどこかで聞いたことがあるという彼女の感覚も説明がつきます。ですが、その感じ方を詳細に眺めれば、それだけに留まらない意味を具えているような気がまだしました。さて、町の管理する図書には豊富なレパートリーがありましたが、これだけの本があるのは、例えば滅びた都から持ち出した分がそれだけ多かったのもあります。人々は大事件を忘れぬように記憶に留めることを選びましたから、過去の国に残された数々の資料はやはり大事でした。死んだ人間を地上に埋葬するより、出来事を記憶することの方が選択されたわけでした。彼らは文化的にも彼らの方針を伝えていこうと決心したのです。そしてまた、新しい文化も、そのために色々とつくられ続けたのです。勿論、その対象者は彼ら自身でした。つまりは彼らという新しい民族でした。
教育指針はしっかりしたもので、たまに現シャム爺のような迷いの人も生み出すことが往々にしてありましたが、大抵は形作られた生活文化に誰もが勤しみ、その中で励んでいました。疑問はエネルギーを使うもので、それが損と考える人間は多数でした。それはともかく、町の図書館にある資料は亡国のものだけではありませんでした。彼らは唯一オルドピスという国と交流がありました。そこからもたらされた本が数々存在しました。オルドピスは町に本とともに技術も贈りました。その指導のお陰で町の住宅やインフラ環境は劇的に利便性を増したのです。イアリオはオグやクロウルダについて調べるために、神話集や歴史書を当たっていましたが、オルドピスから贈られた資料の中にもその記述がありました。しかし、彼女が知りたいだけの詳しいことは書かれていませんでした。
彼女はじっと、オグという言葉がもたらす情感に身を委ねてみました。自分の感覚のみが天女たちの言葉を理解する手掛かりなような気がしましたが、やはりそれでは足りませんでした。彼女は普段見ることのできない書物が議会預かりの倉庫に眠っていることは知っていましたが、そこから本を借りてみることは憚られました。彼女は地下に臨んだり墓参りをして町人に疑いの念を掛けられていましたし、父親からも、それとなく最近の行動を咎められるようになったのです。父親は、この己の力を持て余すように見える自分の娘を案じるようになりました。彼女が単独で地下に潜ることを他の議会のメンバーと共に承認したとはいえ、自分の懐に収められなくなりますます我がことのように心配されたのです。今までは、そうした気持ちになったことはなく、彼の妻と同じように放任していたのですが、結婚の適齢期を過ぎたからなのか、否応なく我が娘が気に掛かるようになったのです。彼は、彼女をどこへ行っても恥ずかしくないような娘に育てた自信がありました。例えばどんなに生活力のない男に見初められたとしても、そしてその男を選んだとしても、自ら人生をやり抜くだけの気概と潜在力を育てたという自負がありました。ですが、娘がひとりで生きていく人生は考えたことがありませんでした。イアリオの母親はそれについて落ち着いたものでしたが、父親はそうはいかなかったのです。
さて、オグについては調べるのに限界がありましたから、彼女は地下都市の地下道や洞窟について尋ね出しました。これについては町の守備隊に詳しい人物がいました。守備隊は、町人が交代でなるよう義務付けられていた役所でしたが、隊長クラスの人間はこの役所に長年在籍したつわものでした。彼らの役目は町の治安維持と、何と言っても外敵の放逐でした。盗賊連中が入り込むことのある亡国の都のことに通じている必要がありました。イアリオはそんな守備隊の長に訊き、地下を調査するにあたってどんな資料が適切かということと、彼らにとって地下道はどのように取り扱われていたかを教えてもらいました。彼らは定期的に地下都市の警備に回り続けていますが、地下道や洞窟まではその範疇ではなくて、滅多に入らないと答えました。しかし、以前トアロたちが侵入してきた時は洞窟の奥から盗み出された黄金を取り戻し、その先を岩などで塞いだと答えました。
「まだあそこから人の気配を感じるのかね?」
隊長からの問いに、彼女は首を振りました。
「いいえ。だけど、調べたいの。地盤の緩みがそこから起きていることだって、考えられるでしょ?」
イアリオとその時の隊長は懇意でした。父親を通じて両者はよく活動を共にしていたのです。前回も、子供たちの事件があった時は彼はイアリオと協力して、一芝居打って彼らを外に連れ出しました。イアリオは人々から疑われるようになったといえ、いまだ強い信頼を彼女に向ける相手はたくさんいました。
幸福至福な人間を見て、恨み募らせる人間がいます。テオルドは、そうした感情をよく理解しました。悪は命の力でありながら、命を壊すことを願いました。悪は仲間を求めました。破壊が唯一の快感をもたらす装置に思えるのでした。苦しみの沼地に悪は潜みました。悪は、ずっとその気分だけに浸れるものではないからです。だったら、幸福にも同じことが言えるのですが。
しかし、美は悪や命と同義ではありませんでした。美は印象であり、物語でもありました。悪の中にそれを発見することはありました。命の中にもありました。美は命のすべてを使い切った場所に存在しました。人は、悪の一部でした。偉大なる悪の懐に抱かれているから、テオルドは、彼らの人間としての本質の一つを自由にできたのです。ですが、彼は悪の一部ではありませんでした。音楽や歌と、悪は同じものでした。それは人の中にありながら、人の外側にありました。
この町では、図書館ごとに別々の書物が収められていました。イアリオの欲しい資料はそれぞれにばらばらにありました。ですから彼女はテオルドに頼んで、必要な本をひとところに集めてもらいました。本は基本的に館から出してはいけなくて、貸し出しは特別な事情があることが前提でした。彼女がハルロスの日記を手元に置いているのも、テオルドから書物の管理の仕方の手解きを受け、指示に従っているからでした。本の移動は、管理者が丁重に行わなくてはなりません。それで、テオルドは彼女がどんな資料を閲覧しているのか、職権上監督できました。彼女がどこまで調べたのか彼に全部筒抜けだったのです。イアリオは毎度彼に感謝して、図書室を後にしていましたが、その後、テオルドは彼女にこの箇所は必要ないだろうという紙面を引き裂いてごみにしました。悪は人を騙します。自分をも。しかし、彼は悪の言いなりではありませんでした。
図書室の冷たい石段を下って、イアリオは真っ白い日差し溢れる町の中へと出ました。今日の日差しはいかにも強過ぎました。時折かの土地にはこのような人心を惑わす強烈に明るい光が差し込みました。それは、人々の意識を狂わせ、特に子どもたちには、彼らだけが持っている、振り返らず未来へ突き進む活力を、否応なしに増大させました。それで、皆元気になり、暴れるようになり、壁に追突したり、乱暴になったりするのです。その明かりは白き町だけに降り注ぎました。周囲の農地や草原には来ない光でした。イアリオは思わず手を仰ぎ、建物の影に隠れました。他の人々も、同じようにそうしていました。この光は、実は彼女を取り囲んだあの白い霊たちの纏うものと一緒だったのですが、守り固い白壁の町は、イアリオが二人に語ったアバラディアの国のごとく、大勢の何者かに監視されているのでした。




