帰国
方々への挨拶や準備に追われているうちに、たちまちに一日が過ぎ、出立の朝となった。
一足早く国へと戻ったナーセリ王の後を追うように、大会出場騎士たちを中心とする訪問団も帰国の途に就こうとしていた。
シエラ王への挨拶は前日に済ませていた。
出発までの残された時間を、騎士たちはあてがわれた広間で思い思いに過ごしていた。
出場騎士の中で一番若く、シエラに来るのも今回が初めてのテンバーは、一昨日の宴で仲良くなったのだというシエラ貴族の令嬢が自分を訪ねてきたのを見て、すっかり舞い上がってしまった。
令嬢からシエラの伝統的な武運長久のお守りだという黄色い羽根飾りをもらって有頂天になっているテンバーを呆れ気味に一瞥して、リランが熊のようなずんぐりとした身体を揺すりながらユリウスに近付いてきた。
「まったく。テンバーめ、何をしにこの国に来たのやら」
リランは口を歪めて吐き捨てた。
「大会では、一回戦でシエラの若手に苦も無くひねられておいて、宴で本領を発揮したのか」
「そう言うな」
ユリウスは穏やかにリランを制する。
「準決勝まで残った貴公と比べれば、二回戦で敗れた私もテンバーとさして変わらぬ」
「貴公の相手は、ラクレウスではないか」
リランはそう言って目を剥いた。
「今年のラクレウスは強かった。あれと当たれば、俺とて一回戦で姿を消していたわ」
「誰に敗れたのであろうが、私が二回戦負けであることは変わらぬ」
ユリウスは答えた。
「試合場にて我らが王を出迎えることが叶わなかったのは、四度の武術大会で初めての屈辱だ」
「む」
テンバーを盛大にこき下ろそうと思っていたリランは、調子が狂ったように頭をがりがりと掻いた後、咳払いをして話を変えた。
「ところで、貴公はいいのか」
「何がだ」
「ほれ。宴で仲良さげにしておったあのラクレウスの妹御よ」
「ああ」
頷いたユリウスの顔が、わずかに曇る。
実は、ユリウスにもそれが気になっていた。
見送りに来てくれぬか、と頼んだユリウスに、嬉しそうに頬を染めて、もちろんでございます、と答えたカタリーナ。
翌朝、酔いが醒めた頭で自分の言動を思い出し、よくもまああんなことを初対面の女性に言ったものだ、と一人赤面したユリウスであったが、心には華やいだものがあった。
それは、敗戦で打ちひしがれ焦燥に駆られていた彼の心に、暖かな蠟燭のように灯った。
結果は不本意であったが、麗しいカタリーナ嬢に出会えただけでも、収穫があったとせねばなるまい。
見送りに来る彼女と話をして、その後でどうしようなどということはまるで考えていなかったが、とにかく、話し足りなかった先日の夜の続きの話をしたかった。
だから、出発を控えた今日、ユリウスは朝からそわそわと落ち着かなかった。
彼らの待機している広間に来訪者があるたびに、それがカタリーナではないか確認し、違うと分かると平静を装って腕組みをして壁にもたれかかった。
もしかして、出発までの間、自分たちがこの広間に滞在しているということがカタリーナには伝わっていないのだろうか。
そんなことを考えて、広間を出てうろうろと周囲を歩き回ったりもした。
だが、結局どこにもカタリーナの姿はなかった。
「まあ、女はいろいろとあるわな」
リランは訳知り顔で言った。
「シエラの女は少しおとなしすぎる。俺はナーセリの女の方がいい」
聞いてもいないのにそんなことを言うリランに曖昧に頷きながら、それでもユリウスは広間の入口の扉を気にしていた。
「帰ったら、俺もそろそろ身を固めるかな」
リランがそんなことを言ったとき、広間の扉が開いた。
ユリウスは思わず腕組みを解いてそちらを見た。
だが、カタリーナではなかった。
入ってきたシエラの役人が、皆さまそれではそろそろ、と言った。
