第十一章 ハオス 2.共感
思いがけない訪問者に、彼女はどきっとしました。彼とは二人きりで会ったことがなかったのです。ハリトとは一緒に出掛けたことはあっても、レーゼとは、いつも少女と三人で付き合っていました。
「あら、どうしたの?珍しいわね」
彼女は彼を招き入れました。
「今、お茶を出すわ。相手してあげられるのは、ほんのちょっとになるけど」
「そうか」
レーゼは木の椅子に座り、勧められるままに、緑茶を啜りました。
「あのさ、イアリオは、ずっとピロットのことを考えていたの?」
「えっ」
「今までさ、彼がいなくなってから。だから、まだ結婚していないのはそのせいかな、て思ったんだけど」
イアリオは何て答えたらいいかわかりませんでした。ですが、彼が尋ねたいのは本当は別のことだと思って、じっと相手を見つめました。しかし、彼を見つめて、彼女は自分の心をも凝視しました。
「そうね」
彼女は唇に手を当てて、彼の目の中を覗き込みました。
「このまま結婚しない人生ってのも、ありかもしれないわね」
レーゼはしばらく黙って、また口を開きました。
「実は、うちの姉が結婚をするんだ。でも本意の相手ではないんだよ。ずっと好きだった人ではなくて、ずっと好かれていた人を選んだんだ」
「うん」
「姉はそれでいいって言っている。でも俺の気持ちの整理がつかなくて…それでイアリオに相談に来たんだ」
「お姉さんは、納得しているんだね?」
「そう。うちの姉は、丁度二十歳で、適齢期だから」
「…少年」
「何?」
うつむいてしゃべっていたレーゼは顔を上げました。イアリオは微笑んで言いました。
「それで丁度良かったのよ。何事も時期があるわ。決めなければいけない時期、そしてその時が来れば、人間は決断する」
彼女は右手を振り上げました。
「決まらない間は、悩みの期間。無駄なことなんてないわ。私も、そういった決断を下す時がきっと来るのだと思うけれど」
レーゼは黙してイアリオを見つめました。相手から、何か解答が見つかりそうな気がしたからでした。
「今無理に自分の気持ちに決着を付けることはないわ。でも、あなたの気持ちもわかる気がする」
「姉は、好きだった人のことを自分が好きだということを、誇りに思っていたんだよ。でも、丁度母親が倒れたり、姉を好きだった相手の家でも残念な事があったりして、色々と色んな事情が重なったんだ。だから…」
「お姉さん、相手の気持ち、よくわかったんじゃないかしら?」
イアリオは机の上を撫でながら言いました。
「自分も好きだったから。それで一緒になったんだと思うわ。きっとね」
「俺、よくわからない。姉の気持ちは?ずっと好きな人がいた姉は?」
「どういうこと?」
「姉が、自分が好きだった人への思慕を、どのように整理つけたかわからないんだよ」
「それを含めて、『好き』な気持ちなんだよ。自分が『好き』という感情は、相手だけじゃない、自分自身も含めてなんだよ。お姉さん、言っていたんでしょ?彼を好きな自分が誇らしいって。彼女はきっと、そんな自分を、まるごと愛してくれる人を発見して、心を許したに違いないわ。でなければ、そりゃ、結婚なんか決断しないわ」
純愛はこの町にもありました。性愛は錯雑としていてそのパターンも無限にありましたが、そうであればこそ、一途な恋愛も一つの市民権を獲得していたのです。
「よくわからないよ…」
合点のいかない少年は、まだ、苦しみの表情をしていました。彼は、新しくつがれたお茶を飲み干すと、自分が今までずっと彼の姉の思い人の世話になっていたこと、その人を兄のように慕っていたこと、その人も姉ならば一緒になってもいいと言っていたことなどを打ち明けました。レーゼは、その人と自分の姉と、二人分の思いを背負っていたのです。
「それは苦しいね…」
「俺は、俺だけの気持ちに整理がつきやしないんだ。その人たちの分まで、なんか考えちゃうんだ」
「そう…」
イアリオは立ち上がり、後ろから、彼の肩に手を置きました。レーゼは急に緊張したように、背筋をぴんと伸ばしました。イアリオは、この少年の、たくましい情念に思慕を抱きました。
「あなたらしさを大事にして。今は、それでいいわ。でもきっと自分のことだけを考えていれば大丈夫よ。お姉さんも、お姉さんが好きだった人も、自分で決着をつけるから。恋愛はそれが大事。て、たった一人しか好きだったことがない私が言っても仕方がないかな」
彼女は恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻きました。レーゼはぶんぶんと首を振りました。
「よくわかったよ。何だか、納得した。ありがとう」
「よかった。ねえ、レーゼ、あなた今好きな人はいないの?」
「いない」
「はっきり言うわね」
「しょうがないだろ。本当なんだから」
「だったら勧めるわ。誰かを好きになるのって、苦しいけど、色々なことがわかるわ」
「イアリオは…」
レーゼは、言いかけてやめました。それは訊くまでもないことでした。しかし彼女はなんとなく彼の言おうとしたことがわかって、口を開きました。
