第二十章 夢の中 2.創り合うもの
その幼少期から、イアリオはハルタ=ヴォーゼにも心を寄り添わせていました。ヴォーゼから見たアラルは、類い稀な美貌としなやかな体躯を持つ、妖艶な人間でした。その歌は響きが良くて、心の中にどこまでも澄み通るようでした。ヴォーゼもまた人気のある女の子でしたが、到底彼女には及びもつかないと感じていました。商人のハルタ氏に生まれた可愛らしい女の子は、箱入り娘のように大事に育てられていました。彼女は家の中か家の前にいることが多く、彼女に会いに来る男子は限られました。(イアリオの時代から遡ること四百年、姓と本名はその順番での並びが大陸の西側では一般的でした。西方の戦士の国が出身であるロンド=フィオルドもこの並びでした。ところが海賊に配下にされた者たちはこの順番を逆にされていました。海の荒くれ者となった、貴族の次男坊たちは東方出身で、そこでは本名、姓の順序で呼ばれていたのです。)
そこに現れるどの男子よりもアラルは整った顔立ちでした。そして、その体つきはやがて筋肉の量を多くし、腕っぷしでもアラルにかなう同世代の男の子はいなくなりました。彼女は人前であまりアラルと会話をしません。ヴォーゼは頭が良く本をよく読み、箱入りにもかかわらず提供する話題が豊富でした。彼女は人の話をよく聴き、返す言葉も的確で、彼女を中心に子供たちのサロンが出来上がっていました。
子供たちは彼女の家に行って彼女と話をするととても得した気分になりました。もてなしも良く、たとえ喧嘩があっても、尾を引かぬ結末となるのです。彼女はたくさんの言葉を聴きました。決して拒まず、否定せず、自分の意見も言うところは言って、取り成しました。彼女は人の不満をよく耳にしました。不満より多いものはないくらいに、その話題は事欠きませんでした。彼女は自分の不満を決して言いませんでした。言っても意味がないと思っていたのです。自分の行動の一部始終に、どれだけ親の目が光っていても、それは不満とは呼べませんでした。彼女は話し上手とはいってもそれほど社交的な性格ではなかったのです。一人をおいて、ヴォーゼは心の休まる相手がいませんでした。
その一人とは、よく子供たちが解散してから、二人きりで過ごしました。その時彼女は満ち足りた気分になりました。一人占め、という言葉がよく合うシチュエーションでした。彼女以上に人気のある同い年が傍にいるのですから。ヴォーゼはよく相手の顔を触りました。こんな顔に自分もなりたいものだと思いました。自分はあまりに女の子らしい、大事にされやすいような顔をしている。もっと凸凹であってもいい、なら両親はあまり私のことを気にかけなくなるかもしれないから。もっと…もっと、外に出たい。もっと自由に、彼女と一緒に過ごしたい。
船員の子供であるアラルは父親が留守にしている間、ヴォーゼの家に泊めてもらうことがよくありました。彼女は母親の手伝いもよくしていましたが、その必要がない時は、ヴォーゼとともに過ごすことを選びました。周囲は彼女たちを単なる仲良しだと感じていました。ですが、友達でもありえぬほど顔と顔を近づけることのある二人を、そのままの親友だと思い続けるか、二人には分かりませんでした。とても親しい親友、その間柄を、そのように形容するのは、彼女たちには適していると思われませんでした。もっと親しい、より近い、私たちは、そんな関係。でも、それを言葉で表すなら、どんな言い方が合っているだろうか…?
