市庁舎の使い
「ここが『表札のないお屋敷』……探偵マキシの住む屋敷か!」
日曜日の昼下がりだった。
勿忘市でも滅多に見かけない高級品の自動車から降り立った紳士が、表札のない屋敷の門前で、驚きの声を上げていた。
高級そうなスーツに身を包んだ恰幅の良い中年の紳士が、マキシの招待に応じて探偵の屋敷までやって来たのだ。
紳士は、探偵の依頼人だった。
「では、勝手にお邪魔します……と」
軋んだ音を立ててひとりでに開いた大きな鉄門をくぐって、その紳士は屋敷の敷地に足を踏み入れた。
広大な庭園の手入れ行き届いた花壇や生垣には、色とりどりの季節の花々が咲き乱れている。
「なるほど、たいしたものだ……」
「あら、お客様ですね!」
初めて目にする屋敷の壮麗な庭園を見回しながら、紳士が感嘆の声を漏らしていると、目の前の小さな人影がそう声をかけてきた。
まるで夜の闇を流したような長い黒髪。
透き通るような白い肌。
人形のような整った顔立ち。
庭園の花壇に水をやっていたメイド服の美しい少女が、紳士の訪問に気付いたのだ。
「あの……私はチャールズ・メイプルトンという者ですが、探偵のお屋敷というのは、此処で間違いな……」
「はい。お待ちしていましたメイプルトンさん。マキシはもうすぐ戻ります。屋敷に上がってお待ちください」
おずおずと尋ねる紳士に、少女はニッコリ笑ってその紳士、チャールズ・メイプルトンを屋敷まで案内してゆく。
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「こ……これは一体……!?」
屋敷の中に案内されて、客間のソファで待たされていたメイプルトン思わず変な声を上げていた。
「今電話がありました。マキシが戻るのは、もうしばらくかかります。お茶とこちらをお召し上がりになってお待ちください」
メイドの少女が、ティーポットと茶器の一式といっしょに運んで来たのは、皿の上で焼き上がった料理のようだった。
「このお屋敷のおもてなし。特製のミートパイでございます!」
「ミートパイ……これが!」
メイプルトンは皿の上に広がっている、かろうじて円盤状のソレを眺めて、ゴクリと生唾を飲んだ。
それはパイと呼ぶにはあまりにも微妙で、ねじくれ、ひしゃげていた。
表面も焦げていて、各所からプスプス煙が上がっている。
なんだかイヤな予感がした。
「いや、せっかくなんですが、昼食は先に済ませていましてね。お気遣いは結構……」
「このお屋敷のおもてなし。特製のミートパイでございます!」
やんわり断ろうとしたメイプルトンに、少女が2度、同じことを言った。
(な……なんだ、この圧迫感は!?)
メイプルトンは少女の様子に気付いて、額から汗を拭った。
じーーーーー………
人形の様な美しい顔に、優雅な微笑を張り付かせながら、メイドの少女はメイプルトンをジッと見つめていた。
じーーーーー………
黒珠のような少女の瞳が、メイプルトンの挙動とテーブルのミートパイの行方を、刺す様な視線で射貫いている。
(そうまでして……食べろと? どうしても食べろと……!)
メイプルトンは少女とミートパイの間で視線を泳がせながらオロオロしていた。
はっきり言って、凄く不味そうだった。見た目にかなり問題があるし、それに皿の上から微かな、変な匂いがする。
(いや、そうは言っても、仮にも此処はあの有名な探偵マキシのお屋敷。それにこんなに綺麗で素直そうな子が振る舞ってくれるのだ。イタズラやイヤガラセなんてことは、万に一つも……)
メイプルトンは無理やり自分にそう言い聞かせて、フォークとナイフを手に取った。
ミートパイを1かけ切り分けると、それを恐る恐る自分の口に……!
