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破滅の町 (分割版)  作者: keisenyo
第二部 前
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第八章 ハルロスの日記 3.慰みの墓

 テオルドは、図書館の隅で鞄を広げて中の半紙を取り出しました。そこには彼の母方の先祖が遺した文筆がありました。「大切なものだ。とても大切なものだ」彼はそう言い、玄関に目を向けました。そろそろ来る頃だろう人物が、折りよく扉を開けて、館に入ってきました。

「やあ」

 テオルドは手を挙げて相手を迎えました。それは、ヤーガット兄弟の弟ハムザスで、神経質そうな顔つきは相変わらずでした。しかし肉体はすっかり見違えて、今ではちゃんとした漁師になっていました。ハムザスは懐からメモのような小さな紙を出して、彼に渡しました。

「ありがとう。どうだった?彼女の様子は」

「お前が言うから、泥棒のような真似をしてしまって、俺は大いに反省してる」

 ハムザスは暗い表情でした。

「あいつの様子なんか見れるものか」

「それは残念だ」

 彼は怒りに燃えた眼差しをテオルドに送りましたが、自分のしたことの省察の色が大きく、一方的に相手をなじれませんでした。彼は、テオルドに言われて、イアリオの持っていった日記帳の間に挟まれた紙を取りに行ったのでした。

「それは何だ」

 ぶっきらぼうに彼は言いました。

「元々、僕の物だよ。あれに挟んでおいたことを忘れてしまっていたって、話したろ。僕のご先祖様が書いた物なのさ。今になって思い出したわけだが」

「だったら彼女に言って返してもらえばいいだろう?」

「大事なことだったんだよ。彼女にもちょっと知られたくなくてね。ほら、君も彼女が単独で地下都市を闊歩していることは知っているだろう?ピロットの消息をもう一度訪ねたいかどうかわからないが、あんな危険なところに、これ以上行かせたままじゃいけないと思うはずだ」

「そうだよ。そう言われたから、俺はお前を信じて、こんな盗みみたいなことをやってしまったのさ」

 テオルドはハムザスにこう説明していました。この前イアリオが館に本を借りに来たのだが、古い文字を読むための辞書を要望した。まさか、とは思うが、滅びた都市から何か持ち出したんじゃないかと疑われた。可能性のある本がある。自分も昔持ち出したことがあって、その中に、小さな紙が挟まれている。もしそれが彼女の元にあれば、やはりイアリオは滅びの都市から本を持ってきていることになる…。

「これで証明されたな」

 テオルドは不気味な目を開けてメモ用紙を鞄に入れました。

「だが、これくらいなら彼女はまだ危険には遭遇していないとも言える。本を持ち出しただけだ。これからも彼女の行動には注意し続けることにしよう。ご苦労だったね」

 彼は、ハムザスを労って外へ送りました。ヤーガットの弟は依然不満げな表情を浮かべて、自分が行為を反省するも、その手がかりがないといった困惑にも苛まれました。神経質なハムザスは、人の言葉に惑わされやすい性格をしていました。もはや大量の悪と、肉体が融合したテオルドをして、彼の心は自由にできる機械と同じでした。

「さあ、はたしてこれをすでにイアリオが読んだかどうか…」カルロスは、思いに耽るようにうつむき、目を細めました。彼の先祖の遺品といえば、勿論、彼の心を表したような、激しい憎しみと怒りに沈むイラの霊魂の叫び声でした。

 イアリオは、帰ってきて本が元あった場所から移動していたのに気づきましたが、さして疑問に思いませんでした。大方母親が掃除などをしていてどかしたのだろうとぐらいにしか考えなかったのです。彼女はその紙の文言を読んでいました。何か恐ろしい詩が書かれているのだとはわかりましたが、もしかしたら、ハルロスとは別の、当時の人間が書いたのかもしれないなと思いました。ハルロスのように、亡国を愛した人物はほとんどいないだろうと思われたからです。むしろ、彼女の時代までずっとあやまたず伝えられてきたように、かの王国を、間違いのあった国としてなじり嫌悪する人々の方が多いはずでした。しかし、彼女はそんな人々の気持ちも理解しなければならないと思いました。

