表と裏と、その中間
第3章
週明けの月曜日の昼休み、僕たちはいつもの裏庭に来ていた。
「あんまり期待しないでくださいね。」
不安を隠せないといった表情のまま広げたお弁当を見て、思わず驚かずにはいられなかった。
きんぴらごぼうやほうれん草の胡麻和えなど、野菜類もしっかり取り入れながら、主催にハンバーグをチョイスするあたり、男心をちゃんと理解している。
「…本当に食べていいの?」
「は、はい。もちろんですっ。」
手料理を振る舞うのは、きっと誰だって緊張するだろう。
僕も先日コーヒーを振る舞った時は、自分が変になるくらい緊張したことを覚えている。
「い、いただきます。」
「…っ。」
「…。」
「ど、どうでしょうか。」
「スゲー美味い。」
「本当ですか、よかったです。」
心底ホッとした様子で胸をなでおろしている。
これは数日頑張ったくらいでは到底できない、基本の上にしっかりと応用を利かせられている、完璧な味付けだ。
「これ…、凄いな…。」
「そんなに大したことはしてないですよ。」
「本当に毎日作ってくれるの?」
「はいっ!」
ひょっとして、いや、ひょっとしなくても僕はものすごく幸せ者なのではないだろうか。
ご飯も粒が立っていて炊き立てのような美味しさで、非の打ち所のない完璧なお弁当だった。
「ごちそうさまでした。」
「お粗末様でした。」
それでは次は僕の番だ。
今日のブレンドは、先日飲んでもらったときに美味しいと言ってくれたブレンドをベースにして、スッキリとしていて飲みやすさに特化したブレンドにしてみた。
「はい、どーぞ。」
「いただきます。」
(どうだろう、上手にできたはずなんだけど…。)
「美味しい…。もしかして、先日店員さんにおすすめされた豆を使いましたか?」
「…よく分かったね。」
「すみません、少し調べただけの、ただの当てずっぽうです。」
「へえ、調べたんだ。」
「祥太郎さんが好きなものは、私も知っておきたいので。」
「なるほど…。」
飲んでくれるだけでも嬉しいのに…と、心がとっても暖かいなにかに包まれる感じがした。
「まだまだ未熟な知識ですけど、祥太郎さんが作ってくれるコーヒーだったらいつでも飲みたいって思ってます。」
(これはまた嬉しいことを言ってくれるな。)
きっと僕は、こういう人に出会いたかったのかもしれない。
「僕も料理のこと、調べてみようかな。」
「えっ…。」
「へ?」
一気に未来の顔が暗くなってしまった。
なにか悪いことを言ってしまったかと思って急いで思い返してみたが、そのようなことを言った記憶が見当たらない。
「しょ、祥太郎さんのご飯は私が作るので、大丈夫ですっ!」
(そういうことか。)
未来が考えている意図で言ったことではないにしろ、文脈を気にしなかった僕が悪かった。
「二人で一緒に料理ができたらいいなって思ったんだ。誤解を与える言い方しちゃってごめんね。」
「あ…。す、すみませんっ。とんだ勘違いをしてしまいました。」
実家にいた頃も、誰かと一緒に料理を作ったことはなかったから、少しだけ憧れがある。
食べてくれるのは妹と…、実はあともう一人いたのだが、そいつとは上京してから一度も連絡をとっていない。
正確に言うと、そいつからの連絡は度々きているが、無視し続けている。
決して嫌いなやつではないのだが…。
その後はチャイムが鳴るまで、二人でわいわい離しながら楽しく過ごした。
「やっぱり楽しい時間ってあっという間ですね。」
「そうだね。クラスの人とはどう?」
「実は近くの席の人が話しかけてくれたんです。その人とは、もしかしたらお友達になれるかもしれないです。」
「へえ、よかったじゃん!」
「はいっ。」
取り巻いていた心配事の一つが、解決に向かっているようで少しだけホッとした。
これは先生にもいい報告ができそうだと思ったその時、
「ああ、やっぱりここにいたか。」
「え?」
後ろを振り返ると、担任の先生が軽く息を切らしながら立っていた。
どうやら僕のことを探していたらしい。
「一ノ瀬さん、学校生活はどうかな。少しは慣れた?」
「は、はい…。祥太郎さんがいてくれるので。」
すると先生はニヤニヤしながら僕のことを見てきた。
