第十章 ピロットの行方 6.運命(さだめ)の導き
入り江は複雑で、方々に支流がありました。そこに小さな船を繋ぎ止める埠頭が点在していましたが、もやい綱を縛るための杭は皆、錆付いていたり腐っていたりしていました。木製のものと鉄製のものとがあったのです。しかし、舟は一隻もありません。勿論、大昔にすべて破壊されたのです。
「係留の跡があるけれど、皆古いものだね。やっぱり最近一度も使われたことがないや」
レーゼが冷静に分析してみせました。
「万が一、奴らの海外への航路がないものか、疑ってみたんだけど」
「あなた、まだ、シュベルたちがここに来たりしているのではと考えていたの?」
「うーん、引っかかっているんだよ。ずっとね。何が気になるのか、自分でもわからないんだけど」
「あなたはシュベルを直接見たことがないよね?」
「いいや、見たよ。仕事の都合で彼と会う機会があった。どんよりしていて暗かったな、奴は。エンナルも見かけた。あいつら、怪しいぜ。まだ何か計画しているようだった」
イアリオは首を傾げました。
「どういうこと?」
「一度計画が狂ったところで諦められるものか、てね。あいつらの遊び、少々刺激があったかもしれないけれど、また新しい遊びを開発するもんだよ。まだ遊び尽くしていないならね」
「彼は、意気消沈していたのよ?」
「関係ないよ。悪いことなら尚更ね」
イアリオはにわかにぞくりとしたものを感じました。
「どうしてそう思うの?」
「そういう目をしていたんだよ。あいつら何も諦めていない。エンナルにいろいろと任せたって話だけど、彼はうまくやったんじゃないか。まあ、でも、この意見は俺の勘を通り越していない。本気にはしないでくれよ」
イアリオはじっと闇に目を凝らしました。どこからか足音が聞こえてはこないかと待ち構えてみましたが、しんとして静かな滅びの街は、不気味に重く沈んだままでした。この空間にもの探しをしてみようとすれば、途端に気が滅入る気がしました。
「やめておこう」
彼女は呟きました。
「私も想像の域を出ないわ。彼らが、きっとこの街には足を踏み入れていないことを祈りましょう」
「そういえば」
と、ハリトが口を挟みました。
「ピロットは、舟で脱出した、て言っていなかった?その港はどこにあったの?」
「そういえば…」
十年前の事件の後、子供の頃のイアリオはしばらく気が動転し、あの丘の墓地で祈るまでは落ち着くことがありませんでしたが、その後でピロットのいきさつを詳しく聞いていました。人々も、なぜピロットが小舟なんかで海へ脱出したか判りませんでしたが、最後に見た彼の姿は彼らから必死で逃げる、怯えた表情の、およそ悪童ではない彼らしくない恰好だったということでした。イアリオは当時彼女の方が大人たちが知らないことを知っていましたから、なぜ彼が逃亡したか逆に訊かれる立場でした。彼女はできるかぎり説明しましたが、わかることはせいぜい、自分が彼と行方不明になったテオルドを見つけ出すという約束を交わしていたことや、盗賊と彼の間に彼女が聞いた範囲でのやり取りがあったということぐらいでした。もしかしたら彼がなお都市に執着して(もしくは盗賊たちとの対決に向かうために)再び侵入を試みたのだろうとは考えられましたが、いくら想像しても、彼の逃避の決定的な原因は見出せませんでした。
「そうか」
彼女は小さく頷いてみせました。
「ピロットがどうして逃げたか、彼の足跡を辿れば見えてくるものがあるかもしれないんだわ。…それはともかく、ハリトの言う通りね。でも、彼はその後行方不明になったんだよ。子供たちが、そこから海の外に出ているとは考えられないけれど」
「あ…」
ハリトはしまったと思いました。イアリオに、余計なことを考えさせてしまったと思ったのです。
「でも確かめてみましょう。レーゼの勘もあるし。私も、そこを調べたいわ」
しかしその日はそこで解散となりました。後日、改めて同じ場所まで来て、イアリオは話を続けました。
「家の中で考えてみたわ。なぜピロットが小舟を見つけられたか、て。彼らは船を全部壊したはずなのに、どうしてあったのだろう。一つ可能性があるわ。ハルロスの舟ね」
