第十一章 ハオス 5.多くの謎
そういえば、と彼女は思い出しました。確か、テラ・ト・ガルの皆で初めて大きな屋敷を冒険してみた時のことでした。テオラと、ハムザスと、カムサロスが、とても慌てて飛び出してきた使用人宅の下には、洞窟があると言っていました。洞窟?ハリトがエンナルから聞いた立ち話の中にもその単語がありました。ですが、少年たちの事件はすっかり片付いています。
イアリオは奇妙な感覚に囚われながら、そのことを二人に話しました。
「じゃあ早速そこに行ってみようよ」
レーゼがまるでハリトのように叫びました。
「どっちにしても、あの街を調べ尽くさなきゃわからないことだと思うから。俺は、たまに、呼ばれている気がするんだ。地面の下から、なんて言うと、怖い気がするけどさ。あの街と、死人と、入江を見たせいもあるかもしれないが。イアリオは、今の自分のままがいいなんて言ったけれど、俺を含めて、この町も含めてそうならない予感がするよ。原因は地下にある。あいつらの話は、そうした内容だったと思っている」
ハリトも頷きました。こうして、三人は再び地下に、そして洞窟にへと赴くことになったのでした。
イアリオが、その運命を変えられた地下には、依然、大量の魑魅魍魎どもがいました。彼らは漂い、有象無象の怨嗟を撒き散らしていました。イアリオには前よりも彼らの言葉が明瞭に聞こえるような気がしました。子供の頃から抱いていた問題に一つの決着がついたからでしょうか、彼らと同じような怒り哀しむ心になっていたのが、今はそうではなくなっていました。彼女は以前会った女の亡霊を思い出しました。その亡霊に連れられ、ハルロスの日記帳を見つけたことを。そうするとあの幽霊は、もしかしたら、ハルロスの近親ではないかと思いました。なぜ、あの女性はまだもこの暗がりに囚われていたのでしょうか。ハルロスは、あんなにここを愛していたのに。日記の作者はこの都には自分の思いなど残していないと感じられました。彼は成仏しているでしょう。間違っても魍魎などにはなっていない。それなのに、彼に近しいであろうあの女性は、私を虜にしようとしたし、危険な感覚をこちらにぶつけてきていた…上からの光に呑まれて、あの女性は天井へ昇っていったが、その指で指し示したところに、黒表紙の本が置かれていた…。イアリオは、それが変なことに思われました。
テオルドは?ふと、彼女はあのでっぱり額の、もの暗い男のことを考えました。でも、彼は私の気持ちを正しくしてくれたじゃないか。やっぱり、ピロットの無事を自分は願っているのだと、彼と話をして私はわかったはずだ…。イアリオは、このことを考えまいとしました。いまだ、彼女にはわからないことばかりがたくさんあったのです。彼女は、側に一緒に歩いているハリトを呼び寄せて、肩を並べました。大きくなったハリトの背丈を眺め、彼女は満足しました。そうした気持ちが、今の自分を成り立たせているかもしれない、とイアリオは思いました。彼女が愛を手向ける相手は今いないのですから、子供たちの成長に、まるで自分の愛がその滋養を送っているかのような、少々複雑な経路の満ち足りた心地を彼女は味わっていました。ピロットを失い、依然彼女の心は分散したままでしたが、代わりになるものを求めて、四苦八苦をしている最中でした。彼女は生徒たちを好きでしたし、彼女の教室を卒業した者たちも、また好きでした。彼女が現在の生活を維持したいと求めるのは、このためでした。それが、天女の言に触発された、言い知れぬ焦りにつながっていることを、イアリオは感じていました。あの白霊は、この町が破滅すると言ったのです。信じなければ早いのですが、彼女が、これまで探索を繰り返して味わってきた経験が、あの言葉は無視できないと常に警告を発してきました。イアリオの焦燥は日ごとに増してきていました。なんとしても、天女たちの文言を自分の理解できるものにしなければいけませんでした。
「そういえばさ、イアリオたちがここに来ていた時、盗賊たちもいたんだよね。盗賊は、どこから入ってきたの?」
「そうね。考えられるのは、陸路か海路なんだけど…あの後、どうも街のどこかを封じ込めていたらしいけれど、少なくとも海路ではないと思うわ。でも陸路の場合、ここにやって来れるのは、北の山脈を越えてしか無理なの。大昔は西の大亀裂と山脈の間に街道が走っていて、たくさん人が通ったらしいんだけど、そこも破壊した。今は密林になっていて、見張りもいるの。だから、直接山を越えてきたとしか、考えられないわね」
「洞窟を入ってきたとは、思えないわけ?」
ハリトが尋ねました。
「まあ、それがどこかにつながっていれば、の話だけど」
