下
毎日、目を覚ました男が一番にすることは、酒瓶の中身を煽ることだ。
ぼんやりと濁った認識が、一瞬で火がついたように燃え上がり、そしてゆっくりとさらに濁って鈍くなっていく。
順調に何もかもがダメになっていることに満足の笑みをこぼし、男は壊したメディカルベッドから体を起こした。
眠っている間に臓器の損傷を修復されないように、ここに来て一番に壊したが、ベッド代わりにちょうど良いことと廃棄に金がかかるので、そのまま使っていた。
男の望みは破滅のみ。
それもゆっくりと腐っていくような。
死にたいだけならば、どこかの戦場にコールスーツなしで潜り込めば良い。
だがそれは男の望みではない。
男の様子を伺っている奴らが苦しむように、男自身が苦しむように、ゆっくりと毒を溜め込んで腐っていくのだ。
「……酒を買わないとな」
チャプリと容器の中で音を立てた透明な蒸留酒は、ひどく心もとない残量だった。
今夜も酔いつぶれるまで飲むには、どう考えても足りない。
昨日稼いだ金は昨夜の内に、火のように熱い女を買うことに費してしまい、手の中にあるのがその残りになる。
いい女には金がかかるな、と男は古いスキットルに蒸留酒を全部注ぎ込んだ。
「おい、仕事をくれ」
「またあんたか、あんたみたいなクズにやる仕事はないって、何度も言ってんだろ?」
「そんなこと言わんでくれや、もうすぐおっ死ぬアル中に情けをかけてくれねぇのかよ?」
「まあ、態度はともかく認めるしかねぇかんな……ん、ほらよ」
渋々と差し出された薄いカードを二本の指で受け取り、感謝の意を表して口笛を吹く男の目は冷えきっている。
こいつも敵で、落伍者に優しいだけの、ただの甘いおっさんではなかったらしい、と。
いくら日がな一日を腐って過ごすとしても、酒を買う金が必要な男は、誰も受けたがらない日雇いの仕事を受けることが多い。
本来は職業斡旋所から、信用のない人物を斡旋することは犯罪になる。
それを理解しているはずなのに仕事を分けてくれていたのは、お情けや慈善事業の類ではなく、男の働きをちゃんと評価していたかららしい。
飲んだくれに絡まれたくなくて、だと思っていたな、と男は目の前にいる気弱な雰囲気の職員の、評価と警戒度を同時に引き上げた。
追われているのは、男の本体なのか?
それならば、コットゥというのが本体の名前なのか?
そんな詮ないことを思いながら、男は背を向ける。
「あっとさんー」
「次は知らないぞ!」
職員の言葉に背中を押されながら、男はぶらりぶらりとやる気のない歩みで、人気がなく寂れた町中を進んでいく。
恵んでもらった仕事は、町外れの石切り場の残石処理。
男がいるような宇宙の果ての果ての辺境では、機械の維持管理が難しい。
精密な部品を作ったり組み立てを行う大小様々な工場は、利便性の高い宙域に集まっている。
新品の完成品を辺境に発送することはしてくれても、修理のために集荷するのは、赤字でしかない。
一揃いの部品を送られたところで、専門的な知識や機材もなく修理ができるほど、昨今の機械は単純な作りをしていない。
だからこそ辺境では、人が宇宙駆ける船を作るはるか昔から、長らく人の手で行われて来たようなことが、未だに人力で行われている。
大型重機では集めるのが難しい、小さな石を集めたり、そんな仕事が。
歩くことしばしで埃っぽい石切場に着いた男は、手や足を防護してくれる作業補助スーツを、無人事務所のロボットから受け取って、汗臭いそれを体に着けた。
ロボットには嗅覚などないので、洗っていないのかもしれない。
どれだけ汗臭くても、スーツが動きを補助をしてくれるので、腰や手足を痛めることなく、一抱えもある残石をどんどん一輪車へ乗せて運んでいく。
辺境では動力を持たない道具の多くが現役であり、有用に使われている。