ともだち。いいや、もし、二人が互いに性別が別ならば、どんな言い方が…?それは成長するにつれて分かることでした。二人の関係は秘密でした。そのような例はないのです。そして、そのような二人が、ともに暮らすこと、彼女たちの望むように、平和に住み続けることは、できないように思われました。なぜならある時二人が性の関心を補う授業を受けた後で、男性同士の性愛が話題になったのです。それは、彼女たちの町で実際にあったことで、物凄く被虐的な目に彼らが遭う一件でした。二人の男性はその後別々に結婚し、子供ももうけましたが、彼らの性愛は復活し、ために町を追い出されるというものでした。
二人にとってこのケースは著しく重大でした。町は、同性のカップルを認めないのです。異性は異性同士結婚することが前提で、恋人となることが許されました。ですが、その条件の無い二人は、周りから祝福を受けられないのです。このことは南のクロウルダの港町ではいささか違いました。内陸の町以上に人の出入りが奔放な港では性風俗も一般的で、一対一の交遊関係も決して守られるべきルールではないのです。厳格な商人の法が適用されるエスタリアの町では清廉さが人格と重なり、風格となり、また信用信頼となったのです。
ハルタ=ヴォーゼは町の重役の娘でした。将来、しかるべき人物に手渡すことが、誰の目にも望まれました。
酒樽の、並んだ地下倉庫。アラルの母方の祖父は、倉庫の管理人であり、厳格なルールを使用人に厳しく指導する商人でした。彼は、見目のいい孫のアラルを大事にしました。他にも男性の孫がいますが、祖父なる立場の者たちの御多分に漏れず、男子には距離を置き、その将来のために徹底して態度をかたくなにしました。目に入れても痛くない女性の孫は、可愛がり、甘やかしました。彼女だけが孫の中ではその倉庫に入られ、そこで、彼女にしか見えない、男の子の亡霊と遊びました。彼は、この時代には見たことがない種類の着物を着ていました。厚手の袖と襟回りの、おめかしにしか着ないような、やたらと刺繍の施されたものを上着にして、下はタイツのようなぴったりとしたパンツを履いていました。さてもエスタリアの人々は、四百年後イアリオの時代のセジル、パンセといった民族衣装と同等のものを着ていました。といっても、スカート様のパンセはいくらか丈が短く、かろうじて膝が隠れるぐらいで、上着のセジルは裾を縫い止めず、だらんと垂らしているものでしたが。
男の子の幽霊は彼女にいつも優しく話し掛けてきました。彼は、生まれた時からアラルに声を掛けて、その注意を引きました。だから、アラルは両親やヴォーゼといる時よりも、彼に共にいる時間を捧げていました。彼は、自分が亡霊であることや、他の人には見えないことなどを彼女に教え、この秘密は絶対に守られなければいけないと告げていました。アラルはその言葉をよく守り、恋人にも一切口外しませんでした。
アラルはこの亡霊に不思議な感情を持ちました。それは親ともヴォーゼとも持ちえない、特別なものでしたが、何か、彼の言うことには従わなければならないという心持ちを覚えました。まるで師匠のようにいつしか彼のことを尊敬するようになった彼女は、彼に、自分の恋心のことを相談もしていました。
「君が、小さい頃からヴォーゼのことを気にかけていて、一緒にいることを、とても喜んでいることは知っていたよ」
彼は優しく話しました。
「ならば君は、どうありたいのかな?彼女に対して。その恋は、実るのかどうか、と考えていると、君は言ったけれど。そうだ、喧嘩のやり方を教えてあげようか?ヴォーゼは親の目の掛けられている、おしとやかな姫君だ。だが将来、きっと表に出て行く。それは危険だ。きっと万難を排してその幸せを叶えてあげようとするだろう。彼女の両親が。君こそその万難を排する者としていれば、その恋は成就するかもしれないね」
アラルは大人しく彼の言うことに従いました。男の子は手取り足取り、敵に危害を加える方法を彼女に教えました。彼は実践を勧めました。彼女は年上の腕白者にも果敢に挑みました。特に、南の港では喧嘩は華やかに行われ、いさかいの仲裁の方法としては合法とされました。彼女はその代理としてステージに立ち、負けることもあれば、華々しく勝つこともありました。そのおかげで彼女は少なくともエスタリアにいる男子には強さで負けない女子となりました。ですが、港に来る時、アラルはその歌声を皆から嘱望されていました。喧嘩の代理に立つ時、彼女は歌うことを忘れました。