彼女はハルロスがずっとその舟を隠していると思っていました。日記には、イラの書き残したハルロスの最期のシーンは破かれて、彼女は彼の運命の顛末を知りませんでした。もし彼が殺されたのだと知っていたら、その小舟も壊されたと思ったでしょう。実際には人々は彼の舟を見つけることができず、彼の処刑の後に新たな暗礁を埋めることで間に合わせていました。
「彼の舟があった所を探してみよう」
三人はまず港の周りを見て回り、水が岩壁の内側に進入している箇所をあまねく巡りました。イアリオはピロットを見送った当時の調査隊の人間にその位置を尋ねていましたが、記憶が曖昧ではっきりしませんでした。込み入った街路を追いかけていたらいつのまにかそこに来ていた、とは言っていましたが。
「港湾にはなくて、ひょっとしたら全然違う所にあるのかな」
イアリオはハルロスの日記をよくよく思い出してみました。都からの万が一の逃走経路を彼は利用したと書いていました。そこは軍人しか知らないような道だということで、彼女が推察するに宮殿か兵舎から通じているようでした。彼女は思い切って、二人を街の中心部に誘いました。都の真ん中は、豪勢な家が立ち並ぶ歴史的にも価値ある街並みでした。堂々とした分厚い壁に囲まれた海賊の個人宅は、それぞれが個性的でした。金の装飾に華美な彫刻を合わせてまさに贅を尽くした佇まいのものもあれば、まったく質素で外装はつまらない家もありました。しかし外側に余計な贅沢を施していない家屋こそ、内部はきらびやかに美しく拵えていて、そのギャップに家主の性格がうかがえました。海賊を追い出してから、豪華な家は兵士たちに分割して譲渡されていましたが、それゆえに、彼らに黄金への尽きぬ興味が湧き出したということもあるでしょう。ハリトとレーゼはおもしろがって一々邸宅に関心を示していました。イアリオはそんな彼らの様子を微笑ましく見ていました。いずれ、この地下世界が日の目を見て(あるいは永遠に土の中に眠るかもしれない)、すべてがどこかに解決へ向かうとすれば、この街を興味深く探検した記憶はきっと忘れがたいものになるはずでした。イアリオは二人と歩きながら、色々なことを思いました。自分はいったいこの街をどうしたいのか、町の人々と何を交渉していきたいのか、墓参りは禁止になってしまいましたから、もしまだここに棲む怨霊たちを想い癒そうとするなら、ピロットのことも含めて、どの場所で供養するのか…そうして考えながら歩いているうちに、彼女たちは非常に入り組んだ区画に嵌まり込んでいきました。大屋敷の界隈から細かい路地が網の目のように張り巡らされた、下町に入っていったのです。そこは都の中でも古いつくりをした一帯で、石造りの家々は簡素で隣と軒を連ねていました。空中に走る回廊には大小の窓が空いていました。上の町のゴミ街に近い複雑な構造で、住人の数が多くなってしまい、どうしてもあの場所この場所に住処をつくらねばならなくなったために出来た苦心の町並みでした。
「目が回りそう。でも楽しい」
ハリトがはしゃぐように言いました。
「ゴミ街と違うのは、ここが異様に古くて、埃だらけだということだね」
しかし、細い路地の一帯を過ぎて広い十字路に出て、二人は戦慄しました。いまだ放って置かれたままの人間の死骸が、そこにたくさん転がっていたのです。
「今まで出くわさなかったのが不思議だけど」
イアリオが穏やかに言いました。
「それは、ハルロスが昔、本当に彼らを荼毘に伏そうと努力していたからかもね」
三人は家屋の上に上りました。迷い込んだ住宅地をそこから眺めて、元の道を探そうとしたのです。すると、屋根の上に、仰向けになった死体が無数に置いてありました。そこは兵士たちの激戦の場でした。彼らはそこで倒されて、重なり合ったもの、絡み合っているものなど、多種多様の死に様をさらしていました。下からは見えなかった、この陰鬱極まりない景色の広がりに、三人とも胸の奥をむかむかと射貫かれました。
「なんだよ、ここ…」
「来なきゃよかった?」
「イアリオから話を聞いて、覚悟はしていたけど、あんまりひどいね」