「陸伝いに来たのなら、街のどこかに蓋をする必要はないんじゃないか?ケアするべきは、盗賊が辿ったルートだろう?」
「そうね。その通りだわ。じゃあ、洞窟がどこかにつながっていて、そこから侵入したんであれば、大人たちは、その道を塞ごうとした、てわけか」
「で、陸伝いは考えられない、と。じゃあやっぱり、海から来たんだね」
ハリトがおかしそうに言いました。イアリオは、そうだ、その可能性があると思いました。軍艦を係留していた港湾付近でなければ、暗礁は無いと考えられましたので、きっと彼らの経路は海を渡って洞穴へ侵入したのでしょう。彼女はまったく海からの可能性を思っていませんでした。ピロットのことがありましたから、おのずと、その考えを意識しなかったのです。
「でも、もしかしたら私たちがこれから行く洞窟は、塞がっていることも考えられなくない?」
「それはないと思うよ。十一年前、用事があったのは盗賊のルートを壊すことだもの。きっと彼らの入った、海に近い場所だけを崩したんだと思うわ」
「それならいいけど」
三人は例の煙突のトンネルから入って、都の工場地区から西へ向かっていました。目指すは都市の中でも新興住宅地にある、大屋敷ですが、その途上で、彼らは不思議な影を見つけました。それは、道の隅っこにうずくまり、ぷちぷちと呟いているような気がしました。よく見ると、それは木の瘤で、地面から隆起して折れ曲がり、また地面に沈んでいました。
「何、これ。気味が悪い」
「イアリオ、ハリト。あそこ」
レーゼが指差したところは、木の瘤のさらに奥でした。ぽっかりと壁が砕けていました。その壁は、建物の外壁ではなく、周りの岩に沿って築かれていました。三人は都の北辺を辿ってきたのです。削られた岩壁が右手に迫る、息詰まる天井の下を歩いてきたのでした。
壊れた壁の奥は、地下道になっていました。もしかしたら元は洞窟でそこを整備したのかもしれませんが、手入れされた左右の壁はすっきりと切り立ち四角い進み易い道幅でした。
「人工の、地下道」
「何のために?」
三人はその先に進みました。始めのうちはほとんど頭上すれすれだった天井が、しばらく行くと急に高くなりました。道幅も太くなり、二人が手をつないで精一杯腕を伸ばしたほどになりました。その通路は、都のあちこちを結び、荷物の運搬のために使われた道でした。大昔、限りない富を占有した海賊どもは、こうした道をも作らせて、より便利な機能都市を目指したのでした。イアリオは松明を掲げ、岩壁に何か赤い文字が描かれているのを見つけました。そこには、「鼓の音に気をつけろ」と、古い言葉で書かれていました。
その文字は意味通りいかにも警告的に見えました。
「もしあの崩れた壁が、ここに来る穴を塞いでいたのだとしたら、警告も本物と考えられるわね」
「でも何があるの?」
「それは…」
「イアリオ、風の音がする」
レーゼが声を潜めて言いました。地下道の向こうから、さわさわと聞こえます。不自然な風です。街とて風なんて吹いたことがありません。ましてこの暗い坑道に、空気を動かすものがあるはずがありません。
その音は、あっというまに彼らに近づきました。もやのような白いものが、空中を飛んできました。そして、彼らの頭上をかすめて過ぎていきました。すると、今度は別の何かが同じ方向からやって来ました。呻き声がそちらからしました。それは真っ黒く、穴のようでした。ぼこぼこと頭のようなものが付いていました。凍えるくらいに冷たい風が、頭上を飛び越え、後ろに吹き過ぎていきました。
それはたいへん恐ろしいものでした。身も凍る寒さが、あれが行った後で三人を襲いました。じっとりと額を汗で濡らした三人は、しばらくしてから止めていた息を吐きました。身をとっさに屈めていた彼らは頭を上げられませんでした。しかし、レーゼが勇気を絞って後ろを振り返りました。
「もういないよ」
彼は、本当に小さな声で囁きました。イアリオは目を行く道に戻しました。すると、白っぽい服を着た男がぼんやりとそこに立っていました。三人の持つ松明の明かりの届くか届かないかの所に男はいて、さながら幽霊のようでした。彼女はびくりと身を弾ませました。
「また、逃してしまった」
男は三十代後半ほどの、面やつれた青い目の好男子でした。その目許は涼しく濁りがありません。しかし、やや病的な趣きがありました。手も指も細長く、その肉付きはわずかだったのです。彼は簡素な外套を着用し、ぼうっと光を放つように感じられました。胸元を留めているブローチは、赤銅色をした細い線で飾り付けられ、歴史を感じさせました。
男はじっと三人を見つめていました。イアリオは立ち上がり、ぱんぱんと服の埃を払うと、この男性を見据えました。盗賊らしくはないですが、そうかもしれないと疑ってみたのです。
