第二十章 夢の中 8.深き咎
「先生は…」
アラルは(イアリオは)この少年の心を初めて読み取りました。それまでは彼のことをずっと信じる一方だったのです。
「そう。僕がオグのしもべなら、僕もおんなじだ。誰の願望をかなえようとしていたと思う?君しかいないね。君だろうね。ずっと昔から、君は力を持ちたいと思っていたよ。どんな力か、もう判るんじゃないかい?幼い頃から、君はずっと、自分に自信がなかった。あの恋人に寄せられた想いに、十分応えられるかどうかって。君は彼女を守りたかった。その一心で君は腕っぷしを高めていった。でも、なぜ僕が君に宿ったか。オグはね、守り神じゃあないんだ。
オグの力は、大き過ぎる人の望みを叶えることだ。君は君の手に余ることを望んでいたんだよ。わかるかい?君は、恋人から自分の身を引き離すことを…!」
大き過ぎる望み…?大き過ぎる望みとは何だ…?アラルは少年の霊の言葉を反芻しましたが、分かりませんでした。少年の影で、再び少女が歌い出しました。イアリオは…少年の言ったことの意味が、
恐ろしいほどよく分かりました。彼女は、キャロセルという女性の夢を見ています。自分の弟に自分を殺すように命じたことを。
彼女は、オグの食い荒らした町村の跡を辿っています。そこにいた、亡霊たちの言い分を、クロウルダと共に余すところなく聞いています。
彼女は、その昔自滅したふるさとを地下に沈めた町の人間です。町の人間が怯えたのは、大き過ぎる人の望みを抱いてしまった自分たちの祖先でした。そして
彼女は自ら本当は好いていた相手から身を引き離しました。大き過ぎる望み。大き過ぎるからこそ、その身から離れ出て、本当は望まぬことを引き起こす、元となるもの。悪。
それは誰かといる自分が分からなくなるということ。創り合った世界に互いがいるということを自覚せず、これからも創り合うことがわからなくなってしまうこと。あるいは、新しく、創らなければと思うこと。世界を刷新して、その世界に思い通りに住むこと。でも、それはその世界に、その人だけが住むこと。誰と共にいるかが分からなくなり
自分から離れた思いと、自分自身を、まるで一つにしてしまうこと。
「君は、忘れてしまったのかい?」
彼が訊いてきました。
「そうか。忘れてしまったか。僕は君に殺されたことがあるんだよ、キャロセル。いいや、キャロセルを前世に持つ、アラル。
いいや、君は、何者でもない。僕は君の求めに応じてこうして現れたんだから。なあ、キャロセル、アラル、いや、誰かな。誰でもいい。君は望んだんだ。
今世でも再び、悪いことを。君は愛情を向けてくる相手に自分の愛情を渡すことができない。感覚することができない。君の中には君だけだ。そうした君が、何を望む?
いい加減なことさ、自分勝手なことさ。君は周りを破滅させる。だからこうして僕が復讐にやってきたんだよ?君は周りの人間の感情など一顧たりともしないのさ。常に自分が中心だ。僕の思いは君には届かなかった。
僕はね、君の操り人形になった。わかるかい?段々、わかってきたね。前の人生の記憶が蘇ってきたね。そうだよ、君は僕に、ひどいことをさせたんだ。またさせるのかい?君の恋人に、恨まれたいかい?僕は君を追いかけた。すぐに、死んでからも。僕は自殺した。なぜ?君のそばにいなければいけないと思ったからだよ。僕は自分の人生を君のために失ったんだよ。それが僕だったんだ」
少年の霊は透明な剣を拵えました。それは、イアリオが別の夢の中でも見たものでした。キャロセルが、弟に頼んで胸を刺し貫かれた一振りの武器です。名を、テスラといいました。ガラスの剣。それは透明なために、何にでも変容できる力を持ちました。彼らの語られる昔話の中に、そのガラスの剣器に様々な意味を込めて、殺人が起きる物語がありました。そのたびにその器は名称を変えたのです。嫉妬、激怒、誘惑、復讐などに。麗嬢キャロセルが恃んだのは、友愛と、情熱でした。弟に、その想いでもって私を突き刺して、と頼んだのです。彼女は愛を頼みませんでした。あれほどのことをしておきながら、姉は、歪んだ絶望を、彼に押し付けることしかしなかったのです。いいえ、死の間際、ちゃんと彼女は弟から愛を引き剥がしました。それで自分を貫いて、など到底頼めることではなかったのです。
恋人でもなく、親族の関係でもなくなる、友愛と情熱で、殺されることを望んだのです。
しかし、確かに、彼女は弟のことを愛していました。性交を求めるような我が物にする愛ではなく、あのフィマがニクトを愛でるような、本当に彼の成長を期待して手助けするための、愛を彼女は持っていました。弟もまた、そちらの愛も感じていました。茶色の希望がありました。彼女は自分の愛をごまかしました。自分のために、弟から、弟の愛を盗もうとしました。
どうして?