「そうね」
ハリトは口調こそ落ち着いていましたが、気分の悪さがしかめっ面に表れていました。レーゼはただ喉元にせり上がるむかつきに耐えよう耐えようとしているようでした。先日登った塔の上からはここの位置は遠くて暗闇の中に沈んでいました。あの時は、ただ地下都市の広さに目を瞠るばかりでしたが。
「もしかしたら、私たちを襲った彼らより、惨い死がここにあったのかも」
「これじゃあ、この街を恐れて当然だよ。何があったか知るよりも、封印することを選んでしまう」
「そうね。そうだね、ただただ恐れて、怖がってしまって、黄金も人間も、管理するのを選んでしまった。残念ね。人の本性がこれだって、これじゃあ思い込んでしまうから。でもね、そうじゃないの。ここにあるのは人の一面だけ、惑わされちゃならないの、きっと。けれど、人は人間だから惑わされてしまうわ。どんなことがあっても、ずっと自分自身を失わずにいるのって、ひょっとしたら不可能なのかも」
やっと、子供たちは落ち着きました。彼らは何よりも傍にイアリオがいるのが心強く思われました。その時、彼らはある一本の道を発見しました。屋上からそれは見えるのですが、どうもその道だけうねうねと下方に伸びており、他の道路と交わっていません。不自然な道だなと三人は思いました。しかし、どこから行けばあの道筋に辿り着けるのか、検討がつきません。
「どうする。行ってみる?」
胸を突くひどい有様を見た後で、これ以上の冒険も少しつらく思われましたが、レーゼとハリトは彼女に頷きを返しました。彼らは方向感覚を大事にし、近くに立つ最も高い塔を目印にして、灰色の小路を渡りました。ゆらゆらと揺れる松明の火は、たった一組のこの一団を、頼りなく灯していたのですが、その明るさは、まったく温かい光でした。イアリオは気がついていませんでしたが、以前より、今日の暗黒都市は暗さを控えめにしていました。太陽の明かりが都合よく天井からたくさん入る角度にあったからでした。そうでなくば、その道は見つかりませんでした。
彼らは目指す道を見つけ出すことができました。曲がりくねった道筋を下へ、下へと下りていきました。
地面の下に何があるといえば、地獄だとよく言われます。この街は、まさにそうした光景でした。しかしそのさらに下へ、下っていった時に、三人は神々しい、光に満ちた、えもいわれぬ美しい景色に遭遇しました。まるで女神が降臨したあとのような、静かな入り江が、淡い陽光に薄く綺麗に輝いていました。遠くからカモメの鳴き声が聞こえて、波の音もしました。彼らにとって初めての海が、目の前遠く、アーチの岩壁の向こうで、きらきらと煌めきうたっていました。「ああ」レーゼが溜息を漏らしました。「こんな景色、見たことがないや」
「ほんと…海って、綺麗なんだね」
ハリトは目を細めうっとりと見つめました。しかし、イアリオにとっては喉の詰まる、強烈な空虚とかなしみに襲われる景色でした。
「死者たちの街の下にある、ああ…唯一浄化された所なのかな。こんな場所が…」
彼女はなんと皮肉なことだろうと思いました。ハルロスの都に向けた愛の言葉が蘇ります。イアリオはどこから来るかわからない激昂に胸を打たれました。その昂りを、表に出すまいと、必死に耐えました。
「少しずつでいいから、ここにある明かりを、上の都に持って行くことはできないかしらね」
レーゼはその時、測り知れない苦悩にのたうつ人の横顔を驚いて見つめました。彼女の抱える真実の思いが、彼に届いたのです。彼は、虹色にたゆたう海面を見遣りました。何かが彼の中で劇的に変わりました。松明の火はいりませんでした。
「埠頭だ。埠頭があるよ」
ハリトが見つけたのは、地面に突き立てられた木の杭でした。そのうち一つだけ朽ちずに残っているものがありました。もやい綱を縛った跡がくっきりと残っている黒光りした太い杭でした。その跡は、疲れ切った人間が、あがこうとして掴んだ人間の手のようでした。その時彼女は、十年の時間が逆流したように思いました。まるで自分が、ここで彼を見送ったような気がしました。光の中へ消えていく彼を…いなくなってしまった彼を…!
