40・ 眠れる長椅子の妻
夜半、ジュールは寝台の上で目覚めた。
寝支度を終えた妻が寝室に入って来るのに不便がないようにと思い、寝台脇のローチェストの上に置いた常夜灯代わりのランタンの蝋燭は、まだ燃え尽きずに残ったままだった。
寝台の端を使うと言ったはずの妻は居ない。
結婚してからずっと居室を分けて生活していたせいで、今まで寝台を共有するどころか妻の素顔を見た事すらなかった。
常に妻の化粧は控えめだが、それでも体を重ねた事もない夫に素顔を見られたくはないだろうと、敢えて先に寝る事にしたというのに。
どうあっても自分とは一緒に眠りたくなかったのだとも考えられるが、おそらくそうではない。
これまで接してきたからわかる。おそらく妻は、こちらを気遣って寝台を譲ってくれたのだ。
ジュールは小さく息を吐き、寝台を降りて室内履きにつま先を入れた。
ローチェストの上のランタンを手にして、ゆっくりと隣室へつながる扉へと歩く。
極力音を立てないようそっと扉を開け、開け放ったままにして居室に入った。
ソファへ向かうと、思った通りフロリアはそこにいる。
どこから持ってきたのか、寝室の物ではない寝具に包まって、ソファに置かれたクッションを枕代わりに眠っている。
華奢で背の低い妻はそうして丸まっていると、実年齢よりも幼く見える。今は無防備な寝顔だから、余計にそう感じるのかもしれないが。
少しの間その寝顔を眺めて、薄く苦笑する。
日頃物静かな女だが、反面その細い体のどこにそれだけの活力を秘めているのかと思わせるほどに活動的だ。
支領の邸に嫁いで来てからずっと、自分は満足に相手もしてやらなかったと言うのに、服を作ったり手直ししたり、時には楽し気に庭を散策しているかと思えば、セバスティアン経由で調理人に食事の感想を言っていたりする。前衛芸術だと言うフロリアの絵を初めて見た時は驚いたが、それも彼女の生活の一部に過ぎない。
こちらが構ってやらずとも自分一人でも楽しい事を見つけ、日々の生活を楽しんでいた。
これが母ならば、父に不満をぶつけるばかりで、最悪は生家に帰ってしまうのだろうと言う事は容易に想像がつく。
幼い頃、まだ自家の懐具合に余裕があった頃、母は頻繁に茶会を開いていた。
そこに集まる婦人たちは目一杯着飾って淑女然としているくせに、口を開けば扇の下で夫や生活の不満を垂れ流し、誰かを貶めるような事を嬉々として言い合っていた。
女性だけの社交の世界では、身に着けた物で相手の価値を計り、心にもない不満を口にして同調するふりをする。子供時分にはわからなかったが、大人になった今それが分かるようになった。そうやって相手より優位に立とうとするのだ。母は、そんな閉じられた世界で承認欲求を満たす事に躍起になっていた。
そんな女性達を見て育ったから、いつしか多少の違いはあっても貴族女性とはみな似たようなものだと決めつけてしまっていた。嫌悪感ばかりが募って、女性との恋はおろか結婚など考えられなかったと言うのに。
だが、もう妻から逃げるのはやめると決めた。これから長い生涯を共にしてゆく女性なのだ。
今はまだこうして気を遣わせてしまうけれど、少しずつこの距離が縮まれば良いと思う。
ジュールは決意するように一瞬瞼を閉じてから、手にしたランタンをローテーブルの上に置いた。
ソファとフロリアの体の隙間に手を差し込み、寝具ごと妻を抱きかかえてゆっくりと立ち上がった。
起こさないように気を付けながら寝台まで運び、先ほど自分が抜け出て口を開けた寝具と寝台の隙間に妻を横たえる。妻が包まった寝具を苦戦して外し、寝台の上にあった寝具を掛け直した。
運んでくる時に仰け反ったせいで丸見えになった額に、そっと手櫛で梳いて前髪を元にもどしてやる。
剝ぎ取った寝具を小脇に抱えて再び居室へと向かった。
扉を閉める前にもう一度寝台を振り返り、声を出さずに口を開いた。
「おやすみ、フロリア」