「名前呼びか。頼りにされてんだな、浦瀬。」
「は、はあ。」
そういわれると恥ずかしくなるから、できればやめてほしい。
「そんな二人の時間を邪魔してしまって悪いんだが、浦瀬。次の授業、抜け出してくれないか。」
「え、どういう意味ですか?」
「次の授業は数学だろ。お前、数学の成績よかったよな。」
「いや…、まあ赤点をとったことは無いですが…。」
「そうだったよな。数学の先生には話を通してあるから、ちょっと俺と一緒に学校の会議に出 席してほしいんだ。」
「え、なんで僕が…。あっ、分かりました。出席します。」
「祥太郎さん…。」
「心配しないで。もし授業が終わっても戻ってこなかったら、先に帰ってていいからね。」
「はい、分かりました…。」
おそらく会議というのは、未来のことに関係があるのだろう。
そうでなければ、学校の会議なんてものに、僕を含め生徒が呼ばれるはずがないからだ。
僕は先生と一緒に、大会議室という異様な雰囲気を醸し出している部屋に入った。
先生から、サラッと理事長も出席する会議だと聞かされたときは、さすがに自分の身の安全を案じてしまった。
入学式でお見かけした依頼だから、否応なしにでも緊張してしまう。
数パーセントだけ存在している好奇心を胸に、会議に臨んだ。
のだが…。
(なんだこりゃ…。)
思わず頭を抱えてしまった。
社会経験が皆無な僕でも容易に理解することができる。
これは、ダメなタイプの会議だ。
理事長が言っていることに誰も口を出せていない。
しかも副理事長など、学校の経営を担う中核の人物は、理事長の親族で構成されているようだ。
(典型的な一族経営だったというわけか。)
別に一族経営が悪いと思っているわけではないのだが、これは良くない。
先生たちが完全に委縮してしまっている。
僕の担任の先生だって、決して例外ではなかった。
さて気を取り直して、この会議にかけられた議題は大きく分けて三つある。それぞれを箇条書きで記すと、
・男女共学になったことに対する、保護者からの反応
・共学に伴う校内設備の見直し
・性的少数者が入学をしたことについて
といった内容だ。
まず男女共学になったことに対する保護者の反応だが、肯定的な意見と否定的な意見が二分されていて、割合はそれぞれ半々といったところのようだ。
肯定的な意見としては、社会に出たらまずほとんどの職場で男女が共に働くだろうし、今からそれに慣れておくほうがいいという意見や、多角的な考え方などこれからの社会で必要となるスキルの多くは、未成年のうちから触れておくことが重要だ、といった内容が多いらしい。
反対派の意見は、今まで積み上げてきた伝統が無くなってしまうのではないか、とか、女子学生に特化した授業や環境づくりができなくなり、進学に支障が出てしまうのではないか、といった意見が散見された。
他にも細かな意見が多数あるが、全て挙げるときりがないので、割愛させてもらう。
さて、今はこの議題について会議(?)をしているようなのだが、どうやら理事長は、前者側に立ちつつ心のうちでは後者を支持しているようだった。
(おかしいな。意外と曖昧なんだな。)
確かに伝統を重んじる姿勢が大切なのは理解できるが、あまりにも継続することに注力してしまうと、その先に待つのは衰退だと、何かの本で読んだ気がする。
しかし…、もしこれが理事長の本心だとすると、なぜ共学にすることを許可して舵を切ったのか疑問に思ってしまったが、不覚にも答えは明瞭で簡単なものだった。
厚意にしてもらっている、国会議員からの提案だったからだ。
その国会議員は、与党の有名な議員で誰もが名前を知っている人物だ。
その議員から、共学にする代わりに特別な補助金の支給と、文部科学省の特設ページに名前を載せるという、特典ともいえる内容を提示されたらしい。
(ずぶずぶじゃねーかよおい…)
つまり僕たちが入学できたのは、そういうどうしようもない理由のおかげというわけだ。
ここで一つ理事長から質問が出た。
「男子生徒の割合を増やすべきか」と。
多くの先生が、現状の割合でいいと言って理事長に歩調を合わせようとしている。
(いやいやいや、あんたら僕らの普段の様子を見ていないのか?)