「さあ、これで君を突き刺そう」
弟が近づいてきました。
「悪夢かい?」
アラルはイアリオのように生まれる前の自分の過去を思い出していました。彼女はキャロセルと同化していました。目の前でくるくると回りながら嬉しそうに歌う白い服の少女はいつか自分自身になりました。
ギャアギャア。何かが遠くで叫んでいます。
「もう一度、君は死ぬんだよ。君を愛した者からそれを突き刺される。テスラ(友愛と情熱)がいいかい?また、最初からやり直しだ。
君は、彼女に友情しか頼んでいないだろう。愛が恐ろしいから。ヴォーゼはそれがわかっているよ。だから、彼女は悲しむしかないんだよ。君が討ち果たそうとした魔物、それは一体何だい?君自身が呼びつけた。君のために。君のわがままのために。そんなんで倒せるかい?オグは、君を求めたよ。わかるかい?オグの体の中にあるのは、人間の絶望だからだよ。
そのために人は生きているんだ。最も実現し難い望みは、絶望をすることだ。それは望みと反意だからね。だが望みを絶った霊は安らかに眠る。忘れることができるんだ。
残るのは、それを願った力なんだ。他人の中に、空中に、それは残る。本人だけさ、救われるのは。いいや、それは、救いになるかい?閉じた世界に一人だけ、それでいて満たされるかな?同じ過ちを繰り返すのさ。今までの自分を振り返ったことがあるかい?
大抵人間はそうしない。だって後ろ向きの考えは否定されるだろう?皆、前向きがいいのさ。何を踏んできたかはどうでもいいのさ。忘れてしまえ。くそくらえ。事故が起きてもしょうがない。キャロセル、ああキャロセル、僕はまだ君を想う。君を慕っている。どうして僕に自分を殺せと命じたんだい?ずっと僕は考えてきたよ。そしてやっとわかったよ。君は僕をただ愛していたんだ。素直になれなかっただけなんだ。だから…」
ギャアギャア。叫び声が近くなりました。アラルは一歩も動けませんでした。彼女の師匠の言葉が、うたになっていたからです。魔の響きが、その足を虜にしていました。彼女はまた意識が働かなくなりました。少年の影で、少女が今も歌っています。蒼白い炎を上げた少年が、つるぎを持って、ますますアラルに近寄ってきました。
「僕が、思い出させてあげたいんだ」
ギャアギャア
その時、アラルの小脇を何者かが潜り抜けようとしました。その気配に敏感に反応した体が勝手に動き、はっしとその者を捕らえました。それは、蒼白い顔をした老いた猿でした。いいえ、毛むくじゃらの人間にもそれは見えました。それは、アラルに片足を握られ逆さまになりながら、片手に彼女から先程洞窟内で奪ったたいまつを持って、空いたもう片方の手をばたばたさせていました。それは、目を真っ赤にして歯を剥き出しにして、吠えるように人の言葉を言いました。
「この、邪まや!邪まや!鍵返せ、金返せ!俺の懐失くし物、取り返せ!」
醜い老猿は空いている方の手で、何かわし掴むような動作をしました。アラルは急に胸が苦しくなりました。彼女の意識は暗く沈んでいき、猿のような人間を手放してしまいました。そして、自分がどこにいるのかも判別がつかないような、深い昏迷の闇の中に落ち込んでいきました…。
彼女は胸からあるものを猿に奪われました。それは青い鏡でした。魔鏡は神の宿るものとして拝まれることがあります。そこにその神が映されるのです。決して覗き込んではならないもの。そして陽に晒してはならないもの。神は、そこに閉じられ、人間に、その力を制御されます。
ですが鏡とは己を映し出すものです。そこに映るは自分自身なのです。アラルはそれを奪われました。つまり、自分自身の一部をその猿に奪われたのです。神のごとき力のある自分自身を。大き過ぎる望みを叶えるだけの力を具えた者を。
気が付くと、アラルは薄暗い暗闇にいました。何もかもが帳に覆われた、もしくは濃い霧に呑まれた、重苦しい空気が漂っていました。ただ、ぴちゃっぴちゃっと水の跳ねる音がして、川が頼りなく流れるせせらぎも聞こえました。アラルは立ち上がると、前方に、湖を見つけました。その上に何か立ち込めています。靄か、あるいは霊でしょうか。それは彼女の方に黒い手を伸ばし、掴みかかりました。アラルは抵抗ができませんでした。ゆっくりと、覆い被さられ、組み伏せられて、アラルは体をまさぐられました。…
彼女はふと目を覚まして、大声で叫びました。洞窟に反響するべきその声は、彼女の耳元だけに響きました。先ほどの夢の中よりは明るさのある、暗闇にいました。手で地面を探ると、とても湿っています。まるで…人の肉のように。ぬくもりがあり、柔らかく、女性器のような手触りです。