 なぜならハルロスは、それも判って、この日記を書いたものだと感じるからでした。

「でも、どうしてだろうな」

 黒い表紙を見下ろして、イアリオは呟きました。

「あいつ、死んだとしか思えないのに。どこかで生きているって、信じてる」

 女々しい奴だ、と彼女は自分を笑いました。自分の恋心がまだ彼を求めていて、それを失ってしまったつらさを、多分認めたくないのだと思いました。彼女は涙を流しました。自分のわだかまる心を抑えるために、鼻の脇を一筋だけ。


 さて、彼女は墓参りをめぐる日取りを決めました。この町で、墓参は家族の命日以外で行われる慣習はありませんでした。墓守もいません。彼女は夜出掛けることにしました。なぜなら、墓地は町に密着するかたちで西側の小高い丘にありましたが、そこへ続く道は一本道で、目立つからです。これは、彼女の母親のアドバイスもありました。母親には彼女の考えのすべてを伝えています。何にしても、できるだけ、彼女は自分のしていることをあまり人に知られないようにする必要がありました。彼女の行いは、決して人々から好まれることではなく、そう望むのならばゆっくり時間をかけていって、まずは周囲から、三百年前の出来事に対する考え方を変えていかなければならなかったのです。トクシュリル=ラベルの臨んだ態度、慎重に、慎重にが、彼女にも効果をもたらしたかどうかは…わかりませんが。

 夜中に家を発ったイアリオは、小脇にあの日記帳を抱えて、蝋燭と蝋燭立てを持っていきました。慎重に慎重に、出掛けた時からイアリオは、周りに目を配りながら行きました。別に悪いことをしに行くわけではないのですが、ハルロスが殺された事実を彼女はまだ知らなくても、彼の身に降りかかった運命を感じていたのかもしれません。道は建物に沿ってうねうねと曲がりくねっていました。もっこりと突起した地面に張り付くようにして建てられた街並みは、美しいのですが不揃いの歯のように落ち着きがなく、整然とした並びではなかったのです。長い道を彼女は歩きました。丁度、行程の中間あたりに差し掛かって、彼女は一息つこうと休み場所を探しました。そこへ、向こうから灯りが近づいてくるのが見えました。彼女は身を隠そうとして、建物の影に潜もうと動きました。すると、その物陰から、ひょいと誰かが不意に姿を現しました。その人物は、多分反対側の建物の影に移動しようとしたのでしょうが、突然目の前にイアリオが現われて、驚き慌てて、引っ返しました。

(私の方が、その気分だわよ!)

 こちらもまったく驚いてしまって、隠れることを彼女は忘れてしまいました。灯火は近づき、彼女を照らしてしまいました。

「あれ、イアリオじゃないか」

 相手は知り合いの、そうです、忘れることのできない事件の当事者だった、かつての仲間、ヨーア=マットでした。彼は今や父親の後を継ぎ医師になっていました。

「なんだ、マットだったの」

「珍しい。こんな夜中、明かりも持たずに、どちらへ?」

「マット…久しぶりね。元気だった?今、診察回りなのかしら?」

「まあ、ね。ちょっと大変な患者がこの先にいてね…けれど、こんな所で会うなんて。成人の儀以来かな」

「十年前以来、ともいえるわ」

 マットはびくっと身を震わせて、声色の変わったイアリオを怪訝な目で見ました。彼女は彼の前にハルロスの本を掲げて示しました。

「この本はね、あの地下で見つけたのよ。私、これからこの本を持っていって、ある人たちに読んであげようとしていたの」

 彼は、疑い深げな視線を寄越しました。その理由は十分彼女にはわかっていたので、何も隠し立てはしまいと思いました。

「見て?これにはずっと昔死んだ人間の、供養とまじないが書かれているわ。私たちのご先祖様が、やってしまった行いを、慰めようとしていたの。この本には亡国の希望と美と悲劇が、作者の愛情をふんだんに浴びて描かれている。あの国を愛した人物がいたんだわ。その愛が…あの街に、まだ囚われている人たちを、慰めることにならないかと思って、これからお墓に向かうところなの」

