第十三夜
百日紅は今日も見事に赤々と咲き誇っている。まだ夜の明けきらないぼんやりとした世界の中で、何かの目印のようにその赤だけがはっきりと輪郭を持って存在している。
私は百日紅を正面に見る形で、道を挟んだ真向かいに腰を掛けクロッキー帳を広げた。
普段は水彩絵具で絵を描くことが多いが、この夏休みは外で見たものを描くことも多いので持ち運びやすい色鉛筆で描くことにしていた。
白い紙の上へ、思い思いに色を乗せていく。シャッシャッと音を立てる色鉛筆の硬い書き心地は気持ちよく、絵の中の世界に没頭させてくれる。
この百日紅の絵は、クロッキー帳に描かれている他の絵たちとは違う。
私が私の記憶の記録の為に描くのではなく、ヒカルと暁の為に描くのだ。これをきっかけに何かが変われば。いや、変えてみせる。きっと、こんなに明確な意志を持って絵を描くのは初めてだ。
描く。描く。ひたすらに色を乗せる。目の前にある景色だけでなく、ヒカルと暁がふたりで過ごした穏やかな記憶を乗せるように。優しく。鮮やかに。ふたりがもう悲しい顔をしなくていいように。
――気付けば夜は明け、山際からすっかり顔を出した太陽が燦々と辺りを照らし出す。
絵から顔を上げると、いつの間にか百日紅の脇にヒカルが立っていた。私は、あっと声をあげる。
「何してるの」
ヒカルが穏やかに笑いながら尋ねてきた。
この世の全てを照らし出すように生き生きと輝く陽光に晒されたヒカルの姿は、その光におよそ似つかわしくない存在であることがひと目でわかる。
日に透ける白い髪、白い腕、白い首筋。恐ろしいほどに美しい彼を前にごくりと唾を飲む。
「絵を……百日紅を描いてる」
「百日紅を? どうして?」
「えっと……。そうだ、ヒカル。そこに立っててよ」
ヒカルの質問には答えなかった。暁のことを話してよいものかどうか悩んでいたからだ。
「ええ? モデルってこと?」
困惑した様子でこちらを見やるヒカル。下がった眉尻が愛らしい、と思う。
私は再び絵に視線を戻した。私の画力で彼を描くことが出来るだろうか。描けなくても描かなくては。今にも消えてしまいそうな、儚い彼を描き留めておかなければ。彼は今もここにいる。そう、絵に叫ばせるのだ。
「…………り。ねえ、灯里」
絵が完成に差し掛かった頃、ヒカルの声で現実に呼び戻された。えっ、と小さく喉から声が漏れる。
「ねえ、そろそろいいでしょ? もう疲れちゃった」
ヒカルはぐっと両手を上に挙げて伸びをした後、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「ご、ごめん。夢中で」
「ぼくにも肖像権てものがあるからね。描かせたお礼に教えてよ。何で百日紅やぼくの絵を描いてるの?」
いたずらっぽく笑う彼の表情に、私は逡巡した。本当のことを言うべきだろうか。汗が額を伝い、ヒカルの透き通ったガラス玉のような茶色い瞳が私をまっすぐ見つめる。心の底まで見渡すような、澄んだ瞳。その実直な眼差しに、嘘はつけないと観念した。
「あ……暁ちゃんに会ったの」
空気が一変する。
「暁に……?」
聞くのが怖いのだろうか、ヒカルの声が震えるように上擦っている。
「暁は……生きてるの……?」
私は黙って首を横に振った。
「それじゃ……暁は……」
弱々しく呟くヒカルの伏せた睫毛の先に、小さくきらりと光る粒が見える。
しまった。そう、私は思ったがもう引き返せない。
「暁ちゃんは、たぶんヒカルのことを探してる。でもどうしてか覚えてないの。だから思い出してもらう為に、百日紅とヒカルの絵を描いてた」
必死に早口で続けたこの返答が正解なのかはわからない。けれど、私は正直に話すことしかできなかった。
ヒカルの睫毛の先にぶら下がっていた光の粒が、ぽつりと地面に落ちる。そしてそれはすぐに地面に吸い込まれ、小さな染みを残した。その小さな染みの上に、ぽつり、またぽつりと光の粒が落ち、染みを広げていく。
ああ、悲しみが広がっていくようだ――。それと同時に私の胸を罪悪感がじわじわと侵食していく。
「そうか、暁もぼくのこと覚えていないんだね……」
ヒカルは悲哀に満ちた表情で笑うと、ふらりと歩き出した。
「ごめん、ぼくあんまり泉から離れられないんだ。戻るね」
「あ……! 待って!」
すぐにヒカルを追い掛ける。しかし、小道に入るとその姿は――幽霊のように――忽然と消えていた。