会議が始まってまだ十分くらいしか経っていないのだが、あまりにも会議の体をなしていない現状に、なんか…、キレそうになってきた。
その時、僕の存在を思い出したのか、理事長が話を振ってきた。
「君はどう感じている?」
「分かってるだろうな」といった表情の先生たちが、僕のほうを注視してきたが、そんなことに構ってはいられなかった。
「僕は、男子生徒と女子生徒との割合を、可能な限り同程度にすべきだと考えます。」
会議室内が凍り付いたのを感じたが、後には引かなかった。
「僭越ですが、理由を説明いたします。この学校のホームページに【男女平等に向けた先進的な取り組み】と明記されています。しかし現在の男女比では、その理念が形骸化してしまっているように感じています。僕たち男子生徒は、教室内に居場所がありません。昼食は各々、人気のない場所でひっそりと食べています。教室内は女子生徒だけの空間がいいと思っている生徒が、多数いるからです。しかし先ほどの保護者様からのご意見の一つのとおり、社会に出たら男性も女性も入り混じった空間で生活をすることになると思います。もしその保護者様のご意見が的を射たものだとした場合、今の状況ではあまりにも不足しています。平等とは何かを説明する際に、生徒みんなが他人事だと感じてしまう状況は、なるべく早急に修正をしたほうが、結果として支持を得られやすいと、僕は考えています。伝統ももちろん大切だと理解しております。しかし経営方針を変えたとしても、そこからまた新しい、立派な伝統が生まれるのではないでしょうか。これが国からの指示というのなら、尚更だと感じています。以上です。」
会場が沈黙してしまった。
(まずい。捲し立てすぎた…。)
出過ぎた真似をしてしまった自分に後悔したが、
「君みたいに自分が考えていることをしっかりと伝えてくれる生徒は、今までいなかった。とても考えさせられる意見だ。ぜひ参考にさせてもらうよ。」
と理事長に言われて、少しホッとした。
しかし過度に信用するのは禁物だ。
少なくとも…、自意識過剰なことを言うが、僕がこの場にいなかったらこの議題は理事長の考え一つで「現状維持でいい」となって、本質に触れることなく流れてしまっただろうから。
しかし、結論は出なかった。
それでも検討中という枠の中に入れることができたということは、長々と意見をしてしまった自分も、間違えてはいなかったのだと思った。
「それでは他に意見のあるものがいなければ、二つ目の議題に入ることにする。男子生徒が入学したことに関して、校内のどの設備を見直したらいいか。これに関して意見のある先生方はいるか?」
またもやの沈黙。
(え、これって簡単な議題じゃないのか?なんでだれも提案しないんだ?)