 彼は、あっけにとられた顔をして、しばらく佇んでいました。「君が、まだ地下を捜索していることは知っていたが…」マットはぼそぼそと話し始めました。

「たった一人でそれをやる気かい?」

「私しかいないもの。今は、多分ね…」

「それは、いなくなったピロットのためでもあるのかい?」

「そうね。きっとあいつのためでもあるかもしれない」

 しばらく考えて、マットはふうと長い溜息をつきました。

「これは、もっと詳しく聞かなくちゃならないな。でもどうしてだろう、君の感情が理解できるよ。俺も、随分考えたものだよ。どうしてあの街に、まだ、あの骸骨たちがいるのかってね。成人式にそれがわかったわけだが…僕たちがあの街を恐れ続けている理由がわかったわけだが…どうにも、腑に落ちない気分だったよ。君の行動は理解できる。その考え方も、正しいところはあるような気がする。けれど、もっと慎重に、考えなければならないようだと思う。この場では今なんとも言えないけれどもね。もし、また会う時間があったら、お互いによく相談してみないかな?君にだけ任せておくことができないようなことだと思うから」

「ええ、いいわ」

 それが彼女の望みでした。周囲から変える…特に、あの事件と自分とに深い関わりのある人間から、徐々に、人々のものの考え方を変えていくこと。それこそ、自分自身の最終の目標かもしれないなと、彼女は考え着きました。慎重に、慎重に…マットの口からも、その言葉が漏れました。死んでしまったラベルの霊は、もしかしたらまだ、彼女たちの上に留まっているのでしょうか?

 でも、かつての仲間の一人が悪霊に食われてしまったことを、彼らは知りません。

 道中、にぎやかな酒場の前を通りかかりました。あの明かりの中で楽しみ笑う人々にとって、果たして彼女のやろうとしていることは、善でしょうか悪でしょうか。もしかしたら、この町の伝統を一挙に覆しかねない思いを抱いている自分を、彼らはなじるでしょう。怒るでしょう。怖がるでしょう。弾くでしょう…。そんな可能性の想像を、今はしてもしょうがないとイアリオは思って、酒場の前を通り過ぎました。

 その先は、いよいよと道が狭まり、空中廊下が橋渡される、ごみごみしたゴミ街の始まりでした。ここに、シャム爺と呼ばれる老人が住んでいました。彼女は彼から、北の墓丘でお祈りをすれば願いが叶うということを教えてもらいました。シャム爺は町の西地区のことをなんでもよく知っていて、彼の知らないその地区の人間はいません。その他にもたくさんの知恵と知識を備えていて、人々から頼られる立派なおじいさんでした。彼は地域の守護者でした。一つの場所にずっといるということがなく、あちこちにいて、捕まえることはとても難儀でした。しかし、その地区に何か問題が起きたり事件が起こると、彼はあっというまに現場に向かい、人の手配や被害者の介助など何でもしてしまうのでした。

 ですが、最近、西地区にシャム爺にもよくわからないことが起きていました。何者か知りませんが、夜中、狭い小路をこそこそと出歩く者が何人も現れたのです。彼らは素早く、身を隠すのがとても上手で、シャム爺でも捕まえられませんでした。正体不明の相手は、町の人間であることは確かでしたが、誰かということまではわかりません。それだけなら何も問題もないのですが、自分が何でも知っているという街に、よく知らない物事が起きているのはあまり気分のいいものではありませんでした。シャム爺は落ち着きのない寝床に就きました。そして度々、今度こそは正体をつかんでやると言い、夜の街に繰り出して、すばしっこい影を追いかけていました。

 西地区の管理者である彼は人影を見つけました。相手は彼の追っている人間ではないようですが、どこか見覚えのある風貌に惹かれました。彼は相手に気づかれることなく、後ろからついていき、いつのまにか併走しました。イアリオはぎっくりしました。小さな影が懐に貼りつきついてくるのです。その影が以前世話になったおじいさんだとわかって、飛び上がるほど驚いた彼女は、足を止めて胸に手を当てました。

「シャム爺じゃないですか」

「先日、お前さんのつてで子供たちがやってきたよ。たった三日でわしを見つけるとは、なかなかやるじゃないか」

 老人はにっと笑って言いました。

「さすが、ルイーズ=イアリオの教え子かな?イアリオは、ただの一日でわしを見つけたもんなあ」

「おじいさん、こんな夜中にお散歩しているの?体に障るわ」

「ハハハ、よく言うわ!お前さん、わしのことを尊敬してないとみえる。十年ぶりの挨拶がそれか!でも、そっくりそのまま、同じ言葉をそちらに返そう」

 老人はふさふさした白い眉をぴくぴく動かしながら、人懐っこい笑みを浮かべました。以前も彼らは、こうした調子の会話を交わしていたのです。どんなに年齢差がある人間でも初対面でただちに仲が良くなることが稀にありますが、彼らの相性はぴったりでした。当時、彼女は十二歳なのでしたが。

