第十五夜
のろのろと家を目指し自転車を漕ぐ。漕ぎ出したペダルが鉛のように重い。ほとんど寝ていない身体に容赦なく照りつける灼熱の太陽をうらめしく思う。
おぼつかない足取りで家に入ると、一息つく間もなく怒号にも似た二重の声が投げかけられた。
「どこに行ってたの!?」
ばあばと沙夜だ。二人の怒りももっともだろう。何も言わずに、夜も明けきらぬうちに外出してしまったのだから。
「ごめん……絵が描きたくて」
「だからって勝手に家からいなくなって……心配するだろう!」
「ごめんなさい……」
「あっこら、まだ話は……!」
「お姉ちゃんてば!」
本当に申し訳ないが、今はそのお叱りを受けられるほどの体力が残っていない。二人の怒りを背に受けながら、部屋へ入るとそのまま布団へ倒れ込んだ。
――疲れた。瞼が開かない。布団と一体化した身体はもう自分の意志で動かすこともできない。脳みそがとろけるように私は眠りに落ちた。
夢を見た。
さっきまでの背中に石を積み上げられていたような身体の重さが、嘘のように軽くなっている。
ここはどこだろう。天も地もない、真っ白な空間。その中にぽつんとひとり佇む少女がいた。
――暁だ。
「あきらちゃん」
声を掛けると、暁はぱあっと向日葵のように顔を輝かせてこちらに走り寄ってきた。
「またあえたね!」
無邪気に笑う愛らしい彼女を見て、胸が軽くなる。昨日、悲しい顔のまま消えてしまったことが胸の奥でつかえていたからだ。
「探しものは見つかった?」
私の問いに、彼女は苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「ううん。でももうあきら明日には帰らないといけないから、あきらめる」
「帰るときはね、いつも牛さんに乗って帰るの。優しくてかわいくていい子なんだよ」
「来るときはね、お馬さんに乗ってくるの。すごくはやいの!」
にこにこ話してくれる彼女が本当に可愛らしくて、思わず頭を撫でた。まだ幼い子どもの、柔らかでわたあめのような髪。
撫でられた暁は、満足そうに顔をほころばせる。
「そうだ。あきらちゃん、これ見て」
私はいつの間にか手に持っていたクロッキー帳を広げた。ページをめくると、暁が嬉しそうに声を上げる。
「わあ! 絵じょうずだねぇ!」
「ありがとう。好きな絵、見ていいよ」
クロッキー帳を手渡すと、彼女は絵本を読むようにじっくりと1ページ1ページ眺める。
「これはどこ?」
「きれいな色だね!」
「生きてるみたい」
暁はひとつひとつに感想を言いながらからからと楽しそうに笑う。
そして、とあるページでぴたりと彼女の動きが止まった。
「これ、あきら知ってる」
何かを思い出そうと、必死に眉をひそめながら小さな手がその絵をそっと撫でる。
「このお花……このひと……」
私は絵本を読み聞かせるように、努めて穏やかに言った。
「百日紅。――と、あきらちゃんのお兄さん」
その瞬間、暁の大きな両眼から真珠のような涙がぼろぼろとこぼれ出した。暁の脳裏にあの日の美しい思い出がフラッシュバックする。
蒼天に映える唐紅の百日紅。その横で白日のように笑う兄――。大好きな、ただ一人の兄。
「あ……あ、おにい、ちゃん」
「おにいちゃ……、おにいちゃんはどこ?」
「おにいちゃんに会いたいよぉ、おにいちゃん」
しゃくり上げる暁の背中を撫でさする。
「あきら、何でわすれてたんだろう。おにいちゃん……おにいちゃん」
息がつかえながらも、ヒカルを呼び続ける暁の肩をぎゅっと抱き寄せる。
「あきらちゃん。明日、帰る前に私と会ってくれる? 一緒にお兄さんに会いに行こう」
「あきら、……ッ、あのお家から他のところへは行けないんだよ」
「ううん、きっと大丈夫。もう思い出したでしょう? 私が連れて行くから、ね?」
「……うん、わかった」
赤く染まった目と鼻、そして噛み締めた下唇。ヒカルと全く同じ顔で、彼女も頷いてくれた。