これに関しては、意見をしたところで理事長の機嫌を損ねたりするようなことにはならないと思うのだが、先生たちの殆どが、明らかに理事長と目を合わせようとしていない。
「意見がないとは…、なんとも情けない。君、浦瀬祥太郎くんといったか。君のような貴重な男子生徒の意見を聞かせてくれないか。」
(貴重な…というか、まあ、そう思われるのも無理はないか。)
このような状態になった以上、間違いなく僕に火の粉が飛んでくると確信していた。
ここは付け焼き刃の意見だとしても、このチャンスを逃すわけにはいけない。
「承知いたしました。それでは僭越ながらご提案いたします。まず早急に対処していただきたいのが、男子生徒用のトイレと更衣室です。現在は教職員の方々や来賓者様の設備を間借りさせていただいていますが、それは本校舎の西側にしかなく、特に東側の端のほうにある教室へ移動するときなどにとても不便です。あと、できたら体育館にも男子生徒用のトイレがあったらいいなと思っています。少しでも授業時間が延びると、かなりの確率で次の授業に間に合いません。それで先生にいくら事情を説明しても、遅刻は遅刻だからという理由で、授業遅刻の記録を残されてしまいます。これは先ほどの男女平等の話ともつながる部分があると感じます。ですので、これに関してはなるべく早くご対応していただけると、とても嬉しく感じます。以上です。」
「ふむ…。それは私も感じているのだがな。本校舎も今年で築五十年になる老朽化した建物で、本来なら君たちが入学する前に工事に着手して、終わらせる予定だったんだ。しかし内部の設備が古くて、特に下水道の配管を繋ぎ変える作業が難航している状況なんだ。だから、本当に申し訳ないがもう少しだけ待ってくれないか。」
「承知いたしました。ありがとうございます。」
(………。)
会議が始まったときはもっと意見が通らないと思っていたのだが、意外なほどに意見を肯定的に受け止めてくれている気がする。
まあ、これが理事長の本心かどうかは別問題だが。
「それでは最後の議題だが…、まず私から聞きたいことがある。性的少数者の転入許可したのは誰だ?」
(ん、今の言い方はどういう意味だ?)
またもや凍り付く会議室。
しかし今回ばかりは違った。
皆心の底から叱責を恐れているような、そんな表情をしている。
「私に報告をせず、転入を許したのは誰かと聞いているんだ。」
さっきまで落ち着いて話していた理事長が、ドスの利いた声を会議室内に轟かせた。
(ああ。きっとこの議題が、今回の会議で一番重要な議題に違いないな。)
直感でそう確信した。
そして今、まさに未来が槍玉に挙げられている。
僕がこの会議に呼ばれた一番の理由が、幕を開けた。
「先程もそうだが、この議題にも誰も意見が無いのだな。何とも情けない…。浦瀬くん、君はその生徒と同じクラスなんだろう。学校生活ではその生徒の世話係と聞いている。どうだ、やっぱり大変だろう。」
(なるほど…。)
これは誤解ではない。思い込みと偏見だ。
「それでは僭越ながら私の主観的な意見を述べさせていただきます。まず最初に、その生徒はトランスジェンダーという【特性】を持っています。」
「特性とは、どういうことだ。」
「障害というのは、当事者が日常生活において不都合を感じている場合に、医師より診断されるものだと、私は考えます。そして、恐らく理事長や先生方、学校運営関係者の皆様は、一ノ瀬さんのことを、性同一性障碍であるとお考えかもしれません。私の方からも質問をさせてください。一ノ瀬さんは自身のことを、性同一性障碍であると明言していましたでしょうか?」
会議室にいる全員が、「どういうことだ?」といった表情で固まっている。
(ビンゴだ。これは僕が休日に立てた仮説が、これからの僕の説明次第では立証できるに違いない。)
「現在では、性的少数者…、セクシャルマイノリティと表現されることがありますが、これに該当する方を取り巻く状況が、日々少しずつ変わり続けているのをご存知でしょうか?特に該当する方の呼称が、昔と比べてとても細分化されています。性同一性障碍も、性別違和という表現に移り変わろうとしています。」
「ちょっとまってくれ、浦瀬くん。」
一気に言い過ぎたか?と思ったが間違えたことは言っていない。
「確かに一ノ瀬くんからは、性別違和…だったか?そういうことは言われていない。しかし、トランスジェンダーという言葉の意味を考えると、ほとんど同じ意味のように思えてしまうのだが…、この考えは『間違えている』のか?」
そういうことか、と思った。
僕もこの問題は、ある程度調べて初めて気がつけたことだ。