「変わらないわね、シャム爺。少し眉毛が伸びたぐらいかしら?」

「お前さんも相変わらずだ。つかみどころがないなあ。十年前の女の子は、わしのところに、お祈りの仕方を教えてもらいにきたわけだが、しっかりした考え方を持ち、一人で立てる強さを身につけていた。誰もがそうじゃない。わしは尊敬しているよ」

「ちょっぴり皮肉な言い回しも変わらないのね。いいわ、私、こんなにも片時もあなたに感謝を忘れていなかったことを、どうしたらわかってもらえるか…!」

 イアリオはぎゅっと彼を抱き締め、シャム爺がぽんぽんと背中を叩くのを待って、離れました。

「伝わった?」

「よく育ったものだ。いろんな意味でな」

 シャム爺はいたずらっ気を含んだ眼差しで、彼女にウインクをしました。

 二人は連れ立って歩きながら、いろいろと話をしました。最初にイアリオは、こんな晩に一人で歩いているのは、人目を憚ること、そして大事な任務のためだと話しておきました。シャム爺はそれを尊重して、人目につきにくい道を案内して、かつ小声で、誰にも聞かれない方法を彼女に教えながら道すがら話していったのでした。

「自分の中で気持ちが盛り上がらないように…一言一言、区切りながら話すんじゃ。人の言葉と感じられない間の取り方というものがある。しゃべるとは、タイミングで、すなわち調子だからな。ぼそぼそとしゃべれば、それが会話かどうかは人にはわからない。声の調子が会話のそれでなければ、ただの環境音として、人は聞くものだ」

 イアリオはそのとおりにしました。二人は誰にも会うことなく、また誰にも話を聞かれることなく、イアリオの目的地へと行くことができました。

「墓地か」

 シャム爺は驚いたように眉を上げ、考え深い眼差しを彼女に送りました。

「ええ。ここで…」

 イアリオは墓地の敷地に足を掛け、入り口の赤色の植物を見て、その葉を取って齧りました。苦味が口元にいっぱいに広がり、なんともいえない、すっきりした気分になりました。

「私は死者を供養するわ」

 彼女は小高い丘の頂上に立ち、回りを眺めました。石の墓が立ち並び、白き町とは別の、整然とした美しさを彼女は見ました。月が高くから蒼白い光を投げて寄越しています。青々と草がさわめき、蜥蜴が窪地から、にょろっと出てきて墓石の頂に立ちました。イアリオは胸いっぱいに空気を吸いました。果たして死んだ人々は、彼女の想いを、理解してくれるのでしょうか。彼女はここに来た理由を皆までシャム爺に言いませんでした。ただ、これからの行いを見てもらって、どう思ってくれるか、話してくれるよう彼に頼んでいました。

(どのみち町中の人たちに私の考えていることを理解してもらうなら…とてもいい機会だわ。忌憚のない意見を彼に求めましょう)

 彼女の覚悟は、歩いているうちに、増してきたのだともいえます。それとも母親や偶然出会ったマットに、自分のすることを支持されていい気になったのかもしれません。

(まずは私の先祖に報告する。そして、私の中でどんな反応があるのか気づく。いいわ、それで。さあ、始めましょう!)

 彼女は、黒い表紙の書物を開けて、隣に蝋燭を立てて、読み上げ始めました。

「私はこの街を、この国を愛している。それは、国がこのように滅びた今も変わらない。私は、手探りでこの国を癒すための方法を探している。それは、一つがこの場所に各死者たちを弔う墓を立てることと、もう一つがこの亡びの話を他の国の人々に語り聞かせることだと思っている。

 私には妻がいる。といっても、これから妻になることを約束した女性なのだが。私は幸せである。彼らに、感謝しなければならない。彼らとは、死んだ人間、生きている人間、すべての我が国に生きた人間である。彼らがいて、私たちがいるのだ。どんなに恐れるべき恐慌が我々に降りかかったとて、私は生きており、彼女も生きていて、二人はその恐慌のあとで出会った。すべての物事に感謝しなければいけない。それは、私がいまだこの国を愛しているから。亡くなった今も、国家は私の中に、そして彼女の中に、確かに生きているのだから。…」

