描いた未来
これは、「いつか、君を助けにくる」のクリスマス番外編です。
ぽた、ぽたと、水滴が落ちる音が聞こえる。
冷え込んだ空気に、吐く息は白く染まった。ステラは、薄暗い地下室で己の身体を抱き、震えていた。
宝石のように美しい青い瞳は、今は閉じられている。ここに囚われたときは肩までだった銀髪は伸び、前髪が顔にかかって肌に濃い影を落としていた。
銀髪と青い目――それこそが、ステラがここにいる理由だ。
ローランド国では、銀髪に青い目という容姿を持つ者は《穢れた者》と呼ばれ、忌まわしいものとされている。
災いの象徴ともされる彼らに、世の穢れを背負わせ、二十歳を過ぎると海に沈める。それは、この国で昔から行われてきた儀式であり、そうすることによって、世界の穢れは払われると信じられているのだ。
ステラは目を閉じたまま、ぎゅっと手に力を込めた。震えているのは、寒さのせいだろうか。
ステラが《穢れた者》として、この地下室――否、地下牢に閉じ込められてから、初めての冬がやってきていた。
上のほうから、ごおん、というような音が聞こえてきて、ステラは緩慢な動作で顔を上げた。その拍子に前髪が視界にかかったが、整えることはしない。
今の音は、騎士たちが鳴らしている鐘の音だ。何のためなのかは分からないが、毎朝鳴っていた。ここに来てから、鳴らなかった日は無い。
身じろぎすると、身体のあちこちがすっかり強張ってしまっていた。石の床には簡素な敷物が敷いてあるが、薄っぺらいため、ずっと座っていると床の硬さが辛くなってくる。
ステラは、身体を伸ばそうと立ち上がった。だが、長時間座っていたせいだろうか。ふらりと上体が揺れて、ステラは咄嗟に手を前に出した。
伸ばした手が掴んだのは、冷たい金属の感触。
それが、鉄格子だと分かる前に、ステラの脳内に濁流のように押し寄せてくるものがあった。
乱れた銀髪。幽鬼のように鉄格子に取りすがる女性。割れた爪。血の滲んだ引っかき傷。青い瞳。
『怖い』『ここから出して』『嫌だ』『誰か』『どうして私が』『助けて』『寒い』『死にたくない』――。
恐怖と諦念。孤独、それから絶望。
ステラは、錯綜するそれらが、ここに閉じ込められた者たちの味わった思いであると直感した。
自分はそれを『視て』しまったのだと気付くが、もう遅い。
映像に、音に、感情に、全てが一度に押し寄せてきて、ステラをからめとろうとする。
「……っ」
気が付いたら、ステラは目を閉じ、耳をふさいで、その場に座り込んでしまっていた。
怖い。怖くて仕方がない。逃げたい。でも逃げられない。自分はここで、死を待つしかない。そんなのは嫌だ。怖い。死ぬのは怖い。
ぎゅっと瞑った瞼の奥から溢れたものが、頬を伝った。
誰か。
誰か、自分をここから救い出してほしい。
耳から離れ、宙をさまよった右手が、胸に当てられた。無意識のうちに、服の下に隠してつけているペンダントの感触を確かめる。
そのときだった。
『ステラ』
声が聞こえて、ステラははっと顔を上げた。
さっきと同じように、頭の中に映像が浮かぶ。
鉄格子はなかった。地下ですらないそこは、真っ白な世界だ。
純白に包まれた世界に、ただひとり、ステラの大切な人が立っていた。
「ヴァンス……っ!」
緑翠の瞳が、真っ直ぐにステラを見つめている。
裏表のない、穏やかな笑みを浮かべる彼の姿に、視界が滲んだ。構わない。目を閉じれば、ここはもう地下室ではなくなる。
ステラは今、ヴァンスと同じ白い世界に立っている。
ステラはたよりない足取りで、ヴァンスのほうへと歩んだ。
ほんの少しの距離なのに、とてつもなく遠い。遠くて、彼に手が届かない。『ほんの少し』が埋まらない。
まるで、目に見えない檻が、二人を阻んでいるかのようで。
ヴァンスは、一瞬だけ切なそうな顔をしたあと、瞳に毅い光を宿して言った。
『ステラ。君は、俺が守る』