アラルは自分の容姿を変えることを思い立ちました。もっと勇ましく、強く、力のあるように見えれば。男の子の霊が言う通りに、私こそヴォーゼの危難を防ぐ者として認められるかもしれない。…ヴォーゼはアラルが何かしら自分に隠していることがあると知っていました。しかしそのような秘密は自身も持っているために、訊くことはありませんでした。どんどん、異性に変容しているアラルをヴォーゼは見咎めませんでした。むしろ、女性であれたくましく見えることは、素敵なこと、素晴らしいことだと感じました。近隣では女性の兵士も珍しくなく、殊更男性が女性より強くあらねばならないという慣習もなかったのです。
ただし、彼女は、守られなければならないか弱い女性と周りから思われていました。ヴォーゼは、想いを寄せる相手が、精悍な顔つきになりその方面に成長していくことを、心強く思いました。彼女はアラルを心配していませんでした。その傷跡も、美しく思われたのです。しかし
ある時を境にそれは醜く引きつっているように思われました。彼女が、初めて戦場に出て、人殺しを、してきた後に見たものは。
イアリオは、ヴォーゼにも、アラルにも同化してその心理を読み解くことができました。それは、互いの意識の交流を感じ、齟齬と、同一を繰り返す、畏れ多い認識の鍔迫り合いでした。彼女たちは自分たちが不可分のパートナーだとわかりながら、自分たちが恋人同士だと認め合うのをどこかで恐れていました。二人はその関係を「恋人」以外に定着させる方法をまったく知りませんでした。あるいは、婚姻という道筋を思い描くことができなければ、その関係を継続させるイメージが成り立ちませんでした。港には、そして町にも、そのような恋愛以外の顛末を聞くことのできる人生豊かな人間がいたでしょうに。
彼女たちは、ある時互いの裸を見せ合いました。成長の著しい身体はエロスを纏い、興奮を誘いました。それは異性の裸ではなく、純粋な、恋心を認め合う者同士の感じる高ぶりでした。一方は確かに筋肉を多くしていました。でもそれは女性らしさを失わず主張するべきところは主張し、物欲しさを訴える立派な肢体でした。双方が互いの体に感動し、一般的な恋人が落ちるように、接触の熱に溶かされました。そのような関係も紡いでしまったために、二人は、互いが同じ屋根の下にいなければ、どこか隠れながら秘密の関係を築いていくなど堪らない、耐えられない環境だと思い始めました。その絆を相当深めてしまったために、現状の不満と、苛立ちを抑えきれずにもいました。
二人は可能性を探しました。どうすれば結婚を認められるものかと。この町から出て行くことを考えられませんでした。なぜならヴォーゼもアラルも、この町に愛されていたからです。
「最近、近海が荒れているっていうね。僕も聞いてきたよ。酒場に行って、世の噂を。海には海賊が出るっていうじゃないか。君のお父さんは恐ろしくないのかね?」
ある時、地下倉庫の亡霊はアラルにそんなことを尋ねました。まだ、彼女の父親の船が炎に包まれて堤防に向かって来ない頃です。
「まあ、そんなこと言っても、海の男は出て行くものか。危険を承知で出て行かない船乗りはいない。人も、自然も恐ろしいものだからね」
彼は至極当然のことを言いましたが、その口調はしとやかに、浸透するように、含みを持ちました。
「先生は何か、気になることがあるのですか?確か、父の船は船団を組んで、ならず者にも対抗できるようにしているはずですが」
アラルは今や、彼を先生と呼んでいました。
「臆病者はよく準備をする。たとえそれが失敗しても、目的を遂げるためには手段をいとわない。彼らはどうやら貴族の出のようだが、長男など支配を任せられる者たちではなく、その下、次男坊以下だという。つまり、任せられたことのない者、見様見真似で人を支配しようとする輩だ」
亡霊は身を乗り出しました。
「彼らはよく準備をするが、どうして粗末な用意をよくする。そして後始末をつけない、やり方がよくわからないからだ。彼らは自分たちの領域を広げようとするが、土着のあり方というものがある。郷に入っては郷に従え、ルールの押しつけでは、決して人を支配することなどできない。