明るさは、背後の岩場から届いていました。彼女は耳の中を探りました。すると、川の藻がたっぷりとそこに詰まっていました。藻を取ると、川のせせらぎが耳に入り、ここが、あの小島のある川原の近くだと思いました。確かに岩場まで足を運ぶと、川が流れ、その下流には緑の島が浮かんでいました。…どれほどの時間が流れたか知りませんが、太陽は、まだ狭い崖の上方にありました。この亀裂は東西にまっすぐ切り裂かれているのでしょうか。遠方から届く光はきらきらと一日はこれから始まるのだと言わんばかりに輝いていました。
アラルは上流の方を見ました。そこは黒々として渦を巻いて、澱んでいるように見えました。光が当たっているにもかかわらず、泥と藻が混じっているのか、臭い匂いまでしていました。アラルはこんな話を覚えていました。世界の果てから来る川の水は、水源近くが澱んでいて、臭いもするし、なぜか黒い。それはあの世から流れてくる水だからだ。その水は飲んではいけない。生きたまま飲めば命を壊すし、死んでから飲めば魂を壊す。人をやめ、悪魔になりたいならばご馳走になれ。
その話の語り部は、海の向こうからやってきたあの大きな獣の伝説の続きに、この話を並べました。身体がばらばらになったあとのその獣は、血の涙を流すようになったのです。その涙が、あの世の河川になっていると、伝説は語りました。獣はあの世とこの世を繋ぐ、もしくは、分断している、世界の母のように目されました。獣は、世界中のものをその腹に放り込み、生まれ変わらせていたからです。
血の涙の河川は、飲んだ者を、人ではなくさせました。物語はそれを飲めば悪魔になると伝えています。しかし人間らしさとは何でしょう。それは悪をも含みます。人ではなくなるということは、その人から、何か離れるのかもしれません。強さ、弱さ、儚さ、あどけなさ、生まれ持った性質が、何かの形に変質するのかもしれません。邪悪は美術にも現れます。
いいえ、母親とは何でしょう。もし、すべての人間がすべてのものの母になるという概念があれば。つまり、自分が関わってあらゆるものに(少しでも)変容の機会を与えているという観念があれば。世界は本当は創り合っているものなのです。あらゆる存在が、母だといえるでしょう。そしてそのための苦しみは、人を鬱にさせます。
その母こそ、自分が新たに生み出してしまったものを、血の涙でもって見つめるようになったからです。アラルはその水を飲んだのでしょうか。彼女は誰よりも今この世の河川の水源に近い所にいました。人が母親の胎内から産まれ出た時に、生命が始まるなら、その場所は、ほとんど子宮の入り口だったかもしれません。羊水はどこでしょうか。
そこにありました。ぶよぶよの、巨体を持った、ほとんど水の怪物はその近くにいました。どろどろと地震のような鼓の音が鳴り響きました。彼女は懐に予備のたいまつを持っていました。幸い、それは湿っておらず、火を付けられました。輝く炎は周囲を照らし、ぬめぬめした岩肌を黒々と浮かび上がらせています。手元には剣がありました。彼女は目覚めてからいつそれを握ったか分かりませんでした。そのきらりと光る切っ先を、彼女は確かめ、握る柄に力を込めると、川の方ではなく、この洞窟の奥へと進んでいきました。どうしても討たなければならない相手に思いました。どうしても葬り去らなければいけない相手に感じました。おそらくはこの先にいる者を。この先で自分を待ち構えている者を。
彼女は奥へ進みました。すると、白い明かりが、前方から淡く広がっていました。ますます鼓の音が近づいてきました。それは轟く魔物の鼓動でしょうか。それとも
無限に続く自分の世を越えた心臓の音でしょうか。彼女はたいまつを下に置き、両手を剣の柄に添えました。
白い明かりは子宮のようにやわらかく広がった洞穴の空間の上部から差し込んでいました。明け方の夜空のように白み、その真下に、怪物がいました。無限の手足、無限の内臓、無限の性器を、その透明な体に包んだ大きな化け物は、彼女の方にゆっくりと向き直りました。彼には翼が生えていました。彼自身を運ぶことはできない、その体に比して小さな翼が、三対、六枚。彼女は怯えました。彼女は気を逸しました。怪物は…その顔は…自分だったからです。
「私…!?」
夢の中で、イアリオはアラルと共に呟きました。天から降り注ぐ神秘的な白光に彼女も魔物も包まれました。そして、魔物の巨体が彼女に傾ぎ、あっという間に、まるごとそれを呑み込みました。