理事長の言葉や考えから考察すると、きっと過去の自分が見てきた世界や経験則から答えを導き出そうとしているに違いない。
それが悪いことではないのだが、少なくともこの問題に関しては、新しく知識を仕入れない限り解決することはできないだろう。
「正確にお答えできるほど、私自身も考えがまとまっているわけではございません。しかし、一つだけはっきりと分かることは、一ノ瀬さんが抱えているのは、障碍ではなく特性である、ということです。障碍の定義としては、本人ではなく第三者…、例えば医療機関やその他の専門知識を持った公的機関などの第三者が判断し、場合によっては障害者手帳を交付するなどして、認定をします。」
完全に自分の立場から逸脱していることは分かっている。
理事長も、一生徒からここまで意見されるとは思ってもいなかっただろう。
しかしこの議題に関しては、僕は後に引くようなことは絶対にしたくなかった。
「先程、性同一性障碍という呼称は、現在では性別違和という表現に切り替わりつつあると言いました。その理由は、他の障碍とは少しだけ違う背景があるからだと、私は考えます。」
理事長だけでなく、会議室にいる人全員が僕のことを注視している。
つかみは完全に成功した。
「私も先日知り得たことなのですが、性別違和はトランスジェンダーという枠組みの中に存在しています。そしてトランスジェンダーとの違いは、外科的治療を望むか否か、という患者の意志があるかどうかが判断基準になっているようです。そこで先程の障碍の定義を思い出してください。決定的に違うことがあります。」
「うーむ…。」
理事長が唸りながら考えている。
「分からない。障碍は障碍として、一括に考えるのは間違えているのか?」
「いえ、必ずしもそうとは限りません。私の考察も交えながら話ますが、障碍と確立されているものは、その認定のための決定権を、第三者からの判断に委ねられます。しかし性別違和は、本人が治療をしてほしいと意思表示をすることで、その枠組の中に分類されます。ここが決定的に違うところだと、私は考えます。」
すると、なるほどといった表情で理事長は、
「ということはすなわち、性別違和かどうかは専門知識も何も持ち合わせていない我々が使ってはいけないことなのか?」
自分も専門知識をもっているわけではございませんが、と前置きをしたうえで…、
「使ってはいけないというわけではございませんが、今回の場合一ノ瀬さんはトランスジェンダーという言い方が最も適切かと思います。」
「なるほど…。」
理事長はそう口にしたが、周囲の大人たちを見てみると、驚きを隠せないといった表情で、先程と同様に固まってしまっていた。
担任の先生でさえも、驚きを隠せない様子だった。
(いや、あなたには僕が書いた考察の文書を事前に渡したでしょう。)
きっと僕のことを呼んだ理由も、それを見ていたからに違いない。
「しかし…、そうなると一つだけ疑問が生じる。私達も、解釈こそ間違えてしまっていたが、障碍でないとすると、想定していた特別な配慮がさらに難しくなってしまう。実は私が一ノ瀬くんをの転入を許したことを問い詰めたのも、色々と難しい部分があったからなのだ。そこのところ、君の意見があれば聞かせてくれ。」
(よしっ。)
未来の抱えているものが特性であるということは、認知してもらえたと思っていいだろう。
第二フェーズに突入した。
「もし難しい場合でしたら、ここに参加されている皆様が一ノ瀬さんになったとして、必要となることはなんだろう?と考えてみるのが、簡単な方法かと思います。」
「君も、そうやって考えたのか?」
「もちろんです。しかし、それでもなかなか難解な部分はありましたが、分かったことがあります。一ノ瀬さんは、常に自分がどのような人間でどのように学校生活を送ればいいのか、絶えず揺れ動く足元に挫けそうになりながらも、懸命に考え実行しています。まだ出会って間もないですが、校内で一番一ノ瀬さんをそばで見てきた身として、痛いほどに伝わってきました。」
きっとここが山場となるだろう。
慎重に言葉を選んで…、それでも絶対に濁した表現にはせずに、絶対に現状を打開できる糸口を作り出すと心に決めている。
「決して解決策にはならないと思いますし、これは本人に確認をしたわけではありません。よって今から述べることは、完全に私見となります。」
それでもいいというように、理事長は深く頷いた。
「先程、男子トイレの整備を要望いたしました。そのうちの幾つかを、個室のみのトイレにすることは可能でしょうか。」
意外なことを言っている自覚はあるし、理事長も目が点になってしまっている。