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「うぎゃあぁあああああああああ!」
「何だ! 何事だ!」
屋敷の中から聞こえて来る絶叫に、今ちょうど屋敷に帰りついたばかりの探偵マキシが、驚きの声を上げていた。
「リンネ! ミセス・デイジー! どうした無事か……あ!?」
悲鳴の出所である屋敷の客間に駆け付けたマキシ。
「はわわわわ……どうしよう、またやっちゃった!」
「リンネ、また君か!」
マキシが見たのは、ソファーの上で、パイを一口したまま卒倒して泡を噴いているメイプルトンと、かたわらでオロオロうろたえているメイド服のリンネの姿だった。
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「リンネ! 依頼人に自分の料理を振る舞うなってあれだけ言ったのに! 何回言ったらわかるんだ!」
「しょ……しょうがないじゃない。今回は上手く出来たと思ったの!」
マキシがリンネを指さして、厳しい口調で彼女を問いただしていた。
ソファに寝かせたメイプルトンを介抱しながら、リンネは拗ねた口調で花びらのような唇を尖らせた。
「いいやダメだ! まったく、紅茶の淹れ方は、あれだけ上達したのに、料理の腕だけは相変わらず壊滅的だ。ミセス・デイジーにもまだしばらく苦労を掛けることになる……!」
「まあまあ、いいじゃないですかマキシさん。リンネちゃんも、ちょっとずつだけど上達してますよ。そりゃあ料理の方はまだアレですけど、掃除や洗濯、庭の手入れと本当によくやってくれてます……」
「ありがとう、デイジーさん!」
リンネを睨んで怒り心頭のマキシを、午睡から目を覚ましたミセス・デイジーが笑顔でなだめた。
「それに、リンネちゃんが来てくれてから物置のネズミなんかも随分減って、助かってるんですよ」
「えへへ。そうでしょデイジーさん?」
「ネズミ……! まさか花だけじゃなく……そんなモノまで……?」
花びらのような紅い少女の唇に目を遣って、マキシはちょっとイヤそうに、そう呟いた。
「あら、レディにそんな事を聞くものじゃないわマキシ。失礼でしょ?」
「やれやれ、とんだ淑女がいたものだ」
リンネは澄ました顏でそう答えると、庭の花壇で摘んできた一輪の白いバラに唇を当てた。
シュウウ……見る見るうちに萎れ枯れ果ててゆくバラを見ながら、探偵は肩をすくめた。
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「ウググググ……いやはや。なかなか刺激的なミートパイですな。まだ頭がガンガンする」
「ミスター・メイプルトン?」
「よかった、目を覚ました!」
額に浮かんだ脂汗をハンカチで拭いながら、ソファーから恰幅のよい身体を起こしたのは、マキシの依頼人だった。
どうにか無事な様子のメイプルトンに、リンネが胸を撫で下ろす。
「ご迷惑をおかけしましたミスター・メイプルトン。うちのメイドがとんだマネを……」
「いや、甘んじて受けますよ。これが通過儀礼だというなら」
「……いや、そういうんじゃァないんですが……」
メイプルトンの返事に、マキシは申し訳なさそうに頭をかいた。
「初めましてマキシさん。私はチャールズ・メイプルトン。勿忘市で市長付の秘書をしている者です……」
「勿忘市長って……じゃああのAA市長の?」
メイプルトンの自己紹介に、居合わせたミセス・デイジーが目を輝かせた。
「きゃあああああ! 私、あの人のファンなんですよ。なんだか小さくて、とても可愛くて!」
「ありがとうございます。市長にそうお伝えしておきます」
年甲斐もなく黄色い声を上げてはしゃぐミセス・デイジーにメイプルトンが恭しく頭を下げた。
「ふん。AA市長か……」
「有名なの? マキシ?」
マキシは少し苦々しげに鼻を鳴らした。
リンネは訝しげに探偵を見上げる。街にやってきて程ないリンネには、市長は見知らぬ存在だった。
「ミスター・メイプルトン。勿忘市から直接の依頼という話だから、あなたをここにお招きしたんですがね、正直今回の依頼は内容が要領を得ない上に、私の興味を掻き立てない。電話の内容が『美術品の警護と遺失物の捜索』だけじゃあ、どんな話だかサッパリですよ。それに警備依頼が市長直々の采配であるというなら、警察でも警備保障会社でもいくらでも人手を割けるはずだ。わざわざ私が出向くまでもない。第一……」
