第十一章 ハオス 1.逃げる理由
一体どうしてピロットは、この入り江から逃げ出すように舟を漕いでいったのか、イアリオには分かりませんでした。何があったのでしょう。確かなことは、あの日、同日に盗賊どもも倒されたということでした。彼は、やはり彼らと接触したのでしょうか。そこで様々なことが起きたのかもしれないと、彼女は推理してみました。
一方レーゼは冷静にもやい綱の跡を分析していました。どうにも彼は、その跡が新しいものに思われたのです。杭は、古びていて最近立てられたものとは思われませんが、綱の擦った線などは、仮に十年前ピロットがいなくなる際に付けられたものだとしても、違和感がありました。彼には線が幾重にも見えたのです。ですが、その線のすべてが最近のものだとは判別ができませんでした。
イアリオはレーゼに尋ねました。
「どう?ここに、エンナルやシュベルがいた痕跡があるかしら」
「あるようなないような、だな。はっきりとは判らない。気にはなるけど、断言できない」
ハリトは光り輝く入り江の向こうを見つめました。えもいわれぬ興奮が、あちらの海から掻き立てられるのを感じました。ですが、彼女も町の人間でした。海や、黄金の憧れは厳しく咎められていたのです。…それ以外の欲望なら、解放して許されるものはありました。町は、性に対しては開かれていました。女性と男性は一人と一人でなくても結婚できました。男女のいざこざは絶え間なく、テラ・ト・ガルのメンバーであったテオラでさえ、既に奥さんがいる人に婚姻を申し入れて、後で正妻の座を奪っています。いざこざがあまりにひどくなってしまった時にはさすがに調停が入りますが、抑圧的なこの環境において、性は恰好の発散の場でした。
しかし、黄金を求める意思は、性にも似ています。壊したことのないものには、彼らもいささか不注意でした。いいえ、本当なら破滅の時に、そうしたことも行われていたのですが、曙に目覚めて、彼らはすべてを金のせいにしてしまったのです。そうしなければ、生きていく意思も維持できなかったのです。
ところで、黄金への激しい憧れは子供時代から戒められていたにもかかわらず、どうして十五人の子供たちは黄金都市を経巡ってそれを探していたのでしょうか。それは、町とはまったくの異世界を冒険しているからでした。町で従っていたルールがそこでは効かず、十五人全員が(あるいは年長者ラベルの判断が)決めたことが約束事になったのです。その時、黄金を巡る昔話は、本来の機能を取り戻したかのようでした。ハリトは、十年前の彼らと同じような体験をしていました。素直な性格が、素直な希望を欲しました。それはここにいる三人がずっと一緒にいて、この場所での思い出を大事にし続けることでした。
イアリオはここから立ち去りがたく思いました。レーゼとハリトは、海を眺めながら、そしてイアリオの傍にいながら、ゆったりと安らいでいました。しかしイアリオはざわめくものを感じていました。きらめく美しい海は、彼女をそこへ誘っていました。あれから十年、彼女には経っていたのです。再出発の時が、ここから、始まるのです。
「ここは、誰かには決して教えてはならない場所ね。勿論、三人して地面の下に侵入したことの延長だからだけど、咎められるからじゃなくて、ここをそのままにしておきたいからだけど」
二人とも頷きを返しました。
「ピロットの逃亡はまだ疑問が残っている。シュベルたちのことも。でもこれ以上の追跡はできるかな。さて、私たちの本題はあの光の霊たちの奇妙な言葉を確認することだったわ。でも、御先祖の話もどこまで確認できるものかどうか…わかるものかどうか」
「でも、やっぱり確かめないと」と、ハリトが言いました。「イアリオに来たメッセージなんだから。本物でしょ?」
「イアリオは気が進まないの?」
レーゼが尋ねました。
「そうね」彼女ははっとしたように目を開き、すぐに目を細めました。「気が進まない、のか。うーん、それはどうしてか、わからないけれど。まだ、夢だったらって、思っている自分がいるわ」
「それはどうして?」
レーゼがしつこく訊きました。
「俺たちは、無視できないからここに来ている。あの言葉、はっきりと聞こえて、あの幽霊、俺の方を見てよくわからないことを言いやがったから。ハルタ=ヴォーゼ、きっとあいつの名前だけれど、そいつを俺は許せないんだ。あいつの言ったことを自分なりに確認しなきゃあ収まらないぜ」
イアリオの中に、「エアロスの伝説」という言葉が閃きました。それは、彼女が白い光たちに遭った後に、倒れる直前に漏らした呟きでした。イアリオはあっと小さく叫んで、急速に頭脳が整理されてゆくのを覚えました。
「逃げられないと、思うからだよ」
彼女は、がっかりと言いました。
「そうは思いたくない、というのもあるけれど」
「どういうこと?」
「ううん、違う。結局、ピロットの事件も三百年前の出来事も、私の祈りも、みんなみんな集約されるのはわかっているわ。レーゼの言う通りなんだよ。私の心に、あの霊たちは呼びかけに来たんだって。でも未整理なの、まだね。彼らの言葉を本物かどうか、追求していくには、足りないものがあると思うわ。自分自身の、内側にね」
彼女の言には実感が伴っていました。レーゼもハリトも、それ以上は何も言えませんでした。
