表札の無い屋敷
「これが『表札の無いお屋敷』……!」
「すごい! 大きい!」
マキシに案内されて屋敷に歩き出したリンネとソーマは、広大な庭を見渡しながら驚きの声を漏らしていた。
手入れの行き届いた芝生と生垣。
行く手にそびえるのは、白亜の壁をした壮麗な洋館。
勿忘市の繁華街のはずれ、入り組んだ路地の奥に、こんな大邸宅が構えられているなんて。
「ああ。大きいのはいいんだが手入れに苦労する。それに……帰るのにはもっと苦労する。面倒な物件だよ」
屋敷の主……探偵マキシが、燃えたつ炎のような紅髪をかき上げながら、切実そうに溜息をついた。
(不思議な人……)
リンネは彼女の前を歩く探偵の、スッと伸びた背筋を眺めながら、ボンヤリそんなことを考えていた。
霧に覆われた街『勿忘市』の「何でも屋」「トラブルバスター」。
……そしてあらゆる難事件を解決する「探偵」。
本名も定かでない、ただマキシとだけ呼ばれているその男が、市内のあらゆる場所に時をおいて出没するこの屋敷、『表札の無い屋敷』に住んでいることを、この街に住む人間の中で、知らぬ者はいない。
ただ本当にこの男に会った者がいるのかと訊いてみれば、みな不思議そうに首を傾げるだけだったのだ。
依頼の方法は「電話」か「手紙」。
探偵の方で事件の内容が気に入れば、依頼者には特定の日時と場所が伝えられる。
その時、その場所こそ『表札の無い屋敷』に辿り着く唯一の方法なのだ。
(大丈夫かな、プライドが高くて気難しいって噂だけど……)
またも根拠のわからない噂を思い出して、リンネがモヤモヤした不安を感じていると……
ピタリ。探偵の足が止まった。
探偵が入り口の前に立つと、アーチ形の屋敷の扉が、音もたてずゆっくりと開いた。
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「もう……眠ってしまったみたいです」
「あんな思いをしたんだからな、当然だろう。緊張の糸が切れたんだ」
屋敷に通されたリンネは、客間のソファでマキシと向き合っていた。
客間もまた屋敷の外装に見合った壮麗さで、掃除も行き届いている。
テーブルには紅茶の注がれたティーカップが三つ。
もっともソーマの方はお茶を飲む時間も待たずに、リンネの膝に崩れかかるように寝入ってしまっていた。
「それにしても君の方は……ずいぶんなタフネスだ!」
紅茶を口に運びながら、ソーマは感嘆の面持ちで目の前のリンネにそう言った。
リンネの様子はソーマとは対照的だった。
疲れた様子も、取り乱した様子も、全く探偵に見せていない。
客間を照らした暖かな照明が、流れる夜の闇のような髪をした、この少女の人形の様な美しさを、はっきり浮き立たせていた。
「ええ、いろいろ大変な事には慣れてます。それにこの子は……弟は私が守らないと……」
リンネは探偵の顔から眼を伏せると、自分の膝の上であどけない顔で寝ているソーマの亜麻色の髪を、優しくなでた。
「御崎リンネ、御崎ソーマ。そして私に仕事を頼んで来たのは君の方だね。リンネくん」
「はい。私です。もっと早くに来ていれば、こんなことにはならなかったかも……マキシさん。ごめんなさい」
屋敷の外での乱闘をまざまざと思い出して、リンネはマキシに頭を下げる。
「なに、こうゆう仕事には付き物のアクシデントだよ。それに私はああゆう品格を欠いた連中には、いささか忍耐力が足りなくてね。それよりも……」
マキシはこともなげにそう呟くと、ティーカップをテーブルに置いてリンネの方に身を乗り出した。
「聞かせてくれ。事件の詳細を。君たちは『教会』から来たと言っていたな。『教会』で何か恐ろしい……そして不思議な事が起きていると。何を見た? 何を聞いた? それにさっき君たちを追い回していた連中。君たちは、彼らを知っているのか?」
「はい。私たちは確かに、この街の西……ゆうぎり町の贖罪教会から来ました。私とソーマには身寄りがない……教会の孤児院に住んでいたんです」
マキシの質問に、リンネは静かにそう答えた。
「暮らしはつつましかったけれど、私もソーマも感謝していました。神父様もシスターも厳しかったけれど、私たちの事をとても大事にしてくれて、勉強もみててくれたし……でも……!」
鈴を振るように澄み切ったリンネの声が、だが今は微かに震えていた。
「あの人が、シスター・テレーズが教会にやって来てから、神父様は変わってしまった。そしてそれからしばらくしないうちに、夜な夜な孤児院で、不思議な……恐ろしいことが起きるようになったんです!」
「変わった? 『贖罪教会』なら確か……イーラーイ・サンデー神父が? どういう意味だ。教えてくれ。それに不思議な事ってなんだ?」
リンネの言葉に、マキシは興味津々といった面持ちで炎の様な紅髪をかき上げてソファーから立ち上がった。
見開かれたマキシの金色の瞳が、好奇の光でキラキラと輝いていた。
「実に興味深い。さっそく明日にでも現場に出向いて捜査を……さあ、早く話の続きを」
「待ってください。その……」
マキシの言葉を制して、リンネが何かを言いにくそうな顔をしていた。
「私たち身寄りが無いし、その、着のみ着のままで教会を出て来たから、その……マキシさんに支払うお金がなくて。だからその」
「ああ、謝礼なんて気にするなよ!」
モジモジとそう切り出したリンネの言葉を、マキシは少しいらだった様子でさえぎった。
「私にとっては面白い事件、警察や余人では手の出しようが無いような怪事件に取り組んで、それを解決することこそが、何ものにも代えがたい最高の精神的報酬なのだ。元より君たちには支払い能力など期待していないよ。だがそうだな。もしこの事件が私が取り組むに足りないつまらないものであったなら。その時は君たちに屋敷のゴミ出しでも食後の皿洗いでも、なんでもやってもらうさ。金など気にしないことだ!」
リンネの方を向いて手をパタパタさせながら、傲慢ともとれる口調でマキシはそう言った。
「お礼なら……できます!」
立ち上がったマキシを見上げて、美しい顔を少しムッとさせながら、リンネは語気を強めた。
「できる?」
「はい。お礼ならこれで。これ、なんだか普通じゃない。もしかしたら神父様の事にもかかわっているのかも……」
少女の反応に意外そうな声を上げるマキシに、リンネは自分の傍らに携えていた、バラやアジサイの咲き乱れた花籠の中に、自分の手を差し入れた。
「これは……!」
そしてリンネが花籠から取り出してテーブルに置いたモノを見据えて、探偵は驚きの声を漏らす。
そこにあったのは、優美な細工の施された、小さな髪飾りだったのだ。
マキシが呆然とした様子で髪飾りに手を伸ばす。
次の瞬間、パチン。
不思議な事が起きた。
髪飾りが薄紫色に怪しく光った。
テーブルにさし伸ばされたマキシの右手の白手袋の指先と、髪飾りの間で、眩い火花が瞬いた。
「間違いない。これは魔遺物……!」
探偵は、そう呟いて息を飲んだ。