「えー…、私としてはバリアフリートイレを整備したほうがいいと思ったのだが、君の意見のほうが正しいのかね?」
よしっ、と思った。
理事長がそのような配慮を検討していることを聞き出すことができた。
「そうですね。私もそれが正解だと思います。」
「…どういうことだね。」
「配管工事の遅れで、私達のトイレの整備が遅れていると、先程お聞きしました。そのような状況ですぐにバリアフリートイレを整備することは可能なのでしょうか?」
一瞬僕の言ったことを直球で受け取ったような表情をした理事長だったが、ここは流石というべきか、僕の言いたいことをすぐに察してくれた。
「繋ぎの対応、ということか。」
「はい。」
それに、個室のみのトイレはすでに他の学校での前例があるし、幾つか他の利点が存在する。
男子でも、小便器で用をたすことに抵抗感がある人がいる。
そして大きなアドバンテージが、それに起因するいじめが減ることが期待される。
「君も使ってみたいと思うかね?」
「使ってみたい、というよりは…。学校のトイレは、扉を開けると用をたしているところが見えてしまうので、すべてをそうしてほしいとは思いませんが、可能な部分から選択肢を増やしていくことが、解決の糸口になると思っています。」
「…なるほど。」
「一ノ瀬さん個人に対する配慮を考えると、どうしても他の生徒達は他人事のほうに感じてしまうと思います。自分の人生に当てはめて考えることができないからです。ですので、学校生活を送る全員を視野に入れた追加や改善をすることで、一人一人がバリアフリーを意識するきっかけになると考えます。」
数秒間の沈黙。
他にも配慮をしたほうがいい項目は幾つもあるが、今日はこれだけ伝えられれば十分だと思った。
これ以上意見をすることは、流石に気合と勢いだけでは難しいし、出席者からの反感を買いかねない。
「浦瀬くん。」
「は、はい。」
理事長は、なにか言葉を選んでいる…、いや、適切な言葉を探しているように見える。
(………。)
この沈黙は…、緊張する。
「とても素晴らしい意見だった。まさか生徒である君にここまで納得できることを言われるとは思っていなかった。それでだ、すでに下校時刻を過ぎてしまっている中申し訳ないのだが、もう一つだけ、相談してもいいだろうか。」
「はい。私なんかでよろしければ…。」
相談、と言われると少し緊張してしまう。
何事かと思って少しだけ身構えていると、
「今週の土曜日に、保護者説明会が開催される。私の独断になってしまうのだが、君も出席していただくことはできないだろうか。」
「ぼ、僕がですか?」
「ああ。私は君の伝えたいことは、とても理解ができることばかりだ。今日君が言ってくれたことを、共学や障碍者を入学させることに反対している保護者に伝えてもらえないだろうか。君その説得力のある考えの力を借りたい、お願いできないだろうか。」
理事長から「力を借りたい」と言われるとは…、流石に僕も想定をしていなかったため、とても驚いた。
(こんなことってあるんだな…。)
開いた口をふさぐのに時間がかかったが、ここの学校に通っている生徒の親は、会社の社長や役員、国会議員の割合が非常に多い。
偏見かもしれないが、きっと学校側に無理難題を押し付けてくる人もいる気がするから、これが本当のことだとすると、理事長も手を焼くに違いない。
…ワンマンな経営をやめれば、もっとここにいる先生たちも協力してくれると思うが、こんなことは口が裂けても言えないし、僕の心のなかではすでに答えは決まっている。
「承知いたしました。その説明会に出席いたします。」
「本当か、ありがたい。」
心の底から安堵しているあたり、僕が考えていることに間違いないのだろう。
「り、理事長。」
か細く口を開いたのは、担任の先生だった。
横目でチラチラと見ていたが、終始とてもハラハラしている様子だったので、きっと言うことは決まっている。
「なんだ。」
「この一件で、その…浦瀬の進路などに影響はないのでしょうか。」
「それなら安心しろ。最大限の配慮をする。」
「は、はい。申し訳ございませんでした。」
周囲の教師を見ても、基本的に委縮してしまっている。
きっと普段の理事長は、もっと厳しい方なんだろう。
(期待にこたえられるように頑張らないと。)
「それでは他に議題が無ければ、本日の会議は終了とする。」
「ごめんな、こんなことになってしまって…。」
「別に僕はいいんですけど…そもそも会議に呼ばれた理由って、先生にお渡しした意見書が関係しているのですか?」
「いや、直接的な理由はほかにあるんだ…」
(…なんだ?)
