第九章 北の墓丘 2.死者たちの予言
星屑の光は、祖先たちの存在でした。彼らは雑多に、我もなく集っていました。真ん中にいる女の姿をした幽霊が、彼らの束ね役でありましょう。光は、ゆらゆらと揺れて、その中に黒い影を携えていました。一人一人の人間の頭は見えるものの、体は結合したアメーバのようでした。たくさんの人間の霊魂がここにいます。イアリオはそのうちの一人と、目を合わせました。
その瞬間、びりびりとした電撃に打たれました。彼女は、初めて地下へと入った時に、サカルダの思い違いの鐘に戻らされ、そこでカムサロスそっくりの幻を見たことがありました。彼女はもう一度、集まる光の中に、彼の面影を発見したのです。
彼女はじっと中央の綺麗な女性に目を注ぎました。相手もまた、彼女を見ています。ぱっちりと開いた目は初々しい若さを保っていました。見目は三十代ですが、ふくよかな首筋には年輪を感じさせない張りがありました。この女性から彼女は亡霊なるまじき雰囲気と存在感を覚えました。ぼんやり黒々とした瞳は憂いに富み、泣いていないのに濡れています。ふっくらとした魅力ある唇が動きました。
「ここにいるのは誰?そこにも、あそこにもいるようだ」
亡霊は一瞬、彼女など見えないように首を振りました。イアリオはびくりとして、何か恐れて慌てました。(私の名前を言わなければ)そう思いましたが、彼女は、なぜか自分の名前を忘れてしまいました。アラル…?そう、アラルと、相手は彼女を呼びました。けれど、その呼び名は違います。今の彼女は、イアリオなのです。
「怖がらなくていい。自分はただ忠告をしに来た」
存在が高い声でそう言います。高い声であるのに、しゃがれています。イアリオはどうしてか泣き出しそうな感覚に襲われて、ぎゅっと唇を噛みました。彼女は、この女性に、複雑な念を抱きました。自分の親に対するものと違う、彼女が恋したピロットとも違う、もっと根源的な、畏れ多い、あの地下の暗黒へ臨んだ心地に、その想いは近いのでした。果てしなく黒い闇なのに、懐かしく、圧倒的で、しかもずっとそばにいる気がする、分かたれても何度も何度も繰り返し近づく、近づいて、
愛し合う。
現実にそんな想いを誰かに抱いたことのないイアリオは、この気持ちが何であるのかわかりませんでした。まして、相手が自分よりはるか昔に生きていた誰かなのです。
ですが、それは、自分の悪でした。
人間が、有史以来、立ち向かってきた相手でした。
「イア、リオ」
彼女は言いました。
「ルイーズ=イアリオ…」
自分の名前を思い出したのです。
「そう」
星の光を飛ばしながら、神々しい後光に彩られた女性は目を伏せました。
「そこにいるのは誰?」
女は藪の向こうを指して言いました。そこには、白い光に釣られて、小山の坂を急いで駆け上ってきた若い少年少女が潜んでいました。ハリトとレーゼが、そこにいました。
「いえ」
女の幽霊はイアリオに目を移し、その声音高い喉からの発声で、懐かしむように、危険なように、語り掛けました。
「ずっと元気そうだったね」
その時、イアリオは女の目に吸い込まれる心地がしました。ああ、愛する人間がいたとしたら、一緒の眼差しで互いを見詰め合う時、そんな心地がするものです。しかしそれは彼女の悪でした。彼女は、この女性に身を委ねてもいいとどこかで思う自分を感じつつ、何かが、果てしない何かがそれを妨げていました。
「この町は滅びようとしている」
女性は落ち着いた口調のままそう言いました。女性のからだが膨らみました。横に伸び、縦に伸び、歪んだ鏡に映るかのように、大きく、恐ろしく変化していきます。それはまるでイアリオを包み込み風船のように膨れ上がりました。少年と少女からは一挙に光が放出されて見えましたが、そこに呑まれたイアリオは、まったく違う風景を眺めていました。
「荒れている」 「荒れている」
「愛は失われた?いや、現前している」
「どこに?ここに?」
「あの場所は?あの暗闇は?」