「これ…」
ハリトが杭の傍に小さな物を見つけて彼女に差し出しました。それは、種でした。乾き切って萎びたヒマワリの種子でした。彼が唯一、彼女に明かした、自分が好きだといったものでした。ああ、ああ…!
ここで、この場所で、確かに彼は、行ったんだ………!!
「アステマ、アステマ…」
名渡しの儀式はもうしていました。彼が、失踪したその日に。彼女はピロットの下の名を呼びました。涙が溢れてきて、止まらなくなりました。
少年アステマ=ピロットは、島民の小屋の寝台の上で目を覚ましました。そこで、彼は傍に座っている美しい女性に目を留めました。女性は彼の荷物を漁り、帯を持ち上げてみました。するとそこから、植物の種が落ちてきました。
彼の意識は一気に覚めて、女性から自分の帯をふんだくりました。
「わあ、驚いた!あらあら、元気そうじゃない。元気が有り余っているわ」
「お前は誰だ」
彼は言いました。言いながら、床板に零れたいくつかの種を、じっと見つめました。
「私?私はビトゥーシャ、今この村にお世話になっているの」
彼女は顔を触れるほどの近さまで少年に近づけました。
「あなた…一体どんな目に遭って、ここまで来たの?びしょ濡れのまま、砂浜に着いたっていうじゃない」
彼は黙って女を見据えました。「ふうん」女は値踏みするように彼の顔と、恰好と、憮然とした表情を観察しました。突然、はははと笑って、「ごまかしは効かないわ」と言いました。
「私とあなたは同じ匂いがする。立派な悪の匂いよ。人間を翻弄して、そこに快楽を捩じ込む、素敵な職業。ああ、あなた、その入り口にいるのね。でもいいわ。私がゆっくり、教えてあげていくからさ…」
ビトゥーシャは桃色の息吹を少年に吹き付けました。その股間に手が這い、少年はびくりと弾みました。彼女は彼にキスをしました。その感触は、甘いものではなく、凍りつくようにぞくりとするものでした。ピロットはどくんと心臓が飛ぶのを感じました。その感覚、彼が、暗闇の街の五弁花の咲く奇妙な生命の壁を越えたらそこに、あの黄金を、光り輝く小金たちを見つけた時によく似ていました。唇を離して、ビトゥーシャは少年を眺めました。やはり見込み通り、この子供が無限の可能性を持っているのを見て取りました。彼女の領野である、持ち前の、人間の悪を利用して生きるその生き方の娯楽を、教えてあげられる相手でした。
少年は、彼女の口付けの意味が分かりました。それは、ようこそここに、入り口があると紹介していました。彼はその門前に立ちました。門の高さは果てしないものでしたが、幅は狭く、その向こうにある道も、細く窮屈でした。ですが、大勢の人間がそこを通っていったことを、彼はよく知っていました。
「いいよ」
ピロットは呟きました。
「ついてってやるよ、お姉さん。ああ、ビトゥーシャ、それは下の名前(first name)なの?」
「ええ、でも、私の名前はこれだけなの。色んな名前があるけれど、本当はこれだけなの。意味、わかる?」
彼が想像できたのは故郷の名渡しの儀式でした。彼は心の中で小さく悲鳴を上げました。大事なことを、彼にとってとてもとても大事なことを、何かが忘れさせようとしました。
「俺は…アステマだ…」
その時に、彼は一つの記憶を失いました。それはいらなかったのです。彼が、自由に、悪の道へ羽ばたくためには。