その声は、現実の声のように、凛として響いた。
死なせないと、彼は言った。絶対に、君を死なせたりしないと。
『――ステラ、待ってろ!』
よみがえったのは、あの日の誓いの言葉だ。
『いつか、君を助けにくる!俺が――必ず!』
ああ、そうだった。
怖くて、逃れたくて仕方がなかったけれど……答えはもう、もらっていたのだ。
瞼を持ち上げると、目に入ったのは錆びついた鉄の棒だ。ステラは敷物の上にぺたりと座り込み、ペンダントを握りしめていた。
ゆっくりと手のひらを開く。薄闇の中でも、ペンダントトップの形はどうにか視認できた。
空洞になっているガラスの中、山吹色の小さな石が、微かに光を放っている。
これは、数年前にヴァンスに買ってもらったものだ。以来、ずっと肌身離さずつけている。
ステラはペンダントを、そっと口もとに近付けた。
「……ありがとう、ヴァンス」
これまで、ステラと同じようにここに閉じ込められてきた、多くの人々の念には、もう囚われない。
怖さはある。でも、助けると言ってくれたヴァンスの言葉を、信じている。
だから、大丈夫だ。死までの時間を数えるのではなく、未来を描きながら生きていこう。
きっとできる。それをするだけの力を、ステラはもらったのだから。
暗闇の中、ステラの思いに頷くように、石がきらりと瞬いた。
◇◇◇
しんしんと雪が降っていた。
昨夜から降り始めた雪は、一日中降り続け、あたりは真っ白に染まっている。
地面も、木も、全てが白に覆われていて、まるで、遠い日に見た純白の世界のようだ。
窓の外の様子を眺めていたステラは、部屋の中へと視線を移した。
テーブルの上に並べられたキャンドルと料理。飾り付けられたモミの木は、ひときわ存在感を放っている。
食堂の中には、まだ幼い子供から、二十歳前後の大人まで、さまざまな年齢の人々が集まり、談笑していた。
「みんな、集まってるか?」
食堂の入り口に顔を出したのは、金髪の青年――ヴァンスだ。
「何言ってるの、お兄ちゃん。もうとっくにみんな集まってるよ」
妹であるジュリアに文句を言われ、ヴァンスは「悪い悪い」と頭を掻いた。
「ここまで運んでくるのに手間取っちゃってさ」
言いながら、彼はステラの隣にやってくると、椅子に腰を下ろした。ヴァンスの反対隣にはジュリアが座っており、そのまた隣には黒髪の騎士、アルバートの姿がある。
ヴァンスはみんなの顔を見まわすと、
「それじゃ、これ以上待たせるのも悪いし、始めるか」
彼は、全員にグラスを持つように促してから、自身もグラスを顔の前に持ち上げた。
「メリークリスマス!」
声に合わせて、それぞれが近くにいる者と、グラスを軽く打ち合わせる。
瞬く間に、食堂はにぎやかな声とグラスがぶつかる音に包まれた。
――今夜、施設のみんなとクリスマスパーティーをすると、ヴァンスに言われたのは今朝のことだ。
ステラも、今日がクリスマスであるということは知っていた。だが、誰かとクリスマスを祝う、なんてことは久しくしていないし、すっかり失念していたのだ。
自分の知らないところで準備が進められていたのは、置いてけぼりにされたようで寂しかったが、チキンやケーキといったごちそうに幼い子供たちの目がきらきらと輝くのを見ていると、心が温かくなる。
子供たちが料理に手を伸ばし始めると、一気に騒がしさが増した。
料理はたくさん並んでいたはずなのに、人数が多いせいか、あっという間に減っていく。
料理が半分ほどになったあたりで、ヴァンスが席を立った。
そのまま食堂を出ていこうとするので、ステラは立ち上がり、ヴァンスを追う。
「ヴァンス、どこに行くの?」
先に食堂を出ていたヴァンスは、唇に人差し指を当てて「静かに」と伝えた後、ステラを手招きした。
手招かれるまま廊下の角を曲がると、床に白い大きな袋が置いてあった。中には、ラッピングされた箱やら袋やらが、ぎっしりと詰まっている。
「……プレゼント?」
