2.初めてのラーメン(前編)
「ここは……。」
天の使いに言われるがまま”穴”をくぐった俺の視界に広がったのは、どこか教科書やファンタジー小説で見たような石壁でつくられた建屋が並ぶ中世の街そのものであった。往来の激しい道の真ん中に突然現れた俺を見る人々が多い。多すぎる。数十、数百の視線が俺に突き刺さる。
「そりゃそうだよな……。」
どうせなら何もない原っぱのようなところからスタートしたかった。あの天使め、配慮というものがまるでないじゃないか……。とは言っても文句を言ったところで過去は変えられない。視線を無視するかのように早足で人混みの少なそうなところに向かって歩いた。
十数分くらい歩いただろうか、興味本位でついてきたような野次馬も減ったくらいのところで俺はあることに気付いた。そう、この街は”臭い”のである。まるで排水口にラーメンのスープや様々なものを流す、早朝に店前に生ごみを放置する元いた世界の愚の骨頂、中央調理方式のチェーン店のラーメン屋の店前の臭いだ。思い出すだけで反吐が出てくる。チェーン店はゴミ出しまでがプロセス化されているのであろう、マニュアル通りに処理をしているのだろうが何せ店前の排水口が臭くなる。100店舗あって100店舗が臭いのだ。理由は不明だがゴミの管理すら出来ていない店の提供するラーメンが適切に管理されているわけがないのだ。早足で歩いたこともあり余計息が苦しくなってきた。
「この臭いの原因はなんなんだ……おえっ。」
思わず吐き気を催しそうになりながらうつむいていると、何かこちらに近づいてくる気配がする。物音のする方に振り返るとそこには人の外見をした、しかしよく見ると人とは違う耳と尻尾を有する小柄な少女がそこにいた。
「あの、体調、優れないんですか……。」
「あ、ああ。ちょっとな。それよりさっきから付けてきたのか。」
俺は心配そうにこちらを見る栗色の髪をしたその子に話しかける。質問に質問で返されたからなのか、彼女の尻尾がピクっと立ったのが見えた。おそらく動揺しているのだろう。彼女は落ち着きを取り戻すと、
「ば、バレてましたか……ごめんなさい、突然道の中央に現れたあなたが気になったので、つい。」
と少しバツが悪そうに語り始めた。耳がしゅんと垂れているところを見るに申し訳ないと思っているであろう、まるで主人に戒められている犬のようだ。
彼女――エリシャと言うらしい――は俺を尾行した理由を説明してくれた。この世界には「世界が破滅を迎えようとするとき、どこか異世界から”救済者”が現れ、必ず世界を正しい道へ導くであろう。」といった伝承が古くから伝えられており、ほとんどの者はその言い伝えを御伽噺のようなものと認識しているそうだ。まだ幼さの残る彼女はそれを信じているらしく、俺のことを救済者だと思っているらしい。実際のところ、救済をするためにこの異世界に転移してきたので間違っていないのだ。おそらくこの噂は予め俺をこの世界に送り込んだ天かその使いの仕業であろう。用意が中途半端すぎて苦笑した。
「なるほど、理由は分かった。ただ今の俺には住処どころか明日食べるメシの目途すら立っていない。世界の救済なんて考えてる状況じゃないんだよ。」
今置かれた状況を整理しつつ、俺はよく見ると目をキラキラさせながらこちらを見ている少女にそう告げる。自分で言ってて思わず悲しくなってきてしまった。この世界がどういった問題に苛まれているのかは知らないが、問題の解決というのは困っていない人間の余力で行われるべきだ。飢餓の心配をする人間がすべきじゃない。今の俺のすべきこと、それは救うことではなく救ってくれと懇願することなのだ。それが目の前にいる年が二回り以上離れているであろう初対面の女の子であっても。
「そうですか……それなら私の家に来るといいですよ。寝床と食べ物ならすぐ用意できますから。」
頭を下げるまでもなく、あっさりと、その日生き残ることが確定した。
