38・ 討ち入り☆午後九時 撤退厳禁
スフォルの部屋を出た私は、すぐにお父様の部屋を訪ねました。
扉をノックすると、内側から父の声で返答があります。
「お父様、フロリアです。今お時間よろしいですか」
「ああ、大丈夫だ」
部屋の内側に入ると、父は奥にある事務机の席についていました。
そこに近づいて行くと、まだ立ち止まってもいないというのに父は会話を始めます。
娘相手であれば遠慮も儀礼も必要ないですからね。商人である父はせっかちです。時は金なりは習性なのです。
「こんな時間にどうした。ジュール殿が持ってきた事業の件か?」
「ええ、そうです」
机の前で立ち止まってそう返すと、父は楽しむような顔つきをして、ふふん、と皮肉たっぷりに鼻で笑いました。
我が父ながら、こういう所本当に腹が立ちますね。タヌキジジイめ!
「いくらお前が私の娘でも、商いの事に口を出す権利はないぞ。仲睦まじいのは結構な事だが、かいがいしく夫の為に動いても無駄だ」
もー、ほんっとヤダ。そんなの分かってるてば。何年娘やってると思ってるのよ。
スフォルもお父様も私を馬鹿にしすぎ! その無駄にふさふさの髪十円玉大引っこ抜いてやろうかしら。
「何年お父様の娘だったと思ってらっしゃるんですか。そんな事はわざわざ言われなくても分かっています」
そう返すと、お父様は意外だ、とでもいうように驚いた表情を浮かべました。
「では、どうしてここへ来た」
「もちろん、商売の話をしに来たのですよ。バイオン・ブロンセ・フェンネルトの娘としてではなく、ジュール・ヒュリックの妻としてでもなく、ヒュリック家の人間として」
私の言葉に、ようやくお父様は表情を商売人の物へと変えました。
さあ、お父様は私の歌ならぬ提案を聴きなさい……てか、聴く気なくてもぶっ放してやりますよ。
それはもう、ランチャーカタパルト並みに、ええ。
「お父様はもう充分に資産を築かれました。お父様の懸念は、スフォルが後を継いだ時の事ですね? フェンネルト家に与えられた男爵の位は、お父様一代限りの物。長子相続権のある伯以上の位が現状で望めない以上、浮き沈みのある我が家の生業では、スフォルの手腕によっては衰退しかねない。親世代がやり手でも、子世代までそうであるとは限りませんから」
「面白いな……お前、今までそんな素振りは一度も見せなかったくせに、当主のような物言いをする。まぁいい、続けなさい」
「確かにヒュリック家との縁が続く限り、支援という名目で小銭を握らせて王侯貴族への便宜を図らせる事は商いには有効なのでしょう。ですが、それもいつまで続きますか。ヒュリック家の爵位そのものがなくなってしまえば、スフォルの地盤を固めてやることもできなくなります。今、婚家の財務を改善しておかなくては、早晩そうなりますよ、お父様」
「お前に言われずとも、そんな事は百も承知だ。ヒュリック家がダメになれば、帰ってくれば良い。お前が出戻ったとしても、支えてやることくらいできる」
ほんと、馬鹿にしてる。ヒュリック家を利用するために娘を嫁がせておきながら、没落したら帰って来いですって?
いくら女性の地位が低いと言っても、私にも我慢の限度と言うものがあるんですよお父様。
「女は家にとって都合の良い駒でしかない。私も子供じゃありませんから、そんな事は充分承知しています。けれど、ヒュリック家に嫁した以上、私にだってジュール様の妻としての矜持があるのですよ、お父様。……ヒュリック領の支領の小さな儲けにではなく、在り続ける限り永劫残る名前を買って下さいお父様」
「名前を買う、だと?」
「ええ。最初は細々としたものでも、良い物は必ず後世に残って行きます。支領で生産するお酒の名前を買って欲しいのです。バイオン酒でもフェンネルト酒でも、お父様のお好きな名前をお付けになられたらいかがですか」
前世でもそうでしたが、この世界でもお酒には製造された地域の名前が付くのが一般的です。有名なものだと、前世のシャンパンなんかがそうですね。フランスのシャンパーニュ地方の発泡ワインの事のみをシャンパンといいますよね。
私は、この世界ではおそらくまだ誰も試したことのない、ネーミングライツを父への切り札として考えて来ました。
「お父様が欲しいのは名誉と伝統でしょう。爵位を得る事は簡単ではありませんが、新酒の命名権を得る事は簡単です。フェンネルト家の流通網を駆使して販売すれば、その名前は国内全土に知れ渡る。名を残し、歴史を紡いでいく。樽の中で熟成されるように、新酒が育って行く様を、一緒に見守っては頂けませんか、お父様」
私はお父様の瞳をじっと見つめます。
これでダメなら、これ以上何を言っても無駄でしょう。それでも私は確信を持って旦那様と一緒にやってきました。お父様の娘としてではなく、ヒュリック家の人間として。
私は領民を想う旦那様の気持ちも、貴族としての責任感も、嫡男ではなくとも義兄を支えて行くのだとういう決意も信じています。ジュール様は何年かかっても、必ずこの事業を軌道に乗せてみせるでしょう。
不意に、お父様は気を緩めるようにふっと笑いました。
「樽の中で熟成するように、育つ様を見守る、か……シェンナが召された時には小さかったお前も、もう立派な大人になっていたんだな。いいだろう、投資してやる。ただし、販売の独占権はフェンネルト商会が持つ」
お父様の言葉に、ようやく私はホッと胸を撫でおろしました。
歴戦の猛者相手に駆け引きを繰り返してきた大商人です、心臓に悪い。自分の父親じゃなかったら気絶していたかもしれません。
「私がここに来たことは内密でお願いします。命名権と販売独占権については、お父様からの投資条件としてジュール様に話して下さい」
「はは、お前も妻の顔をするようになったんだな。わかった、明日私から話そう」
父の了承も取り付けましたし、そろそろ部屋に戻らないといけませんね。
あまり長い間出ていては、旦那様に怪しまれるかもしれません。
「それではお父様、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
旦那様! 私頑張りましたよ! 抱きしめて、今生の果てまでー!!!!




