34・ アランとジュール
フロリアから領地の経営改革についての提案を受けた三日後、ジュールはヒュリック家の本領へと旅立った。
比較的王都に程近い場所にある本領は、ジュールが管理する支領と違って麦を主体とした穀倉地だ。
フロリアに手渡された書類には、まず始めは支領の主産物であるリンゴを原料とした蒸留酒の製造と販売を軌道に乗せ、それが上手く行きそうなら、本領の麦を原料とした蒸留酒作りを考えてみてはどうかと記されていた。
同じ蒸留酒でも麦を原料にするには、果実同様麦を甘くする工程が必要になってくるらしい。
あの博識なフロリアであっても、その方法は知らないのだという。
どのみち、満足な収益が見込めるようになるまでは、自分の権限の及ぶ支領でできる事をするしかないのだから、そちらは計画が動き出してから追々考えれば良いだろう。
問題は、父と兄を説得する事だ。それが終われば投資を乞う為にフェンネルト男爵に会いに行かなくてはならない。
ジュールはケンの操る馬車の内側で、書類をめくりながら妻の事を考える。
当初は白い結婚を貫いて、持参金と、同額の慰謝料を用意して離縁するつもりだった。
女性を愛せるかどうか自信はなかったし、そんな自分の元に嫁してくる人を幸せにしてやれる気もしなかった。
だが、この書類を手渡された昼下がり、何気なく妻が口にした言葉に己の甘さを痛感する事になったのだ。
――― ヒュリック家の抱える問題は、そんなものでは解消できませんでしょう?
フロリアは物事の本質を正確にとらえている、と実感せずにはいられない。
生家の抱えた問題は、確かに母の浪費がその一端である事は間違いない。
だが、移り変わる時代の変遷に取り残され、根本的な領地運営をおろそかにしてきたツケであることもまた事実なのだ。
今までは領地の財務に多少なりとも余力があったから良い。だが、この先天候不順や作物の伝染病などが原因で収益が落ち込めば、領地経営は破綻するだろう。
そうなってしまえば、王から経営手腕を問われ、爵位の降格あるいは返還を余儀なくされるのは目に見えている。
それは一過性の小さな金儲けなどでは乗り切れない。妻の言ったように、恒久的に安定継続していく産業が必要なのだ。
だが、彼女が考えてくれた案に乗り、計画を推し進めてしまえば、白い結婚どころか手放してやることはできなくなる。
最低でも、軌道に乗せるまで十年は見越す必要があるからだ。
出会った頃に抱いた印象のまま、もっと嫌な女だったら良かったのに。それならば、こんなに心苦しくは思わなかった。
政略結婚である事を言い訳にして、心を閉ざしたままの関係でいられた。
深いため息を吐き、車窓に流れて行く景色を眺めるでもなく瞳に映す。
父の意向を確認するために本邸に向かっているというのに、腹を括ってしまえない自分が情けなかった。
「こんな不甲斐ない男が、本当にフロリアを幸せにしてやれるのか……」
思わずつぶやいてしまったその言葉に、ジュールはさらに打ちのめされる結果となった。
本邸で父と兄を相手に、フロリアの作った書類を見せて伺いを立てると、フェンネルト家が投資してくれるなら構わない、という至極あっさりした答えが返って来た。
領地経営について危機感を抱いていたのは皆同じだったようだが、それに風穴を開けるような確信的な改革案がなかったのが実情だったようだ。
フロリアが作った書類はよくできていて、父も兄も関心しきりだった。
確かに初期投資は必要だが、充分に実現可能な地に足のついた提案だったからだ。
父から、まず支領でできる限りやってみろという許可を取り付けたのが昨日の事だ。
今日は別邸へ帰るのではなく、王都にあるガレスタ家の街邸へと向かっている。
騎士団の第三師団長を勤めているアランは、日頃は管理も兼ねてガレスタ家が所有する街邸に住んでいる。
フロリアの事について腹を括り切れない自分が情けないのは承知しているが、友であるアランに相談したかった。客観的な意見を聞いてみたかったのだ。
前もって約束していたわけではなかったが、今日邸を訪ねる旨の手紙を昨日ヒュリック家本邸の使用人に届けさせておいた。今日が勤務日でも、昼休憩の時間には戻って来るだろう。
王都の商業区域で手土産代わりの茶葉と白パンを買い求め、昼食の時間よりも少し早めにガレスタ家の街邸に到着する。
もしも騎士団から戻って来る事が出来ないのであれば、この時間であれば昼食の時間を外して出直してくることが出来る。