 イアリオは前もって選んでおいた箇所をなぞりながら、揚々とした口調で謡いました。節はなく、音程もなく、ただ声を張り上げただけの、とても歌とはいえる調子ではありませんでしたが、この墓地に響き渡る、聡明な声は、彼女の想いを乗せて、朗々と広がってゆきました。シャム爺は草場に座り込んで、あちこちに灯火の灯る町を見ていましたが、彼女の謡曲が始まると、不意に苦痛に襲われました。彼の民族が長年、隠し通してきたものを、彼女によって、暴かれたからです。それが、どれだけ歪みきらった事実なのか、彼はよく知っていました。ですがそれは彼らがなんとしてもこの地で生きていくための方策でした。三百年もの間続いたのです。伝統はしっかと根を下ろし、変えることなく、変わることなく息づいているのです。それは今更の言葉でした。彼らはよく知っていました。(やめろ、やめないか!)そう彼は言いかけて、何度も口を閉ざしました。彼はこれ以上この場にはいられないと思い、出口をさして、行きかけようとしました。

 すると、今は亡くなった友人たちが、彼の失った妻もまた、墓地の入り口に集まってこちらを向いていました。おいでおいでと言っているようで、まだここには来るなとも言っているようです。彼はびくりとして、真っ青になりました。シャム爺はイアリオを振り向きました。この若い女が、彼らを連れてきたのかと疑いました。彼は空を見上げました。降りかかるような星空が、天井を覆って、まるでこちらに襲い掛かるように見えました。彼はくらくらして地面に尻餅をつきました。

「もうやめてくれないか…」

 彼の訴えはイアリオの耳に届きませんでした。シャム爺は目をしばたたき、諦めました。この歳では、行くも戻るも、膂力が足りなく、いつも受け入れるばかりなのです。

 歌声ばかりの静かな晩は、粛々と過ぎていきました。彼女は遥かな星空を見上げて、手応えを覚えました。確かに死者たちは、彼女の想いを受け止めて、こちらに応えてくれたように感じられました。生きている人間が変わらずして、死んだ人々が変わるだろうかと彼女は思いました。もしかしたら、亡くなった人間も、私たちに残した思いに縛られていたんじゃないか…?ふとそんなことを思い、彼女はじっと空を見つめました。墓の中に、魂はあるのでしょうか。もし人間が生まれ変わるなら、空にいて然るべきでしょうか。霊魂の解放は、生きている人間の供養によってもたらされるなら、今まで彼女たちのしてきたことは、正しかったのでしょうか。また、もし先祖に今も守られているのだとしたら、その守りは、果たして全部必要でしょうか…?そんなことが頭をよぎっても、今の彼女には何もわかりません。若々しい頭脳が、そう思いついたにすぎません。

 ですが、若い女性の気持ちは、死者たちの中に届いたと思われました。そうであれ、人は、死者たちを、自分たちの先祖を想い続けるのかもしれません。

「行きましょうか」

 彼女は片づけを終えて、シャム爺に声を掛けました。彼はぼんやりとした表情でした。

「どうしたの?疲れちゃった?ごめんね、どれだけ時間がかかるかわからなかったものだから…」

 イアリオの言葉を何も彼は聞けませんでした。彼はやっと立ち上がり、彼女に支えられて、墓地を出て行きました。

「お前さんについてこなければよかったかもしれないよ」

 そう言うと、彼は一人で歩き出しました。彼女には、それがあまりに疲弊してしまった老人の文句にばかり聞こえましたが、そうではありませんでした。もう一度、「ごめんなさいね」と言って、ふらふらとした足取りの老人を、側でいつでも手を貸してやれる用意をして、彼女は墓地の景色を後にしました。

 …シャム爺は、イアリオの用事が終わってから、自分の関心事を彼女に相談してみるつもりでした。夜な夜な、街を行く人間が誰なのか、一緒に見当をつけてもらおうと思ったのです。月も沈んでしまった夜更け、家路についた二人の人間を、遠いところから見つめる二つの目の光がありました。それは、ぎらぎらとして、獣のようでした。

 恐ろしいことが、この町に起こりつつありました。

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