第二十章 夢の中 4.愚者の決断
「ヴォーゼ、私を絵に描いてくれないか」
屋外で、アラルは恋人のヴォーゼにそう頼みました。
「どうして?」
「いつでもヴォーゼのそばにいられるように。勿論、私もここにいるつもりだが」
ヴォーゼは彼女の考えていることがわかりませんでした。アラルは、海賊どもがエスタリアの町の南の港に攻め込んでいる最中は、山脈向こうの大きな戦争に手を貸していました。エスタリアでは北側から足しげく商人たちがやって来ていて、南からの戦いの足音は近づいてきていませんでした。ですが、船員であるアラルの父親は港に戻れず、海外に出ずっぱりでした。港から逃れてきた水夫や大工やクロウルダ、その他の市民は皆エスタリアに匿われたので、町は人間でぱんぱんに膨らんでいました。
アラルはかつて見た父親の燃え上がる船を思い出して、身を震わせる怒りを新たにしていました。彼女は故郷に戻ってから、港が占拠されたことを知ったのです。アラルは南の港町に自分が乗り込むことを考えました。勿論、後々ここから繰り出される援軍に混じっていくべきでしたが、その身体が疼いて仕方がなくなりました。彼女がふるさとに戻ってきてから恋人に伸ばした手、腕が、違和感をそこに抱かせたにもかかわらず。
恋人のヴォーゼはすっかり屋外に出掛けるようになっていました。もう年頃も過ぎて頭も相当に明晰だった彼女は、監視の目がありながらも、日の当たる所に出歩きその目で子細に町並みと人の営みを見て回りました。むしろ、アラルがいなくなってから、彼女は活発になりました。ならざるをえなくなったのです。
ヴォーゼはいくつもの趣味に挑戦しました。格闘用のグローブを嵌めることもあったし、陶工に弟子入りしたことも、画工に絵の描き方を教わりにいったこともありました。その中でも絵画は彼女の心を慰めました。というのも自らの筆で描くことは、その中に自由を見出し、確実に自分のものと思われる作品を仕上げられるからでした。
アラルに懇願されたヴォーゼは素晴らしい作品を仕上げました。刈り上げた頭に、長襦袢に包まれていながらもわかるしなやかな筋肉、鋭い目。ポージングはなく佇んでいるだけでしたが、それが強力な戦士の姿であることがなぜか一目で分かる絵でした。
出来た絵は描き手であるヴォーゼ自身をどきりとさせました。戦場から帰ってきた彼女の恋人は、すっかり変わった人間になっていました。それが描いて解ったのです。相手の考えていることはわからずとも、自分に、激しい愛情を抱いている恋人の、異常に発達したその筋肉は。
「やっぱり、ヴォーゼは何でもうまいんだな。私がいなくても、こんな立派な絵が出来る」
何かを否定するために、鍛えたそのたくまし過ぎる肉体は。
「何を言ってるの?あなたがいなくて悲しまないなんてないわ。どれだけ私が、あなたが戦場でいる時に、心を痛めているか、教えてあげたでしょう?」
アラルはピロットのように鋭く悲しげな目の色を閃かせました。
「だからつまらないんだ。私の戦功を讃えてもらわなくては。一体、ヴォーゼは私をどのように見ているんだ?私は戦士だ、戦場でこそ自分であれる。ヴォーゼのそばにいる自分は、私のようではない」
イアリオは、夢の中で二人のやり取りを覗き込みながら、主にアラルの気分になりながらも、自分がヴォーゼと重なり合う瞬間がありました。どちらの感情も彼女の中に流れました。そして、この時のアラルの言葉に触れた時に、まさにアラルと自分が重なり合っているために、「怖い」とはっきり感じました。彼女は自分自身だったと思われるアラルによく似た少年をかつて愛していました。その少年はずっと生まれた時から戦いを挑んでいたようでした。世界に。あるいは、彼女に。
ヴォーゼが答えました。
「また悲しいことを言う。どれだけ私があなたと一緒にいて、心が安らかになるか、何度も伝えているのに」
「怖い」とまた、イアリオは思いました。その怖さを彼女はまったく知りませんでした。その怖さは知るための怖さでした。知るための怖さとは、己の悪を認識するためにありました。
「怖いんだ」
アラルが言いました。しかし彼女が言った怖さは、イアリオが感じたものとは違いました。
「何を?」
ヴォーゼが訊きました。
「私もそれは同じだから。今まで何度も、私はヴォーゼを私から引き離そうとしていたんだ。知っていたかい?これ以上の悲しみがあるならば、それは私が戦に行けずに消耗していってしまうことだ。私の活力はここにはない。ここには、安らぎだけがあるから」
イアリオは彼女たちの幼少の頃から夢に見て知っているので、どうしてアラルがこのように言うのかわかりました。アラルは世界がどのように引っくり返っても自分がヴォーゼと一つにはなれないのだと考えていました。女同士で一つ屋根の下に暮らすことを、世界は許してくれないだろうと。それでいて、どうしてもヴォーゼを愛してしまう、自分を彼女は許せなく思いました。ヴォーゼにおいても、アラルは彼女に自分を愛してほしくはありませんでした。なぜならこの感情は時が繰るにつれていや増していく物語だから。