玄関口に出迎えに来た執事に土産を手渡すと、幸いな事にアランは昼食の時間には戻って来ると言い残して出かけて行ったらしい。
通された談話室で供された茶を飲みながら待っていると、正午よりも少し前にアランは帰って来た。
黒い騎士服を身にまとったアランは快活な笑みを浮かべながら談話室に入って来る。
「珍しいなジュール、わざわざ王都まで来てまで話したい事があるなんて」
「忙しいだろうにすまん」
「なに、お前とメシを食う有意義な昼休みになったんだ、気にするな。それに、お前と俺の間に気遣いなどいらんよ」
「ああ、ありがとう」
おう、とアランは頷いて、背後に控えていた執事に脱いだ上着と外した剣帯を手渡した。
二人連れだって居間へと移動して、昼食を食べながら会話を進める。
「で、話ってのは何だ。奥方の事か?」
アランはそう言ってニヤリと笑った。
さすがは付き合いが長いだけはある。こちらの事はなんでもお見通しのようだ。
「ああ……。実は領地改革の話が進んでいてな」
ジュールはそう返し、懐からフロリアの作った書類を取り出して、今までの経緯を簡単に説明した。
「結構な事じゃないか。聞いている限りでは突拍子もない案ではない。実現すればお前の領の経営も盤石になるし、何も問題ないだろう」
「ああ、領地経営についてはな。だが、そうなるとフロリアを縛り付けてしまうことになる。ヒュリック家のために犠牲にするようで気が引けてな」
なるほど、とアランは言葉にはせずに頷いた。
結婚したばかりの頃、奥方を生家に返してやろうと思っている、と言っていたから、この親友はその事を気にしているのだ。
塩漬け豚と野菜の煮込みを口に含み、ジュールが持参してきた白パンをちぎりながら何と言ってやれば良いのか考える。
咀嚼した肉を飲み込んでから、口を開く。
「そう考えているのはお前だけかもしれないぞ。夫人の気持ちを確かめた事はあるのか?」
男装してまで夜会に忍び込む奥方だ。
アランにはこの目の前の友との結婚に、夫人が不満を抱えているようには思えなかった。
まして今聞いた領地の改革案もそうだ。夫と共に乗り越えて行こうという気持ちがないのなら、わざわざ生家を巻き込むような提案などしないだろう。
「いや、それは……好きだと言われた事は……あるんだが」
ジュールは言いにくそうに口にして、耳を赤くした。
色恋に疎いこの友らしい反応だが、いくら何でも初心すぎやしないか。お前は本当に良い年をした男なのか、と問い詰めたくなる気持ちを、アランはぐっと抑える。
内心で、こういうところが箱入りの御令息だよな、と呟く。
「それなら余計に問題はないな。この先は夫人の気持ちどうこうじゃなくて、お前自身の問題だ。夫人の案に乗ると決めたなら、潔く腹を括れ。政略結婚だろうと何だろうと、結婚した事実は消えないんだ。今更、白い結婚を貫いて手放すなどと馬鹿な事は言うなよ? いくらお前が社交界を敬遠しているのだとしても、結婚適齢期を過ぎた女性が婚家から追い出される事の意味が分からないわけじゃないよな?」
アランは幼馴染であり親友である立場を利用して、敢えて明け透けな物言いをした。
そこを突けばジュールが痛いと分かっていて、それでも思った事を誤魔化しはしなかった。
アランの容赦のない指摘に、ジュールは呻くようにぐっと吐息を漏らし、反論できず押し黙る。
「一目惚れは信じないんだろ? ならば、互いに歩み寄って夫婦らしくなって行けば良いさ。夫人の幸せを願うなら、お前の手で幸せにできるように努力すればいい」
そうだろ? と首を傾げたアランに、ジュールは情けない表情を浮かべたまま苦笑した。
「ああ、お前の言う通りだ。本当に、私は男として不甲斐ないな」
「お前の弱音は俺が聞いてやる。その代わり、夫人には男らしい所を見せろ。何のためにその容姿で生まれて来たんだお前、こういう時こそ活用せずいつ活用するんだ」
遠慮のないアランの物言いに、ジュールはげんなりとした表情を向けて目を眇めた。
男らしさと容姿は関係ないだろうと思う。傲慢だとは分かっているが、自分も好き好んでこの容姿に生まれついた訳ではない。
だが、男らしい所を見せる、と言うのには全面的に賛成だ。
アランに話を聞いてもらって、ようやく腹を括る決心が付いた。
「私なりに頑張ってみるよ」
迷いの晴れた心そのままに、ジュールは偽りのない笑顔を親友に晒した。
アランはいつものように、男くさい笑みを浮かべ「おう」と返した。