マキシはちょっと苛立ったように燃え立つ炎の様な紅髪をかき上げると、メイプルトンに向かって語気を強めた。
「市長直々の依頼であるというなら、あなたではなく、あの子供が、直接ここに出向いてくるべきでしょう? 『アオレオーレ・アムネジアス市長』自らが!」
「申し訳ありません、マキシさん。市長は色々と……繊細なお方でして。それに……」
マキシの言葉に、メイプルトンはすまなそうに頭を下げながらそう続けた。
「事情があって、この事件はまだ表沙汰に出来ないのです。もしも今回の警護と捜索が失敗したら市の威信に傷が……いや存亡にすら関わりかねない!」
「存亡? 一体どういうことだ?」
メイプルトンの言葉に、マキシは眉をひそめた。
「マキシさん。これをご存知ですね?」
「ああ。それは『月女神の瞳』だろ。市の遺物管理局で管理されている魔遺物だ。確か管理局に1つ……それと市の東西、美術館と博物館に1つづつ……」
メイプルトンがポケットから取り出した3枚の写真を見て、マキシはそう答えた。
写っているのは、トパーズのような眩い金色の輝きを放った、ニワトリの卵ほどもある滑らかな3つの宝石だった。
「はい。まだどこにも公表していないのですが、既にこの3つの内の2つ……厳重に警備されていた筈の2つまでが、何者かに盗まれてしまい行方が知れないのです!」
メイプルトンは声を潜めて、そう続けた。
「盗まれた?」
「はい。そして今から2週間後、飛空艇アルバトロス号であのお方が、この勿忘市にやって来ます。機巧都市『ウルヴェルク』領主、『マシーネ・ツァーンラート伯爵夫人』が!」
メイプルトンの声が震えていた。
「マシーネ・ツァーンラート! 『あの女』が、この勿忘市に……!」
メイプルトンの言葉を繰り返すマキシの声も、また微かに震えていた。
「『月女神の瞳』は、両都市の友好と信頼の証として、勿忘市長から伯爵夫人に贈呈される予定でした。それが3つの内2つまでも……もしアルバトロス号が到着するまでに魔遺物を回収できなければ、市の威信に、信頼に傷がつく。『ウルヴェルク』との関係が悪化したら、市の存亡にすら関わりかねない。なんとしても残った1つを守り、盗まれた2つを取り戻さねばならない! ですが……!」
メイプルトンは額の汗を拭いながら、ポケットから何かを取り出した。
「またも届いてしまったのです! あの忌々しい予告状が!」
「こ……これは!」
メイプルトンが広げた便箋の署名に、マキシは息を飲んだ。
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明日の深夜
『月女神の瞳』
いただきに参上する
怪盗ストーム
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「マキシさん。これが理由なのです。AA市長が、私どもが、あなたを頼らざるを得ないね……!」
メープルトンが、縋るような目でマキシを見ていた。
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「『怪盗ストーム』か、面白くなってきたぞ。市長の依頼ってところが、ほんの少しだけ気にいらないが、実に興味深い事件だ」
事件の依頼を承諾し、メイプルトン秘書を屋敷から送り出したマキシは、興奮した面持ちでテーブルの周りを歩き回っていた。
「有名なの、マキシ?」
マキシのただならぬ様子に、リンネは不思議そうに首を傾げた。
「ああ、その通りだリンネ!」
さっきまでの不機嫌そうな様子はどこに行ったのか、マキシは金色の瞳を輝かせてリンネにそう答えた。
怪盗ストーム。
神出鬼没にして大胆不敵。
勿忘市のみならず、世界各地の都市に出没して財宝や魔遺物を盗んで回る凄腕。
盗み出した金品を、恵まれない人々に配って回る『義賊』としても知られていた。
その素顔も正体も、誰も知らなかった。
「彼とは一度、会ってみたいと思っていたんだ。予告の日付は明日。勿忘美術館に残された最後の『月女神の瞳』がAA市長の手元、中央庁舎の彼の元まで搬送されるという。彼の狙い目は、きっとそこだ。早急に彼の過去の手口をまとめて、ケース別に対処を考案せねば。だがその前に……」
探偵は、小腹を撫でながらそう呟いた。
「ミセス・デイジー。何か軽いものを用意してくれないか。出先でレストン警部補と話し込んでしまってね。実は昼食がまだなんだ」
「はいはい。わかりましたよマキシさん」
「ええ。わかったわマキシ!」
「リンネ……君はいいから……」