第二十章 夢の中 7.前世
とはいうものの、白木の看板など水気の多いこの場所にあって、いつから立てられたのか、朽ちずにあることがおかしなことでした。トラエルの町の、北にある墓丘の麓に立っているものですら、修繕の跡があるのですから。そこに、他の夢で見た者の名前が書いてあるなど、夢の中でしか窺うことができない、現実離れした事柄でした。
とはいえ、少年の亡霊は、イアリオが以前見た夢に登場した男の子でした。アラルとヴォーゼのあらましを追いかけている最中は、それを彼女は見落としていました。その服装も、アラルが珍しいと感じていた衣装も、前の夢そのままでしたのに。ただ、少年がはたはたと空から降りてきた時に、イアリオの意識はアラルから離れて、アラルとは別の感想を明確に持ちました。それまではいかにも、その夢の登場人物に同化して、彼を、敬い慕う心が勝ちましたが。銅鑼の音が、するようです。どこか遠くで鳴っている、甲高い、まるで宇宙を司るような。高く、高い、天で。水の音もするようです。それは、近くに、低く。そこに流れる川とは別の。ちろちろと透明で、切なく、儚い。
どこまでも、小さく、聞き取れないほどに囁いて。人の夢は、その行いを映します。儚く、小さく。誰かと共に歩んだ行いを。
「敵は?この辺りにいるようですが」
アラルはまったく愚かなことを言いました。そこにいる白い服を着た女の子は、その弟に向こうの小島で寄り添いました。そして、亡霊の少年はいつくしむ目で、女の子を見ました。
「おいで。大丈夫だから」
小島から彼女の前世の弟がアラルに向かって呼んでいます。アラルは、イアリオは、過去と今が逆転したような気がしました。
「ここにはいないよ。でも、実を言えば、僕たちは彼のしもべなんだ。ああ、剣を振り上げてはいけないよ!僕たちは力のない者たちさ。アラルに撲殺の仕方を教え、正義を教え、力を教えることはできてもね。
悪なんてものは押し付けられないのさ」
少年はアラルの前に悲しそうに佇みました。
「そう、僕たちは…あの魔物に、虜になった者たち。なぜなら、オグは、かつてこの世界に起きた大洪水の末に現れて、全ての人間の悪意を吸ったのだからね。僕たちは皆旧世界に生きていた。僕たちは皆オグに吸収されてしまったんだ…そう、僕たちは…」
アラルのいる方とは逆から、小島に、続々と大小様々な霧の魔物たちが這い上がってきました。彼らは大きくても人二人分ほどでした。霧塊たちが、緑の小島に溢れました。異常な冷気が辺りを漂うも、日差しは変わらず天から降って来て、中州の緑はぬくもりのある色のままでした。
「彼らは、しもべ。オグは、破壊者。だが生み出すものがある。それは、守護者。ほら、忠実だ。何に忠実かって?決まっている。人間の欲望にだよ」
少年の横で、女の子は笑いながら、ひらひらと長裾のスカートを回し、歌を歌い始めました。霧の土偶たちは少女の周りに集まって座り、膝小僧を摺り寄せて、おとなしく動かなくなりました。少女の歌声は、可愛らしく異常に美しく響き、アラルの身に毒のように染み入りました。それは女の陰唇を思わせました。性的な文句が並び、花びらと棘とを含みました。聴く者によっては恐ろしい猛毒が満ちていました。
アラルはだんだんと思考が働かなくなりました。
「彼らは守護者だ。怖いなんてものはない。だって、彼らも僕たちの一部なんだよ?僕たちこそ彼らの一部でもあるのさ」
少年の声もうたうようでした。雷鳴が起こり、火花が迸りました。彼の透明な体の中で。
イアリオは、眠る台座の上でもがきました。誰にも言えない苦しみを、反芻したように。体が熱く、火照っていました。しかし、足先は冷たく、凍えていました。彼女を天から眺めて、彼女の中に入りたいと思う者たちがいました。遠い星空にいる者たち。この世に思い残した死霊たちが。彼らはまるで、彼女を月のようだと思いました。地上にいた、明るい月。いいえ、月は、空に浮かんでいます。しかし星のように遠くから見れば、月も彼女も見分けがつかなかったのです。
それだけ煌々とした光を、霊たちの目から見たら彼女は放っていたのです。邪まな亡霊だけに見える、魅力的な月光を。彼女は依り代に見えたのです。どんな人間もその胎内に宿ることのできる。彼らはおそらく誰かに慰められたく思っていたのでしょう。幻の母親を求めたのでしょう。その感覚は
古くからある人間にとって最も原始的で恐ろしい感情の一つでした。幾多の悪がそこから生まれました。無理矢理に女の腹を満たそうとする行いを通じて。自分が生まれ変わりたくて。
そして、絶望して。いかにも悪と、同化して。
アラルは、少女の歌に聴き入る内に、古い神話を思い出しました。