周囲を確認した先生は、すごく申し訳なさそうに話を切り出した。
「他のクラスの教師が、浦瀬と一ノ瀬さんがよく一緒にいるのを目撃していてな。それをどうも理事長に内密に報告したらしいんだ。理事長の肩を持つ職員たちからしたら、この一件に限らず、こういうことは日常的に行われているそうでな。」
「理事長からすると転入は反対でしたから、それに歩幅を合わせようとする職員の…、悪く言えば内部通報、みたいな感じでしょうか。」
「もはやそれに近い状態にまでなってきている。我々教師も毎年入れ替わりが多いんだが、その半分以上がくだらない内部通報によるものなんだ。」
「ドロドロじゃないですか。お互い監視しあってる、みたいな。」
「本当にその通りなんだよ。伝統なんて名ばかりで、ここで働いている職員のほとんどは、誇りなんて持てるような状況じゃないんだ。」
「…。」
なんかとんでもない部分に加担してしまっているのではと不安になってしまったが、理事長の言葉を信じて、今は情報を集めて整理しておく必要がある。
先生と別れ帰路についたのは、午後七時をまわったころだった。
先生は、「明日もし辛かったら、休んでもいいからな。公休扱いにしておくから。」と言ってくれた。
(まあ、学校を休んだとしても、情報を集めないといけないから気を休める時間はないだろう。)
とりあえず早く帰ろうと思って校門を出たとき、ふと違和感を感じて校門右側に目を向けた。
「未来…!」
そこには校門を背もたれにして立っていた、未来がいた。
「あっ、祥太郎さん!」
そう言って駆け寄ってきた未来は、不安と心配が入り混じった…、そんな表情になっていた。
「未来、待ってくれるのは嬉しいけど、連絡先交換しただろ。今度から連絡を入れてくれ。」
「だって…、心配だったんですもん。ご出席した会議って、私に関係することですよね?」
その推測は当たっているし、誤魔化そうとかそんなことは思わない。
そう思った僕は、優しく抱きしめていた。
「心配かけてごめん。大丈夫だから。」
「…はい。」
涙声になっている。
「ごめんな。」
「私こそ、ごめんなさい…。」
それからしばらく沈黙が流れていたが、バスが来たため慌ててバス停まで走った。
今はラッシュの過ぎた、空いているバスの車内。
僕の腕をしっかり抱きしめてくる未来は、何を言うこともなく、「離れたくない」という無言のテレパシーを送ってくる。
(未来の手前ちょっと格好つけちゃったけど、やっぱり疲れた…。体が重い。)
理事長から目の敵にされなかっただけよかったのだが、問題は担任の先生が言っていた、互いに監視しあっているという部分。
先生のみならず生徒のことも監視しているというのは、明らかに先生としての職権を逸脱した行為であって、断じて許されることではないはずだ。
(これをどうも理事長が黙認してるみたいだし、学校内では詮索をしたり調べ物をしたり、そういうことをするのはやめておこう。)
会議をしている限りでは、ある程度理事長の懐に入ることができたはずだ。
しかしそれは、裏を返せば理事長のみならず、先程先生に教えてもらった内部通報のターゲットになったことは、信じたくないが明らかだ。
「祥太郎さん、今週末って空いてますか?」
バスを降りるなり、未来にそう聞かれた。
土曜日は例の総会があり、日曜日で、恐らく総会で言われたことや感じたことを、整理したりさらに調べなおしたりする時間が必要になってくる。
