第十六夜
そっと瞼を開ける。東側の窓から射す光が、窓際をふわふわと舞う埃に反射しきらめかせている。
――朝か。一体何時間寝ていたのだろう?
ごろり、と寝返りを打ち天井を見つめた。コチ……コチ……。時計の時を刻む音だけが響く。私は夢の中の出来事を反芻していた。
果たして、うまくやれるだろうか……。信じて、と言ったものの不安で仕方ない。心臓の奥にどす黒い何かがこびりついて離れてくれない。
ヒカルも暁も約束通りに姿を現してくれるとは限らないし、もし失敗したら?
今日は8月16日。タイムリミットは刻々と迫っている。
ああ、他に何かいい方法――。
ぐうう。
唐突に腹の虫が鳴いた。そういえば、昨日は何も食べずに寝てしまったのだった。
むくりと起き上がり、部屋を出る。居間からばあばが作る朝食の匂いがした。
その香りに吸い寄せられるように居間へ入ると、ばあばがこちらに駆け寄ってきた。
「あーちゃん! 大丈夫なの?」
「ん……。大丈夫だよ。心配かけてごめんなさい」
「……あの泉に行ってたのかい?」
「…………」
ばあばは深くため息をつく。ああ、怒られるな、と私は覚悟した。
「座りなさい」
ばあばは静かに、けれども怒るわけではなくそう言った。私はおとなしく椅子に腰掛ける。
「これ」
ことっ、と机の上に一つの器が置かれる。簡素な黒い素焼きの器。そしてその横に割り箸のような、細長い何かが置かれた。『おがら』と呼ばれる、麻の茎を乾燥させたものらしい。
初めて見るそれらに、私は小首を傾げた。
「これは?」
「送ってやるんだろう? なら、これを使いなさい」
「えっ?」
「送り火を焚くんだよ。本当は迎え火を焚いた場所で焚くのが普通だけど……。もし、あーちゃんの話が本当なら……光くんを暁ちゃんと一緒に送ってやってほしい」
「ばあば……」
ぐう。
私のお腹が再び鳴く。こんな時に。
「まぁ、まずは腹ごしらえかね」
あははと高らかに笑うと、ばあばは私の好きな食べ物をたくさん用意してくれた。
なめこの味噌汁、手作りこんにゃくの煮物、鱈の西京焼き、だし巻き卵。
私はそれらをゆっくり味わいながら胃の中に収める。
食べ慣れた大好きな味。さっきまでの不安だった心がほどけていくのを感じる。なぜだか鼻の奥がつんとしたけれど、私はぐっと堪えた。
腹をすっかり満たし、シャワーを浴びる。するとばあばが出掛けようと声を掛けてきた。
約三十分ほどだったろうか、ばあばの運転する車に揺られる。
車の窓から外を眺めると、青い田んぼがするすると後ろへ流れていく。そのうち山道に入り、踏み込むアクセルの音を聞いていると車が停車した。
「ついたよ」
車を降りるとそこは見知らぬ場所だった。
こっち、と促すばあばの後について、木々がさざめく緩やかな坂を登りきると、視界が開ける。
目に飛び込んできたのは、綺麗に整列する墓石たちやその脇に立ち並ぶ卒塔婆。墓前に供えられた菊の花が風に揺れている。
「ここは……暁ちゃんが眠ってるお墓だよ」
辺り一帯には何もなく、いくつかの墓石が立ち並ぶだけだ。山の上に位置するこの場所からは、たった今流すように見ていた青田が眼下に美しく広がっていた。
天国まで突き抜けていってしまいそうな青い空と、太陽を浴びてめいっぱいふかふかになった入道雲、そして夏草の匂いをはらんだ風が私の髪をそよがせた。
私は身体中で呼吸をするように、大きく息を吸い込んだ。清夏に溶け込む私の身体。目を細め、白い太陽を見上げる。
もしもヒカルが暁と一緒にこの景色を見られたら、どんなに喜ぶだろう。
早くあの、暗澹とした冷たくてうら寂しい泉からヒカルを連れ出してあげたい。この明るい世界へ、連れ出してあげたい。
だから、二人とも待っててね。
私は墓前に手を合わせ、心の中で呟いた。