「海の向こうから、大きな獣がやってきました。その獣は、海を飲み込み、川を飲み込み、全世界のありとあらゆる所の水を飲み込むと、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを、その口から外に出しました。世界は昔とは違う形になりました。
ところが、それでその獣は死んだわけではありませんでした。世界と同じように、形を変えていたのです。身体はばらばらにされましたが、その一つ一つの断片がなお生きています。例えば、星になったもの、歌になったもの、神様になったもの、そして人間を食べる悪霊になったものなどが。」
アラルは沈黙し、薄く目を開いて少年を見ました。彼の体は風に揺らぐように、その縁をゆらゆらとさせていました。彼女は目を瞠りました。彼の顔に、あのヴォーゼの面影を見た気がしたからでした。
(違う)
イアリオは一人心の中で呟きました。
(彼は、どちらかというと、あいつだ。ピロットだ)
いいえ、違いました。彼女は終生気づきませんでした。彼女の生でその相手を愛することはありませんでしたから。彼女は(イアリオも、そしてアラルも)愛を自分が向けていたと思っていた相手をその彼に重ねて見ていました。つまり
別の夢の中、キャロセルという女性が、自分の弟を虜にしたような愛を向けた。苦味が口全体に広がりました。アラルは、愛の種類を選んでいました。ただ向こうから来る愛を、唯一だとして受け取ってはいませんでした。自分自身から迸る愛が、受け手に届かなければなりませんでした。こうあってほしいと望むような。アラルは恋人に望んでいました。恋人が幸せになるように。どうか幸せになるように。自分がいない所で幸せになるように。
「先生に、名前はあるのですか?」
アラルは生まれて初めてその質問をしました。少年の霊はいびつに笑いました。
「あるよ」
彼は、歌う少女を引き寄せました。
「サルバ。サルバストラ=セブラル=トアリボロ。僕はある貴族の長男だった。そして、こちらが…知ってるかい?キャロセル、キャロセル=トアリボロ」
アラルは、がん、と力強く頭を打たれたような気がしました。しかしその衝撃の意味を、彼女は分かりませんでした。知っているのはイアリオでした。知る機会があったのは彼女でした。涙がぼろぼろ零れてきたのは彼女でした。
もう夢を見たくありませんでした。ですが、夢は、当然まだ動き続けました。
アラルは息を飲みました。どうしてかわかりませんが、彼女は天を仰ぎたくなりました。彼女たちは、エアロスの伝説を知っていました。あらゆるものを打ち壊す暴風の神と、そしてそれが壊したものを再生するもう一人の神の。あの神々に、彼女たちは、祈りたくなりました。
壊さねばならないものを感じたのです。そして、結び直すべきものは何かを感じ取ったのです。アラルはいきなりつるぎを島に突き立てました。霧の魔物たちがそれで怯えたように彼女から退きました。アラルは、大声で歌い始めました。
「この世の静か 破る者たちよ
手に手に剣を 取り給いて
何をか得んや 誰をか討ち果たしや
我そを止めん 苦しみの必定を」
それは古い歌でした。ずっと昔に洪水に呑まれた大地の、唯一海の上に残った土地の伝説を、彼女は言い伝えられ聞いていました。海の水が引いた跡地には豊穣な世界が広がったと…。彼女は、その豊穣を謳う歌詞を口にしたのです。その
豊穣を巡って争いが生じたからです。目の前に現れた水に濡れた大地は、人が待ち望み、新しい時代が開けたというのに!アラルが口にした歌詞はその祝詞のほんの一部でしたが、大声で歌わずには、いられませんでした。エアロスと対になるイピリスという神が、その歌の続きの歌詞には現れていました。イピリスは大洪水を起こしてしまったパートナーの意思をも受け入れて、豊穣の大地を褒め称えるのです。
アラルは、気付いていたでしょうか。無意識に、その歌でたくさんの霧のくぐつたちを慰めました。彼女の声音は凛として、くぐつたちの霧の一粒一粒に、伝わりました。それまでキャロセルという少女の危険な歌に聴き入っていた化け物たちが、次々に、すごすごと小島から引き下がりました。少年が意外そうにそれを見つめました。そして、くるりとアラルを振り返ると、わなわなとし始めました。しかしそれもすぐに収まりました。アラルは遠のいた意識を取り戻しました。少年の言葉も、一語一語振り返ることができました。
「先生は、オグのしもべと、そうおっしゃいましたが、ここは、やはりそのオグの棲家なのですか」
「そうだ。そうだよ。でもね、彼が君を連れて来たんだよ。ゆっくりとね」
アラルはまるで目の前の師匠が、腹が膨れて満腹のように見えました。けれど健康的な様子ではなく、不健康なものを食べた後のような。
「オグとは何者です?」