根無し草の男たちは容赦が無い。どこに暮らしても後ろ盾がなければ、それを気にする必要がないからだ。南の港は目を付けられたようだ。そういう噂が立っている。君が恋人の万難を排しようとするならば、その万難のうち一難は海から届くやもしれないかな」
さて、亡霊の言葉どおり、クロウルダの港は燃え盛る船の寄港を出迎えました。その船にはアラルの父親が乗っていました。幸いにして怪我人は少なく、被害もそんなにありませんでしたが、ざわめきは人々の間に広がりました。そして訓練が始まりました。海賊の脅威は大きく、守り手を増やさねばならないと港にしてもエスタリアにしても軍備の増強がうたわれたのです。そこに、アラルは参加しました。彼女は怒りに身を焦がされていました。彼女はいかなる危難も排除したく思いました。それが自分の役割だと認識していたのです。
いかなる危機も、恋人と共に、受け入れて、慰めて、生きていこうとする発想は、彼女の中にありませんでした。そこまでは、この夢を見るイアリオは分かりました。アラルの怒りが、恋人由来であることは。しかし、その後彼女が剣を持ち一難を排した時、ほっとするどころか、さらに血を求め出した心理は分かりませんでした。それも再び襲い来る賊共のためといえばそうでしたが、アラルの体は、まったく恋人とともにいようとせず、各地の戦場を駆り立てられるように飛び回り、敵を討つ手の心地に酔い痴れるようになった激情は、まるである恐怖を揉み消すために持つことになったようだという以外は。恐怖。それはどんな恐怖でしょうか。
アラルは無傷で戦場となった港からエスタリアに戻ったのではありません。その印を、恋人のヴォーゼは見咎めました。恋人に付けられた傷は、まったく彼女の好みに合いませんでした。喧嘩の跡なら、それがどんなに頬を膨らませても、顎に血糊が付いていようと、まったく気にしませんでしたが。刃傷は、鋭く皮膚に喰い込み、鮮やかな肉の割れ目を見せました。そして、明らかに命のやり取りをした跡が、堪らなく彼女を不安にさせました。こうした戦場にアラルを行かせるのは耐え切れぬことだとヴォーゼには分かりました。
そして、つい彼女はアラルにこう言ってしまいました。「お願いだから、同じように、命のやり取りはしないで。相手にも自分のように想う人がいるかもしれないのよ」と。こう言われてアラルは収まりのきかない怒気を呼び起こしました。「どんな人間も私たちの邪魔をさせたくないよ。平和に暮らしたい私たちの思いを」
それでもなお、アラルは、そしてイアリオは、その恐れの所在、その怒気の行方をわかりませんでした。万難を排するという希望は彼女の恋人のヴォーゼにはありませんでした。それが
二人の恋路の障害となることを不思議にアラルは感じ取っていたのです。二人は互いに違う想いを相手に抱いていました。それは、アラルの方が物事より先に動き、先鞭を付けていく思惑があり、一方で令嬢のヴォーゼは泰然自若として世の流れの趨勢を見極めていく、先の先ならぬ後の先の発想があることに表れていました。二人は自分の役割をこのように認識していました。だから、当然その心の奥も、互いに分かり合っていると思い込んでいたのです。ヴォーゼは自分の役割を決して「令嬢」と思いませんでした。それは周りが勝手に考えていることです。彼女は動かなければならない時が来たら、自分から動くべきことをよく知っていました。だからアラルが戦場に赴いたら、その行動の抑制をお願いしたのです。アラルが先走っていることを、諌めようとして。
アラルはこの抑制を二人の抑制と捉えました。つまり、突き抜けられるもののない、困難こそ二人の前にあると。そしてアラルは恋人といることはこのままでは敵わなくなるのではないかと疑いました。もっと強い力を付けねば。何者も我々の邪魔ができなくなるくらいにと。
二人はこうして互いの想いを感じていながらも、考えの違いを明確にしました。とはいえ、相手を思えばこその判断で、その関係を覆すものにはなりませんでしたが。アラルは戦場にありながらそばにずっと彼女を置いていたのです。華麗な女戦士は振る鉄の剣の切っ先に打ち倒した敵の感触を味わいました。それはしかしまやかしの克難であり、彼女の怒気が収まるはずもありませんでした。