最年長の騎士アーガが、よし、と言って立ち上がる。
「それでは、各々方。出発としようか」
ユリウスは静かに息を吐いた。
とうとう、カタリーナは来なかった。
出発に際し、何か特別の式典が催されるわけではない。
それでも、王都の広場には、シエラ側からは、重臣たちやともに大会で鎬を削った騎士たち、それに異国の騎士たちの雄姿を最後に一目見ようという市民たちが見送りに集まっていた。
旅装に身を包んだナーセリの騎士たちが姿を現すと、市民たちの間から大きな歓声が上がった。
騎士たちの名前を呼ぶ者もいる。
野太い男性の声が、ユリウスの名を叫んだ。
「こりゃすげえな」
さっそく笑顔で両手を振り始めたテンバーだけでなく、自分の名を呼ばれたリランもそのいかめしい顔を嬉しそうに緩めた。
「優勝はできなかったが、まあ歓迎は悪くはなかった。シエラはいい国だな」
「ああ」
ユリウスは頷く。
騎士たちや市民の温かい見送りはありがたかった。
だが、それでもユリウスは無意識に、群衆の中にカタリーナの姿を探してしまった。
しかし、自信なさげな瞳を揺らして一生懸命にユリウスを見つめていた、あの夜の可憐な女性の姿は、群衆の中にも見当たらなかった。
ナーセリの騎士たちは、群衆の真ん中を突っ切るように広場を歩いていった。
「シエラに入る時は盛大に、だが出るときはひっそりと帰るつもりでいたのだがな」
ナーセリ側の出場騎士の代表を務めたアーガが、苦笑交じりにそう言った。
その意味を測りかねたユリウスが彼を見ると、アーガは最後まで自分たちへの歓迎の態度を崩さなかったシエラの市民たちを見やりながら、そっと囁いた。
「彼らがこうして気分よく我々を送り出してくれるのは、結局のところ自国の騎士が優勝したからだ。ラクレウスの勝利が彼らの心を寛大にしているのよ」
アーガはごく穏やかにそう言ったが、その言葉の意味に気付いたユリウスの心には苦い痛みがよぎった。
「歓待はありがたい。だが、もしも我らが大会でシエラの騎士を完膚なきまでに破って、最後の二日間、我らナーセリの騎士だけの試合が続いたとしたら、どうなったかな」
アーガはそう言ってユリウスの肩を叩いた。
「我々はそういう気概でナーセリを出たのではなかったか、ユリウス」
確かに、その通りだった。
広場の出口で、シエラの騎士たちが待っていた。
その中に、ラクレウスの姿もあった。
通り過ぎるときに、騎士同士、握手をしたり肩を叩いたりし合うが、一人ひとりとゆっくりと言葉を交わす暇はなかった。
ラクレウスはユリウスの姿を認めると、右手を挙げた。
「ユリウス殿。また、いつか」
「必ずや」
ユリウスはそう答えて右手を差し出した。
ラクレウスがその手をがしりと握る。
互いに、硬い岩のような皮膚の手だった。
妹君はどうしたのか。
そんなことを聞くことはできなかった。
先ほどのアーガの言葉が、ユリウスの浮ついた心に冷水を浴びせていた。
広場を出たユリウスの脳裏には、カタリーナの可憐な姿の代わりに、底の見えない黒い瘴気の沼から現れる邪悪な魔人たちの姿が浮かび上がっていた。
カタリーナ殿が見送りに来てくれなくて、かえって良かったのかもしれぬ。
ユリウスは思った。
その心に、燃えるような闘志が蘇ってきていた。
早く、魔人どもと戦いたい。
剣に己の生命を乗せるような戦いを、一刻も早く。
市民の止まない歓声に、テンバーたち若手の騎士が何度も振り向いては手を振り返す。
だが、ユリウスはもう振り返らなかった。
あの広場に、カタリーナはいない。
あの夜の語らいが、ユリウスにはもう遠い過去の夢物語のように思われた。
汝は、誰だ。
ユリウスは自分に問いかけた。
私は、ナーセリの騎士。
剣を磨き、剣とともに生き、剣とともに死すことを望む者。
華やかな夢を見るのは、一度きりで十分だ。