「あなたは誰ですか?ひょっとして、この街に住んでいるのかしら」
ここは地下道にもかかわらず、イアリオは「この街」と指しました。足元の道は都の一部だと思っていたのです。
「いや」
男は答えました。マントの裾を揺らして、こちらに歩いてきます。
「私はハオス。湖の番人をしている」
「湖の?」
彼の声はよく通り過ぎるくらい透き通っていました。神官が祝詞を唱えるような声音です。
「この先へ行ってはならない。なぜなら、この向こうにはオグがいるからね」
「あなたは誰ですか」
もう一度イアリオは同じことを尋ねました。今度はもっと厳しい声色でした。
「クロウルダの、ハオスだ。君たちは、評議会から何か聞いていないのかね?私はオルドピスの手引きで、こちらに派遣されてきたのだ」
ハルロスの日記の中に、「クロウルダ」という民族について触れた記述があったことを、イアリオは思い出しました。彼らは「オグ」という怪物を宥めに各地に港や川べりの町を造り、神官職に就いたという話でした。さらに、彼の言ったオルドピスというのは、彼女の町が唯一交流を許している国のことでした。イアリオは、このハオスという男がこちらを値踏みするように見つめていることが気に入りませんでした。
「私はイアリオ。見て判る通り、上の町の住人ですが」
イアリオは剛毅に振舞いました。
「私たちも、オグについて調べているんです」
「ほう」
ハオスは顎に手をあててさすりました。まったく髭のないつるつるした肌を滑らせて、彼は微妙な声で話し出しました。
「今、あなたたちの上を通り過ぎていった者、あれは悪霊と、そうではない亡者たちだ。彼らは私から逃げた。どうやらオグと同化しようとしていたのだ。オグは人間の魂を捕らえようとする。惹きつけて放さない、強力な悪の親玉なのだ。クロウルダはこの魔物を生涯大地に封印してその栓を監督することを担う者、ここで起きつつある現象は、しかし我々の知識を超えている」
ハオスは、長い裾をひらりとさせて、立つ様子を変えました。腰に手を当て、先程の微警戒の態度を崩し、これから先は絶対に行かせない門番の様相で立ちはだかったのでした。
「我々はかの魔物を千年以上も追っている。我々があの魔物を監督せねば、いずれオグは暴れ出し、破格の消滅をもたらすのだ」
「破格の消滅って?」
「この街で起きた…三百年前の悲劇に勝ることだ…」
彼は知恵ある者の眼差しをして、てこでも動きそうにない仁王立ちでした。イアリオたちは、何も言うことのできない雰囲気でした。ハオスは三人の様子を眺めて、後ろに返り、行ってしまおうとしました。
「待って。あなたはオルドピスの手引きでこの街に来たと言ったけれど、どうして今まで来なかったのかしら?オグを、長年追いかけているんでしょう?」
「知らなかったからだ。我々の仲間が、急に消息を絶つことはよくあることだ。この街がそうであったと、最近になってわかったのだ。オグの恐ろしさは、いつのまにか、人々と町を全滅させることにあるのだ。ここが我々の看守なしで長の月日を無事に生き長らえられたことこそ、わからぬことだ。かの魔物は慰められなければならぬ。あれは、人の悪である。赤子と同様なのだ」
「この向こうに、それがいるのね」
「近づいてはならない。彼は、人間の悪意に取り憑く。出会えばたちどころに奴の虜囚となるだろう。そして、自らが唆され悪を行ったと誰もが知らず、決定的な悪をその町に働く。いつのまにか、そこには人々の悪が蔓延して、互いに傷つき合う、恐ろしい事態となるのだ。知らぬうちに蝕まれ、いつしか町は亡びてしまう」
「私たちはもうそうした経験はしたわ」
イアリオは毅然と言いました。
「でも、生き残ったわ」
「かの魔物は違う。あれは、憎しみ、わだかまり、人間に怨嗟をのみもたらす恐ろしい怪物である。太古からの人間の悪意なのだ。しかも、無限の数がいる。太刀打ちはできない。慰めなければならない」
ハオスは行ってしまいました。イアリオはまだ訊きたいことがあったのですが、もう一度呼び止めることもできませんでした。
「何なんだよ、これって」
レーゼがぼそりと呟きました。イアリオもまさにそうした心理でした。彼女はクロウルダのハオスと対峙して、当てずっぽうなことを言っていました。オグを調べにも来ていませんでしたのに、そう言って、彼の気を引き留め、会話を主導しようと試みたのです。「どうして今まで来なかったの」と質問したのも、彼ないし彼らがいつからここに来たのか知らないために、その情報を得ようとしたのでした。できるだけ、彼女はこの未知の人物を相手に知れることを増やそうとしたのです。ですが、今の一連の現象には、謎が多すぎました。