戦士にも疲れが来ます。休息が必要になります。アラルは戦い続けることができませんでした。それでも十二分に活躍し、その名が遠くエスタリアに響くほどになりましたが。
アラルはふるさとの陽だまりの空き地に身を投げ出しました。仰向けになり、強い日差しに褐色に焼けた腕を晒しました。傍に寄ってきたヴォーゼに彼女は気づきませんでした。
「私のせい…?」
小さな声でヴォーゼはアラルに囁きました。
「あなたがまるで自分を痛めつけるためにここから出て行ったように感じたのは。それは違うよ、アラル。私はあなたに自分の守りなんて頼んでいない。あなたと一緒にいることが、何より私の幸福なのに。
そうだ、あなたは、私を置き去りにして出て行ったよう。私が他人に同じような想いを持つようなことがあると、考えたのかしら?そんなことは一回もなかった。あなたがこうして出て行った後も。
でも、もしかしたら、私とともにいることが、あなたには飽きられてしまったのではないか、とも疑ったよ。本当のことは?教えて、アラル、アラル…」
エスピリオ=アラルは目を覚ましました。そこにいる、白い服を着た令嬢ヴォーゼに、彼女は愛しさと、喜びを感じました。しかし自分から伸ばされた、恋人に向かって上げられた腕に、手に、アラルは激しく違和感を抱きました。まるで自分が、その手を、その腕を、育ててきたのではなかったように。
「ヴォーゼ」
はるか昔から、人は、このようにして悪を繰り返してきたことを知りません。それは自分が、自分自身の気持ちに向き合えず、繰り返した己への裏切りでした。それは、解放を求めた束縛でした。それは、密かに温めたはずの想いが、出ることなく、朽ちていく物語でした。アラルの怒りは、その想いが出ることなく、朽ちていくことに対するものでした。本当の
愛を彼女は持っているのに。素直にそれを出せばいいのに。大して恋人とその身体を合わせたのは大きな転換ではありませんでした。彼女はよりむつかしい感情をこそ相手に抱いていました。それは、イアリオが彼に持ったもののように。相手から発するものをこそ、自分は、泣いて喜ぶほど受け留めたはずのことを。人は本人だけを愛するのではありません。人は、相手から染み出すものをこそ、その人自身と受け留めるのです。いかなる失敗が、そこにあろうと。どんな醜さが、潜もうとも。悪醜など関係なく、愛はありました。
いくら万難を排しようとも、アラルはヴォーゼを愛したのです。畏れ多きものが二人の間には存したのです。
「いつ、こうしてお前の顔を触っただろうか」
アラルはヴォーゼに問い掛けました。
「多分、幾度も触った。触っているだけで、不思議な気持ちになる。だから。
だから、私は、いくさ場に出掛けた。それは、私を、攻撃するんだ。何度も、何度も、私を…」
夢を見るイアリオはふと思いました。これは、あの、景色と、同じだ。私が、レーゼと、口付けを交わしていなかったと気づく時と。
アラルが凱旋した頃、エスタリアには港から逃れてきた人々が大勢いました。クロウルダの港は再び海賊たちに襲われていました。今度の襲撃は以前より大規模なもので、クロウルダたちは地下道にも敵の占拠を許し、一時的に町から退却せざるをえなくなりました。
しかし反撃の芽はありました。港の労働者たちは北の町に退き、エスタリアの人々や、商売上つながりのある内陸の都市や国々からの援軍を頼みました。彼らの船着場をならず者たちに占拠されたままでは困る国々がいっぱいあったのです。彼らは辛抱して港湾奪取の機会を待とうとしました。
…ですが、彼らは懸念すべきことがありました。追い出された神官クロウルダによる、魔物オグに捧ぐ儀式ができないこの機に、万一にもかの魔物が暴れ出さないかということです。クロウルダらはなんとか霊的な交信も図ってみましたが、まったくその時のオグの動きはわかりませんでした。
しかしある時、一人の海賊が血まみれになりながら、港付近に潜んでいたクロウルダの斥候のところへ歩み寄ってきました。ふらふらとした足取りで、もうすぐ死にそうでした。何かの罠でもあることを警戒しながら、クロウルダは彼に話し掛けました。すると、男はひと塊の黄金を取り出して、彼らに懇願しました。
「どうかこれで、傷の手当てをしてくれないか。ゴルデスクだ、地下から取れた」
黄金は、毒々しい色を陽光に晒して、クロウルダたちの顔をしかめさせました。