ヴォーゼにはふさわしい人がいる、立派な男性がその傍にいるべきだと、アラルは思い込もうとしました。彼女の幸福は彼女にあるものと。それは自分が傍にいることによるものではないと。
「それで、十分ではないの?」
ヴォーゼは短く尋ねました。彼女は、アラルとは今までの関係のままでもいいと思っていました。彼女の方がアラルよりずっと、柔軟に考えていました。
「不安なんだ。私がだんだん消えてしまうようで」
こうしてアラルは、恋人に中途半端な別れを告げました。彼女がいよいよ恋人から身を隠そうとしていることを、相手も分かりました。ですが、それは明然な告白ではありませんでした。
そして、もう一人、この町からいなくなるのであれば、彼女はそれを告げるべき相手がいました。彼女をここまで鍛えた、地下の亡霊。不思議な衣装を着た、少年の師匠です。
「もう、君に教えることは何もないのかもしれないな」
少年の霊は、青白い炎を上げていました。アラルはその少年以外、亡霊を見たことがなかったので、霊は青い炎を上げるものだと思っていました。いいえ、そのような輪郭を持つ幽霊は、強い想いをこの世に残した者たちでした。
「戦場でも活躍できるくらいだから、君は君の武術をもう君なりに磨けるんだろう。僕ができることはほとんどやり切ったから、そろそろ、この町を出て行ってもいいかもしれない」
「…私は、今になって一つわかったことがあります。それは、ヴォーゼがいるから、私はこの町から出て行きたいということです。私の望む心は彼女と共にいることではない。彼女といると堪えられなくなります。穏やかではいられません。穏やかになることを、私は拒んできました。平穏は私の望むものではないのです。それではなく血が、滾る血潮が、安らぎではなく荒ぶる心が、欲されるのです」
アラルは血走った目を開きました。本心ではないことを彼女はこの場でいくつも呟いていました。
「そうだよ、アラル。君は本懐を遂げなきゃ!」
少年は嬉しそうに片手にグラスを持つ仕草をしました。彼女には少年が何か持っているような演技に見えましたが、それが、旧時代に隆盛した器だとは思いも寄りませんでした。しかし、地下の倉庫にはたくさんの酒樽が積み上げられていました。彼女も少年を真似て、ぎこちなく片手を上げました。空想のグラスの端と端がかちんと合わせられました。
アラルはまた、ヴォーゼにはっきりと別れを告げたと少年に言いました。
(恐ろしい。)
「そうか。いよいよだね」
少年の霊は頷きました。彼女の決意が固いことを確かめたのです。強い冷気がその場に漂いました。ぴりりとした冷たい空気は、アラルの心と体を引き締めました。ですがその心と体を引き締めたのは、今の冷気ではありませんでした。
「ところでアラル、港町の様子はどうなんだい?」
遥かな過去から届く、畏ろしい冷気でした。
「わかりません。行くのは止められていますから。海賊どもがもしこの町を襲うようなことがあれば、私は守るためにここにいなければなりませんが、あの港には魔物が眠っているために、どうなるかは予測がつかないのです。打って出ることは魔物も刺激することになるから、慎重なのです」
「それは、おかしい」
霊は揺らぎながら疑問を差し挟みました。しかしアラルは彼の冷気に身じろがず身を引き締めていました。
「どういうことですか?」
少年の霊は不自然に揺らぎました。しかし霊は霊である以上不自然な存在でした。でも、それはただ身じろいだだけにアラルには見えました。不自然ではなく。揺らいだのではなく。夢見手のイアリオは、軽く呼吸が苦しくなりました。
「アラルほどの腕前の者がここにはいるのに、海賊はおろか魔物にすらチャレンジしないとは!皆、君の実力はもう知っているだろう?北の地でどれほどの武勲を得ることができたか!君は二十人の戦士たちを斃した。それも前線で、矢面に立ちながら。君がいれば、敵は追い払えると考えるものだろう。今こそ君が、その剣舞で何もかも脅威をなくすことができるんじゃないかい?」
幽霊は嘘をついていました。まるでたった一人でその数の敵を討ち取ったと言い表したのです。戦場において、その剣技は一対一のやり取りに終わるわけがありません。アラルは素早い戦士でした。その風貌も魅了するものがあり、彼女のおかげで前線が切り開かれたのは紛れもない事実でしたが、弓役、徒歩役、盾役、馬役などがいてはじめて軍団が組まれ、驚異的な戦力となり進軍できたのです。ですが、その戦力として彼女は自信を深めていました。