方々から意思たちの言葉が聞こえてきました。イアリオは、光のドームの中で、反響するすさまじい大きさの音に耳を塞ぎました。しかし、声は頭に直接届き、どのようにしても聞こえてきました。
「ああ、ああ」 「言葉には力がない」
「失われた力がない。言葉は今以上の威力を具えていたのに」
「なぜなくなった?どうしてなくなった?」
「希望は絶望、我々は学んだ」 「学ぶために」 「そうして学ぶために」
「生きる力は死を内包する。それに気づかない人間たちが」
「一斉に放棄した」 「放棄した」
「命と希望が一緒くたのものだということを。そして、未来は、現在から出発するということを」
「過去は置き去りにされたのだ」 「過去は置き去りにされたのだ」
「過去は置き去りにされたのだ」
白い稲妻が閃き、うずが、ぐるぐると果てしなく広がっていきます。頭上はぱらぱらと星が降り、彼女の持っていた希望は、壮大な過去へと遡っていくようでした。
「こうなりたくないと思う方へ」
「こうありたいと願う方へ」
「人は行けるものではなく」
「切り拓くのはただ人の意志だけだ」
彼女はそばに、あの女性が近寄ってくるのを感じました。
「絶望はふるさとへ」
「希望もふるさとへ」
「生まれたばかりの赤子は一体何を見るのか?」
「すべて。世界のすべてを」
「灯火に手をあててご覧。熱かろう。熱かろう」
「その熱こそ生きている証だのに、ふるさとは遠ざかり、」
「遠ざけられて、」
「今、死に向かう場所のみが目の前にあるようだ」
「生死は希望ではなく、あるがままのことだのに」
「絶望はいまや生き生きとしている」
「ふるさとはどこへ?ここに、この場所に」
「あるというのに、人は見ない」 「人は見ない」
歌声は、蝋燭の炎のように、揺らめき、立ち昇り、見えない人の影のかたちを取っています。往々と、行き交いながら。彼女は涙を流しました。あまりの言葉の大きさに。
「誰一人として救いを望まぬ人はいない」
「彼を助ける手はどこから?」
「人の弱さ。人間の弱さ。それが幻の手を見る」
「幻の手を見せる」
「一方的に人は傷つく」
「傷がついたと思い込む」
「優しさが人を救うだろうか?」
「自分はどこからここにいるのか?」
「誰もそばにいない」
「そう信じて。そうした気分になって。…」
彼女は一人きり、まばゆいばかりの白い光を持て余しました。星屑の明かりを彼女は吸い込みました。閉じていた両目を開けると、その間近に、あの女性がいました。
「あなたは何かを背負えるのか?あなたの犯した罪を償いながら」
ぐるぐると、意識が回転し出します。気絶しかねない強烈な光が、喉元に突き刺さりました。彼女は息が苦しくなりました。吐く息が白く、凍りつくようです。
「行かなければならない」
「行かなければならない」
白い光が合唱します。
「願い事、か。もしそれが実現すれば、それは本当にすごいことだ」
十年前、北の墓丘に行く際に、テオルドが言った言葉を、光の天女が、言いました。
「自分のことであれ、他人のことであれ、それは本当にすごいことだ」
白い衣装の天女の瞳が濡れています。イアリオは、この女性が自分のずっとそばにいたような気がしました。しかし、手を差し出してみるも、あっというまに幽霊は遠くへ離れてしまいました。
けれど、光が振り解かれました。イアリオは、星空の真下の墓丘の正面の、小高い地面の上にいました。
「この町は滅びようとしている」
もう一度、美しい女は言いました。
「夢ならば覚めてほしいと思うだろう。きっと、人間の記憶も損なわれてしまうのだから。これからあの町に起くるべきことを知れば、その時には」
それは厳かな宣言でした。
「あそこにはまだ天へと行けない霊たちがいる」
「死霊たちが!死人たちが!報われずにもそこにいる!」
「かつ、いまだ存在するいにしえの怪物がいる」
「オグ!オグだ!人間の悪の集合体、遥か昔からいた存在!」
「人間らしさを失うだろう。かの町には溢れ出ようとしているから。古い魔物、オグと、古い死人、あの街に封じられた人々が」