オグとは何者?それは、決して彼女が意識したことがなかった質問です。それはクロウルダが相手にしているもので、今までは自分とは何も関係がなかったからです。ですが、彼女はそのオグを討ちに来ていました。目の前の、この少年の言うことに唆されて。
アラルは、まだこの少年を信じていました。師匠の言うことに、従順に、耳を貸す元の彼女に戻っただけでした。
「旧時代の記憶。洪水の歴史を知る者。その原因が何か、とね。古い術が彼を造り出した。人間は海に呑まれ、体中がばらばらになったけど、彼が、皆を繋ぎ渡したんだ。オグは救世主だった。でも彼が吸収したものは人間の一部だった。それは、悪意と呼べるものではなかった。純粋な人々の欲求だといっていい。救われたい、助かりたい、生きていたい。どんな人間も危機に際してそれを願わずにはいられないだろう。だがその思いが大海嘯を引き起こしたなんて誰が考えるだろう。考えないね。そりゃそうさ。
思いの力はひどいものさ。救われたい、助かりたい、生きていたい。すべて独りよがりなのさ。自分だけさ。そう願った人間は、他のことなど気にしない。どんなことをしても救われたいと思うのさ。鈴の音が聞こえるかい?その時起きた、儀式さ。人間は儀式を執り行なう。そうして思いを集約して、威力を持ちたがるのさ。
古い術は、彼を呼んだ。彼はそれに応えた。すると、大勢の霊魂が彼の所に集まってきた。彼の誕生だ。願いが叶って、人はどうなる?すぐに忘れる。願いは叶ったんだから。じゃあ、折角集まった思いの力は?どうなる?どうなると思う?消えてなくならないんだよ。大抵社に祀られる。けれど、オグはもっと巨大だった。祀れなかった。オグは体を分離した。あまりに大き過ぎて、耐えられなかった。でも、それで彼は自分を見失った。人々の思いが自分を呼んだことを忘れてしまった。彼には人間が必要だった。しかし彼は人間から分かれてしまった。その力を持ったまま」
この世には、かつて、魔法がありました。魔法は、人の願いを叶えましたが、一人だけの願いではそれは実現しませんでした。複数の人の願いが、重なるように、現実を歪めて思い通りにしたいと思わなくてはならないのです。現実は歪められました。まだ未熟な世界において、人の思いは、その現実を好きなように変えられるほど未熟な力を持ったのです。創り合った世界をそのまま受け入れられずに。
「彼は応えたかった。人間に。すると、彼の力はある方向を向いて、走り出した。彼はね、実はいいこともしているんだよ。その巨大な力を使って、人間を救ってもいる。でも、あの大洪水の最中求められた強い願いは、新時代にはなくなった。かろうじて、見出されるのは、ね、自己破壊的な願望だったのさ。彼は、お人よしなんだ。人間の願望の後押しをする。彼は、そうするのが大好きなんだ。どんな望みでも、実現したがる。それは…」
アラルも、イアリオも、この時にオグが誰に宿ったか気づきませんでした。それはアラルにこそ憑いたものと、物語は語るようでした。なぜなら彼が彼女を呼び、こうして正体を晒していたからです。恐ろしいことは、この時に起きていました。彼は
最初ヴォーゼに取り憑いていました。アラルの恋人がすべての唆し役でした。彼は彼女の思いと願いを実現しようとしました。アラルがここに来たことも、彼女の願いだったのです。その恐怖はアラルの夢に、イアリオの見る夢にははっきりと現れませんでした。ただ、そこかしこに、その断片なるものは浮かび上がっていました。なぜならアラルは彼に唆されるような願望を持っていなかったのです。彼女に見られるのは、恋人からいかに離れていくかという衝動でした。ヴォーゼを守るために、あのいくさに参加して敵を斬り殺してから、彼女は異常な怒りに目覚めましたが、どうして令嬢を守るために血を浴びなければならないのでしょう。自らを鍛え上げねばならないのでしょう。
それは彼女がやらなければならないことではなく、社会がやらねばならないことなのです。彼女が強くなることを、最初ヴォーゼは好ましく思っていました。そしてそれが、自分を守るためであることを、よくわかっていました。
ヴォーゼは戦場に赴いたアラルが傷を受けたことを快く思いませんでした。それは純粋に恋人がいなくなる可能性を感じ取ったからですが、彼女は、決してアラルが戦場に飛び込もうとした時に、抑制を懇願しませんでした。彼女は自分のために動くアラルを快く思い、アラルのために、自分が何をできるかを、真剣に考えたことはなかったのです。幼き恋心を彼女は持っていました。そう言うならば、アラルにしても、同じように幼きに過ぎた恋でしたが。
「どうだろう?人が、もっとも実現し難い望みって何だい?彼はそれに気付いたんだよ。人間の、悪の望みにね」
少年の言葉に、アラルは、背筋が凍りつく気がしました。イアリオもまた、同じようになりました。ですが、その意味を二人はまだ理解していませんでした。