その日は、ここで解散しました。収穫多い一日となりましたが、また新しい課題が、三人各々の中に様々に浮上していました。
冷たい光が、現れました。それは、命の灯火でした。残酷な運命を辿った、昔の人間の光でした。あかりがふわふわとある人物の側に近づいていきました。相手は眠っていました。
その頬に額を寄せ、そのふわりとした唇に手をかざして、光は行ってしまいました。いいえ、出掛けていったのでした。首には年齢を思わせない艶やかさが残っていました。霊の衣装は、真っ白でした。どんよりと暗い、大地の下に、幽霊は潜りました。そこにある、広大な街に。
霊は、ある存在とそこで出会いました。大きな大きな、怪物でした。いいえ、怪物のようでした。そこにあるのは、人間の意識、悪に染まった、哀しむべき力たちだったのです。霊は手を相手に当てました。すると悪は、黒々した腕を伸ばして、冷たい光を包みました。煌々と明るく光が弾けました。やがて、太陽が洞窟に昇ったかのごとく周囲は激しく明滅し、本来の都の姿を照らし出しました。人が、人々が、一斉にこぞってうたい祈りました。こうあるべきだ。我々はこうしてあるべきだ、と。
涙を流した一人の人間がいました。彼は生きていました。テオルドはそこにいました。自分の来し方と、向かうべき道のりと、破滅へのかぞえうたを、彼はもらっていきました。
にぎやかさにイアリオは目を覚ましました。何だろうと思って外に出てみると、少年が自慢の歌を披露していて、人々がそこに集まっていました。子供は美しい声で、鳥のように囀り、川のように滔々とうたい、彼らの心を慰めました。彼らは悦びました。それを見て、イアリオは、自分も癒される心地がしたものの、同時になんて彼らは悠長で、蔑むべき人たちなんだろうという、醜い心理にも襲われました。軽く眩暈がして彼女は寝床に戻りました。そして、彼のことを考えました。なぜ彼が、あの街から逃げていったのか。
目を瞑ってみると、彼の面影が思い出されます。針のような、剣のような、鏡のような鋭さをもった瞳と目。彫りの深い顔立ち、尖った鼻、賢い眉毛、皮肉な微笑み、立派な首筋、頑強な肩。彼のすべてがいとおしく蘇りました。彼女はため息をつきました。
もし、彼が逃げるとすれば。彼女は、自分が知る限りのピロットを思い出して、それは次の勝利のためかもしれないと考えました。彼は決して屈しませんでした。いつもあざとく、強者を眺めて、馬鹿にします。彼を殴る者がいても、どうせやつらは年長である今のうちさ、俺の背が追いつけば、頭の回る俺の方が勝つに決まっていると言いました。実際、腕力に頼らず何度もいたずらだけで相手をやり込めていました。彼女は彼のそこに魅かれたのです。ピロットは、何から逃げて、どんな勝利をつかもうとしたのでしょうか。彼は、黄金の街に来ていました。そこで、盗賊たちに出会ってしまったことは考えられました。失踪したあの日に。もしかしたら彼らから逃げたのでしょうか。いいえ、あの二人組は前日からずっと上の町の人々に追われていました。そんな状況の相手とやり合っても、ピロットは満足しなかったでしょう。
では、何のために再び地下へと潜ったのでしょう。彼を追いかけた町人は、自分たちから逃げているようだったと言いました。なぜ町の人間から逃げる必要があったのか?
「本当?」
彼女はこの推測を疑いました。見かけの逃亡と思いました。でも、と彼女は思い留まりました。もしかしたら、本当に、彼は町人から逃げたのかもしれないぞ?だって、もし私たちがあの場所でずっと遊んでいて、大人たちに発見されそうになっていたら、逃げたでしょう?ならば彼の目的は、盗賊たちではなく、地下にあるもの、つまり、黄金や宝石だった…?
これはありそうなことでした。もし彼が、大人たちに自分らの探索を邪魔されたと考えていたなら、自分のプライドのために、何らかの手段を講じようとしたでしょう。何かを諦めるのは彼らしくありません。その時は、命をかけて、反発したはずです。「私は彼を、半分もわかっていなかったかもしれない」彼女はそう呟きました。
ならば、とさらに彼女は考えました。ピロットは、どうして人々から逃げ回ったのでしょうか。これは不思議でした。反発する相手は、まさに彼らでは?いいえ、違いました。彼が逃げたとするならば、もう目的は、別のことになっていたはずでした。彼はきっと、当初の目的を果たしたのです。きっと、黄金を見つけたに違いない、そうイアリオは思ってみました。すると、するすると謎が解けていきました。彼は盗み出したのです。あの暗がりから、彼の手に持つことのできる宝石を!そうなれば、人々に見つかれば、逃げることしかできなくなります。盗人は罪人であり、立派な悪人だからです。彼の逃げ場所は、あの入り江、であれば、見つけた舟に乗って、どこまでも遠くへ行こうと望んだでしょう…!
イアリオはかっと目を見開き、喉と額に熱を感じました。彼女は寝床から起き出して、顔を洗い、手を洗いました。取り置きのパンと燻製の肉だけを用意した、軽い朝食を摂りました。ぼんやりと半時ほど過ごしたか、その辺りで、玄関を叩く音がしました。開けてみると、レーゼ少年が立っていました。
「ごめんなさい。今、時間あるかな?」
彼は神妙に、彼女に願いました。