「人間は、死んでも生きる。死後の世界は、果てしない」
「我々は、それを伝えに来た。伝えに来ざるをえなかった。未来がもう間もなく破局を迎える。我々は、一連托生だ」
「死んだ人間も、生きた人々も!」
天女と霊たちが交互に叫びました。イアリオはびりびりと肌を震わせるその声が、まるで、自分の中から出てきたもののように感じました。なぜでしょうか。わけのわからない現象に立ち会っているというのに、この風景が、至極当然自分の前に現れたような気がします。
「この国は滅びる。滅びなければいけない。なぜなら、行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。悪は変わる。変わらなければならない。破壊は再生のしるし。天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいないから、自らの定めを、そのように決めたのです」
天女の姿は粒子に変わり、そこらに霧散しました。お告げが終了したのです。しかし、また女性は姿を現しました。イアリオの正面から位置は変えていませんでしたが、藪の茂みを向いていたのです。
「出ていらっしゃいな」
言葉が神経に届きました。ハリトとレーゼはこの不可思議な情景を恐れを持ちながら眺めていましたが、今、レーゼだけがひょいと頭を上げました。
「いいえ、あなた。あなたも覚悟しておくのです。もう気づいているのかもしれませんが、一連托生は私とあなた。あなたと私。あなたと私。ハルタ=ヴォーゼ」
周りの人間には、その時天女が何を言っているのかわかりませんでしたが、レーゼにだけは聞こえていました。不思議な光は消えました。あれだけの猛烈だった光線は、跡形もなく、残像もなく。ちかちかと星が空に瞬いています。突然、頼りなく、か細く、不健康にその灯りは見えました。
まさに、その墓丘に埋葬された、幻の人間たちのように。
イアリオは、いきなりその場にうずくまりました。わけがわかりません。なぜなのでしょうか。どうしてなのでしょうか。なぜこの現象が――自分の前に立ち現れ、どうしてそれを――自分は、逃れられない自分の選択だと、思うのか。唐突に出会ったその現象は、夢のようであり、現実感のないものでした。ですが、まるで本当の運命を感じるかのように、彼女には受け止められたのです。
そして、もう一人を襲った感覚も、またそのようなものでした。茂みから、レーゼとハリトが出てきました。恐る恐る、光の現出した場所に近づき、うずくまる女性を不安げに見つめます。
「先生、大丈夫?」
イアリオと面識のあるハリトが声をかけました。火を灯したレーゼが灯りをそばに近づけました。イアリオの顔面は蒼白でした。
「ああ」彼女は小さく呻いて、がっくりと倒れました。
「先生!先生!」
「エアロスの…伝説…だ…」
彼女の口から漏れた言葉は、ハリトの、心配する声にかき消されました。
およそ十年前…白い砂浜に、少年が打ち上げられました。彼の名は、アステマ=ピロットといいました。彼の舟は奇跡的に暗礁地帯を乗り越え、他の大陸に属する島に流れ着いたのです。
彼は島の人々に看護され、息を吹き返しました。彼の服の中に小さな袋が入っていました。島民たちは彼の持ち物には触れませんでした。彼の着ているものは替えましたが、乾いた服と一緒にその袋も傍らに置かれました。
丁度、一人の冒険家が、その島を訪れていました。その女性は自分をそのように紹介していました。その女性の美貌は圧倒的でした。文化的なものに晒されていない島民たちですら、彼女の美しさに感動し、そして畏れました。彼女は、ビトゥーシャと自分を名乗っていました。
ビトゥーシャは浜から救われた少年を見に、彼の小屋を訪ねました。そして、少年のエキゾチックな顔立ちの頬に、キスをしそうなくらい、目を近づけました。
(ふうん。あら、この子…)
ビトゥーシャは、小袋の方も見遣り、艶かしい唇を開けて、妖艶な舌を出しました。
(私と同じ、立派な悪の匂いがするわ)