「そう。全員分。何しろ数が多いから、ステラも配るの手伝ってくれると助かる。誰にどのプレゼントを渡すかは、分かるようにしてあるから」
確かに、すごい量だ。ヴァンスの頼みに、ステラは頷いた。
この大量のプレゼントを、ヴァンスはいつから準備していたのだろう。そんなことを考えながら、袋を持とうとしたステラの目の前に、小さな包みが差し出された。
顔を上げると、ヴァンスはにっと笑って言った。
「まずは、ステラから」
ステラは瞬きし、持ち上げかけた袋を置くと、小包みを受け取った。
紙を丁寧にはがしていき、現れた小箱の中に入っていたのは、花をかたどった髪飾りだ。
花弁に見立てられた青い石と、それを囲むようにちりばめられた金色の石。台座は白銀の色をしていて、ステラは思わずヴァンスを見た。
「これ……」
「婚約したとき、何も渡さなかったから、ずっと考えててさ。遅くなったけど、ステラに似合うと思って、選んだんだ」
ヴァンスは「指輪じゃないけどな」と言ったあと、不意に顔を近付けてきた。
「――指輪は結婚するときに渡すよ」
耳もとでささやかれたその言葉に、ステラは自分の頬が熱をもつのを感じていた。
一方のヴァンスは、悪戯っぽく笑うばかりだ。
ヴァンスは、小箱から髪飾りを取り出すと、ステラの髪にそっと差し込んだ。留める際、ヴァンスの手が頭に触れ、くすぐったさにステラは顔を俯ける。
「……うん、似合ってる」
手を離し、そう呟いたヴァンス。
ステラは俯いたまま、手を持ち上げ、髪飾りに触れた。確かめるように、形をなぞる。
「……」
「ステラ……?」
無言のままのステラに、不安に思ったのだろうか。こちらをのぞき込んできたヴァンスの目が、見開かれた。
温かい雫が、頬を零れ落ちていく。
瞳からあふれたそれは、どんどん勢いを増して、止まらない。
ステラは、涙を拭おうともせず、ただまっすぐにヴァンスを見つめた。
ステラの様子に、ヴァンスは面白いくらいに慌てた。
「す、ステラ、急にどうしたんだ……!? 俺、何か悪いこと言ったか……?」
心配そうなヴァンスに、ステラは何度も首を横に振った。
嫌だったのではないのだ。胸にこみ上げる感情は、もっとあたたかなもの。
それは、きっと――。
「――ありがとう」
濡れた声で、それだけを伝える。
あの冬の日、寒い地下室で、ヴァンスの想いにステラがどれだけ救われたのか。たぶん、ヴァンスは知らないし、知ることはない。
そして今、留められたばかりの髪飾りは、じんわりとした温もりを指先に伝えてくる。
――ステラは今、確かに、あの日思い描いた未来の中に生きているのだ。
「ありがとね、ヴァンス」
微笑みながら言ったステラに、ヴァンスが瞠目した。涙で金色の光が滲み、ステラは何度も目もとを拭った。
突然、身体がふわりと温もりに包まれて、ステラは驚いて目を見開いた。
背中にまわされた腕に、ぎゅっと力が込められて、抱きしめられたのだと気付く。
「ステラ」
くぐもった声が、密着する身体から伝わってくる。
「もう、離れない。――離さないから」
ヴァンスの声も、やや震えていたように聞こえたのは、ステラの気のせいだろうか。
気のせいだっていい。ここにいて、離さないと言ってくれる。それだけで、充分だ。
髪飾りに触れたままの指に、手が重ねられる。
「これは、その誓いの証だ」
ステラは、声を出さずに、うんと頷いた。新しい涙が次から次へと溢れ、服に染み込んでいった。
二人は長いことそのままでいたが、やがて、どちらともなく腕を緩め、視線を合わせた。
頬に残ったままの涙のあとを、ヴァンスは優しく指先で拭い、
「――さ、プレゼント、渡しにいこう」
それを聞いて、ステラは自分たちがパーティーの途中で抜け出してきたことを思い出した。
今頃、子供たちが待ちくたびれているかもしれない。
二人は揃って微笑むと、袋を持ち、食堂のほうへと歩き出した。