「ごめん、今週末はちょっと忙しいかもしれない。」
「そうですか…。」
露骨に落胆してしまった未来の頭を、クシャっと撫でてあげた。
「ごめんね。今週末だけだから。お昼休みにたくさんお話ししてあげるから、今回だけ我慢してくれる?」
「…はい!」
元気の戻った未来を自宅マンションまで送った僕は、気を引き締めなおして急いで家に帰った。
速足で歩くこと十分、自宅に帰ってすぐにパソコンで調べ物をしたかったが、コーヒーを淹れるというルーティーンは、守ることにした。
少しでも心を落ち着かせたかったからだ。
自分好みの苦みの強いブレンドを淹れて、実家にいたときから愛用しているゲーミングチェアに腰かけた。
まず調べないといけないのは…、
「男女共学のメリット」と。
(…………………………。)
「なるほど。確かにそうだったかもしれない。」
今まで意識しなかったが、難関大学に合格する生徒の多い高校は、基本的に男女別学が多いことに気が付いた。
そして驚いたのが、女子の場合は別学のほうがメリットが多いことだった。
「となると、結城高校は女子高のままのほうが良かったのか?」
共学校のメリットとしては、やはりというか、実社会に近い環境で生活することができる、という点が挙げられていた。
おそらく文部科学省としてはそっちに重きを置こうとしているのだろう。
共学だと男女で偏った区別が生じやすいという記述もあったが、これはどちらかというと生徒自身の問題で、共学だからどうのこうのといった話ではない気がする。
(うーん、難しいな。一応理事長を含め、学校側に立たないといけないから、共学のメリットを洗い出さないといけない。)
しかし調べていくうちに、共学のデメリットな部分は生徒自身の意識や考え方、モチベーションに起因する部分が多いことに気が付いた。
また、例えば男女それぞれに特化した授業をという意見もあるが、結城学園で考えると、男子生徒が増えてきたらその授業の割合を『段階的』に減らしていけば、十代の学生だったらそこまで苦労せずに適応していくと思っている。
しかし僕が本当に必要とされているのは、この話題ではない。
(セクシャルマイノリティ、と)
このご時世…という表現が正しいかどうかは別として、やはり自治体ごとに様々な取り組みが行われている。
例えば僕と未来が住んでいる地域でも、定期的にセミナーが行われている。
「当日は今日以前に色々な意見が飛び交うだろうし、どうやって伝えたらいいんだろう。」
とりあえず、未来の抱えている特性は、病気ではないということ。
あくまでも一説であり研究段階という大前提があるが、その特性はお母さんのおなかの中にいるときの、お母さん自身のホルモンバランスに起因するという研究結果も見つけることができた。
そのときに、男性の脳になるか女性の脳になるか左右されるらしい。
(つまり…、体の性は父親の精子に含まれる遺伝子によって決まり、心の性はお母さんのおなかの中にいるときに決まるということか。)
そしてその人のことを、広域で分類するのならセクシャルマイノリティ、絶対的な対象からは外れているが、本人が治療を望んでいる場合は、性別違和もしくは性同一性障碍となる、のだろうか?
調べれば調べるほどに興味深い記事がたくさん見つかるが、あまり突っ走りすぎるのもよくない。
気分を落ち着かせようと入浴した後、軽くご飯を食べて寝ることにした。