幼い頃から師匠として親しんできた相手から言われると、アラルは自分が一人でも港に赴いて活躍ができる、そんな気がしてきました。彼女はずっと以前から、このように少年の霊に背中を押されるようなことを言われ続けてきました。その末に、今の力溢れる肉体を手にし、恋人から身を引き剥がそうとする決意を育てられたのですが。彼女の愛はその一方で、より大きく、より哀しく、より力強くなりましたが。
「あの魔物が、果たしてこの手にかけられるでしょうか。無限の悪意を持った怪物を、一介の人間の手で?」
彼女はしかしオグの恐ろしさを大人たちからよく聞いていました。地下の神官たちは周囲の人々に、自分たちのやっていることの啓発を行ってきました。
「でしたら、もうとっくにやっつけられたでしょう。わざわざ神官が見張りをしなくてもよかった」
クロウルダは自分たちの役目をそうしてアピールしながら、何びともオグに近づけさせない用意をしていました。ですが、
「やってみなきゃ、わからない。アラルの手は、そんなに小さいかい?仮に討てなくても、町を出て修行して、強くなってまた戦ってみたらいいじゃないか」
オグは
「そのために今一戦交える必要があるんじゃないか?強大なものほど」
誰しもにとって未知の存在であるはずでした。彼が、集落の一人二人を唆して、悪を蔓延らせるのはそうしたオグの様態を集積した一つの事例でした。
「想像でその大きさを測ってはならない」
しかし今の彼はたくさんの命を貪り葬っていました。
「実際に手を合わせてみてから、どうすれば勝てるか、どうすれば強くなれるか、考えていくのが、強くなっていく者の向上心だから」
思いがけない誘惑を人間にしていてもおかしくはない存在なのです。アラルは、少年の霊に対してクロウルダの言ったことをそのまま注意として繰り返して言いました。魔物は危険な存在であること。手を出すのに憚られる相手だということを。
しかし、彼女はこれまで、少年にまるでオグを軽んじるようなことを言われ続けてきました。それに対する対峙心をはぐくまれるようなことを!いつか、それは滅ぼさねばならない魔物として、彼女は彼に言われてきました。オグは、少年から過小評価されたような実物に当てはまらない心象を、アラルにほのめかされ続けていました。
アラルは自分の師匠のことを一毫とも疑ったりしませんでした。彼女は師匠に言われたことで、自分の腹が決まったような気がしました。それはずっと自分の腹の中で考えていたことのようにも、思えたのです。いつか魔物を討伐すること。人類の敵に、一太刀を浴びせることを。
「できれば、置き土産にしたいものです」
アラルは、大変愚かな決断をしました。
「今ここで、私は私のなすべきことをするのです」
その決断こそ、自分をより強く、たしなめてくれるものだと思いました。麗嬢のヴォーゼを、愛してしまった自分を、たしなめてくれるものだと。時が経つにつれていや増していく、どうしようもなく純粋な愛を、このまま保つためには。…夢を見るイアリオは、怖くて堪らなくなりました。アラルが自分自身を裏切っているとよくわかるためです。ヴォーゼとともにあるはずの愛を、己の中へ引き籠もらせ、彼女は、自分と世界を見限ろうとしたのです。それこそ無限の悪を内包するオグの中にあるものでした。自己の思いだけがある世界を世界に実現せんとする、巨大な人の災いでした。
この世は創り合っているもののはずなのに。
彼女はこの夢のさなか、夢の続きを見るべきかどうか、迷いました。これは夢だとはっきりと彼女は認識していました。ですが、生々しい、現実に起きたことをなぞっているような、手触りすらあるアラルの心は彼女そのものになり、
夢は、
それを見ている者から見る見ないの選択を取り上げていました。夢の中で、彼女の髪は猛烈に逆立ちました。巨大な月の月光が、眠りに就く彼女のからだを照らしていました。月台から見える月は、天に近く、あまりに巨大に見えました。
月の儀式の台座に寝そべり、神官はその晩の月が変わらないことを認めました。翌日の晩の月が、少し変わったことを認めました。彼らは暦を読むために、その満ち欠けをじっと観察しました。
その不思議な天の観測は、暦を読むことそのものの神秘にも触れていました。いつから時代は始まったのか。いつから人はその意識に気づき、歴史を認識したか。月台の神官たちは、自ずと古い時代にも思いを馳せるようになったのです。いつから人は、繰り返し時代に生きることを自覚するようになったのか。いつから人間は、時代を差別するようになったのか。昔はいいなどと思うようになり、未来を不安に感じるようになったか。
繰り返される歴史の正体は、今と昔の変化と同一性です。人間の意識が、変わっていくものと、変わらぬものとを認めるのです。
その月の満ち欠けが、女体に影響を与えることも古くから人間は判りました。母親となる身体に、まるで命を呼ぶような働きかけを行うのです。命は母胎から出てくるものです。母の月の台から。生まれてくる赤子は、その中で変わっていく月を見上げるのでしょうか。時を刻む、変わりゆくものを。