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案内されるまま数十分、街のはずれまで案内された俺は彼女の家だという二階建ての建物の前にいる。ドアの前には奇妙な、そして見覚えのある絵が描かれた看板がぶら下がっている。「さあ、入ってください。」と軽く言う犬耳少女に従い扉を開けると、そこには見覚えしかないL字型のカウンターとその奥に調理器具が並んでいる光景が広がった。そしてこの匂い、これは間違いない。
「これは、ラーメン屋……なのか?」
「救済者様、ラーメンをご存じなのですか!?」
こちらが思わず口にした言葉に耳をピクっとさせ驚きながらこの店を案内した彼女はそう言った。かわいい。
「救済者様はこちらの世界の文化についてもお詳しいのですね……そうです、ここはラーメン屋です。いえ、正確には、ラーメン屋でした。今は諸事情あって営業していないのです。」
「ほう、そうなのか。」
「うるせえ!営業はしてるよ!」
少女と話していると、調理器具の奥のほうから声がした。大柄な筋骨隆々の男が姿を現す。
「この匂いとこの湯気を見てどこが営業してないだ、俺はまだラーメン屋をやってるのがわかるだろ!」
「お父さん、まだあきらめてなかったんだ……。」
「うるせえ!政府の連中が何だか知らねえが、俺は生涯現役って決めてるんだよ……。」
どうやらこの2名は親子であるらしい。全然見た目が似ていないのはともかく、仲もそこまでよいのではないのかもしれない。そんなことを考えていると、
「……ところで、そこの人間は誰なんだ、ひょっとして客か、客なのか。」
「違うよお父さん。この人は救さ……いえ、その、いや私の友達。ラーメンが好きなの。」
「(そうか救済者なんて言われてもハタから見たらただの不審者だしな)娘さんのおっしゃる通りです。俺の名前はイマムラ、ラーメンが好きだ。」
彼女が咄嗟についた嘘――いや嘘ではなかったのだが――をそのまま自分の設定とし会話を進める。何せ今夜空腹でつらい思いをするかどうかはここでの立ち回りにかかっているのだ。幸いにもここは飲食店であるのは違いない、ラーメンというのが元の世界のそれと同じものなのかは気がかりだが、選り好みはしてられないからだ。
「おお、そうかそうか、ラーメンが好きか。なら食ってけ。俺の特製の逸品をな。」
意外と気前がよくて助かった。後で金銭を請求されたらどうしようかとは思ったがそんなものは食券制を採用していない店が悪いのだ。気持ちよくラーメンを食べるためには食券制は間違いなく必要な制度である。着席してからメニューを見て悩むウスノロ共を減らせるからだ。ラーメンには行列が伴うものなので、いかに回転するかが客側の課題である。回転の支障となるゴミクソのような客を減らすために店側にも配慮をいただかなければいけない部分、それが食券制による回転率の向上だ。店員が余計なオペレーションにリソースを割くことなくラーメンに全身全霊を捧げることができるのもポイントが高い。そんなことを考えているうちに男はテキパキと調理を済ませ、その「自慢の逸品」とやらを俺の座るカウンターに置いた。
「はいよ、ゆっくり召し上がりな。腹減ってるみたいだったから麺はサービスで大盛にしてやったぜ。」
「こ、これは!」
思わず驚いてしまった。目の前に出てきたのは間違いなく俺の知ってるラーメンであった。透き通る茶色のスープに黄色の麺、メンマにチャーシュー、中央にはカイワレ大根が添えられている。鼻腔をくすぐるのは鶏油と醤油の香り。間違いなくこの世界にはラーメンが存在していたのだ。あまりのことに感動し、涙が出そうになったがそこはラーメンの前だ。ラーメンは1分1秒を争う。俺はカウンターに置かれた細く先が研がれた木の棒(おそらく箸の代わりであろう)を手に取り麺をすする。
「……。」
「どうだ、味のほうは。」
味の感想を聞いてきた店主に俺は肩を震わせながらこういった。
「……お前、ラーメンをナメてるのか?」