「もうすぐ、私も自分に整理がつくわ。ピロットがなぜ逃げ出したか、わかってきたの。もしかしたらこれを越えれば、新しい自分になれるかもね。でも、今の自分もこうして気に入っているのよ。誰かを十年間、ううん、それ以上に想い続けているなんて、そうそうできない私だけの体験でしょ?」
イアリオは片目を瞑って見せました。その仕草は、ぐさりと刺さるナイフのように、鋭く少年の心を貫きました。
「結婚願望も本当はあるのよ、私は?まあ、検証は後日、あなたたちに、私の推理、全部教えてあげるわ!」
三人はまた東地区の三叉路の、地下から伸びた煙突から入って、都の工場に降りました。
「彼は、盗賊たちを追い詰めた捜索隊から、やはり逃げたんだわ」
ぼうっと赤く輝く灯が残酷な運命を辿った都の一部を照らして、呻くように、その姿を現させました。
「きっと、何かをこの街から持ち出したんだと思うの」
「それって、盗賊と同じことをしたというの?」
ハリトが尋ねました。
「その可能性もある。彼は、盗賊たちと張り合っていたから。そうした気持ちにもなっていたかもしれない。どちらにしても、もしここから何かを持っていったなら、盗みになるわ。そうしたルールだからね。しかし、私たちは当時この都の事実を知らなかった。ただ、彼が手に入れたものは、ひょっとしたら、人々から逃げ出さなきゃいられないくらいのものだったと、考えられるわ」
「それって、黄金?」
そういえば彼は欲張りだったと…イアリオは、思い出しました。あの時、盗賊のことも、行方不明になっていたテオルドのことも、皆自分に任せとけと言って、彼女と約束したのでした。欲張りな彼が、果たして持ち出した小金を人々から見つけられかねなかったとして、逃げ出すほどの焦燥に駆られるでしょうか。いいえ、違いました。彼らは、この町の人間は追及する欲望を禁じられていたのでした。もし、ピロットが一人で黄金をせしめようとしたなら、その禁忌の気分は、彼をも襲うはずでした。子供たちが皆で探索している時は、何を発見しても、それが皆のものであるとしていたのですが。あっとイアリオは思いました。そうだ。ピロットは、彼は、独りで挑戦しに行ったんだわ…!
イアリオは急に頭が痛くなりました。黄金は、忌まわしい、人間の心を痛めるばかりに利用して搾取して思い通りに動かそうとする力でした。彼女は、ハルロスの日記も読んでそうしたことが滅びの日に行われていた実情を確かめていました。黄金が個人個人に働きかければそうしたことになるのです。だから、人々はその力を恐れて、皆で管理しようと努めたのです。
「だんだんはっきりしてきたわ」
「どういうこと?」
「運命は、私たちにも降りかかっているのよ。この街を怖がる気持ち、自分自身を疑う気持ち。自分たちの先祖がしたという事実が、何よりも重く感じられるから、どうしようもなく、この街と、黄金とを恐れたわ。ピロットはそれを破った。彼なら破ってもおかしくはなかった。彼の力は、そうしたところに向かおうとするから。ああ、いけないな。また泣きたくなってきちゃうなあ。どうしようもないね」
イアリオは言葉を切り、うつむいて、唾をごくりと飲み込みました。そして、目を開けて、はっきりと、この地下世界を仰ぎ見ました。
「この街は、危険なものを包含しながら、私たちをいまだ誘惑し続けているのか。でもそれは、私たちが人間だから、こうした力に恐れたり、誘惑されたりするんだわ。ピロットは、彼も人間だったにちがいない。何が本当に彼を騙して彼を入り江の向こうに連れて行ってしまったか、それは確認できないけれど、私たちが、いいえ私が…自分が、一番知っている彼の姿は、ああ、逃げていっても、おかしくはない気がする。ここね。ここだね。ああピロット、さようなら。私は、あなたの逃亡に一つの決着をつけたわ。これからは…失ったあなたと共に、生きていくんだわ」
この言葉は、二人の子供らの耳に、違った印象をそれぞれもたらしました。レーゼは彼女の心がよくわかる気がしました。といっても彼は、彼女に同情しなければ、また激しく共感もしませんでした。彼は、一人の女性が自分自身と向き合って決意を持つ様子を細かに確認していたのです。だから、彼は、固い意志をこの人の中に見つけて、尊重したいと思いました。一方ハリトは、イアリオの心情に心を寄せるも、シンパシーを持った事柄はその他でした。つまり、物語で聞いたような話の中に…例えば、恋人を喪失した女の話とか、大事な物を失った後の孤独な人間のストーリーとかに、彼女を重ね合わせて聞いていました。そうすることで、ハリトの中で、イアリオはまた新たな位置を占めました。それまで、どちらかといえば彼女から一方的に尊敬していた人が、いつのまにか、物語の登場人物に引き寄せられて、対象化できるようになったのです。よく似た話をハリトは思い出し、そのいくつかをイアリオに当ててみることで、その相手をよく知ろうとしたのは本当なのですが、そうすることで、イアリオの価値は相対的に下がってしまったのです。