男の記憶の中では当たり前だった、人工知能搭載の運搬用トレーラーは、辺境に来てからは見たこともない。
「今夜出会うカワイ子ちゃんのために、頑張るかぁ」
スーツの補助を受けているとはいえ、久々の肉体労働に汗を垂らしながら、男は今夜は酒が美味く飲めそうだ、と口元を緩めた。
男の他には無人で動く巨大な重機しかいない石切場は、時々響く岩を崩す音以外に鳥の鳴き声すらしない。
無心で働きながら、男は自分の本体のことを思う。
名も知らぬ男の本体が眠る施設のセキュリティを、今も多くの者が突破しようとしているのだろうか。
無駄なことを、と皮肉げに歪んだ口元に、スキットルの中身を流し込み、男は息をつく。
徹底的に管理され制御された、全てが自給自足の閉鎖された棺に入るには、遺伝子キーが必要だ。
棺の入り口には、分かりやすいように遺伝子認証用の設備が備えられている。
そこには、正規の方法以外で扉を開いた瞬間に、最奥で眠る男の本体への酸素の供給、栄養素の循環が止まり数分後には死ぬことも明記されている。
扉を開き、男を目覚めさせるには、本物の鍵を見つけるしかない。
そして、施設の鍵になりえる遺伝子を持つのは、男だけだった。
男は男の本体の遺伝子を元にしていながら、意図的にいくつかの遺伝子を変更して培養された鍵だ。
その遺伝子配列は、すでヒュー属のものではない。
その事実を誰も知らないからこそ、男は辺境で酒浸りになって生きていける。
覚えている限りでも、本体から培養されたバトルロイド自体は、まだいくつか稼働しているはずだ。
ほぼ本人そのままのそれらが施設を開けなかったのに、戦いを知らない不良バトルロイドである男が、施設の鍵だとは誰も思わないのだろう。
そして男は、本体の望み通り——つまり自分の意思で、自分が破滅するまでに、答えを見つける者を待っている。
決して訪れることのない、その人物を待つ日々は、とても怠惰で退屈で、そして望んでいた孤独を得られた。
かつて友人たちとともに誰よりも生き急ぎ、遥かな星雲の中で無法を打ち砕いた男は、無為に全てを任せた。
何もかもを失い、取り戻せないそれを思いながら日々を過ごすことが辛いあまり、逃避して、溺れることを望んだ。
結局、彼もまた、一人の男でしかなかった。
「ああ、終わっちまった」
逆さまにしたスキットルから、ポタリと舌の上に滴る最後の一雫を大切に味わい、男は濁った目で世間を見る。
誰が死んでも、世界は回る。
星は燃え続け、そして砕ける。
魔の王だかなんだか知らないが、優遇されている内に全部を手に入れておけよ、と老婆心めいた助言すら思いつきながら、男は嗤う。
愚かな自分自身を、こんなくだらない男を求める愚かな人々を。
美しいジェーブシュカの口づけだけが、男の残された人生を彩ってくれる。
麗しいセニョリータの芳しい香りだけが、男の濁った心を、一瞬だけ安らかにしてくれる。
彼にはもう、それしかない。
望むものはもう、それだけ。
◆
酒場から足が遠のき、男の部屋が酒の空容器で溢れそうになった三日目のこと。
すえた酒の匂いしかしない部屋の中に、ノックの音が響いた。
「……」
日が高くなってきたので寝ようとしていた男は、不機嫌を隠そうともせずにそれを無視した。
グビリと音を立てながら、手の中の酒を飲み下して、火がつきそうな息を吐く。
「失礼致す、ここがコットゥ殿の家と聞いて参った。
どなたかおられぬか」
セキュリティなど息を吹くだけで吹っ飛ぶような安い賃貸は、扉も壁も薄い。
数日前にも聞いた、凛とした女性の声音に男の顔が歪む。
女に追いかけられるたぁ、まだまだ捨てたもんじゃねぇ。
ふざけた感想を心の内で呟きながら、二日酔いで鈍く痛む頭を押さえた。
自分の家にいれば、一日中飲み続けられるということに気がついたのは良かったが、残っている酒はあと二本、金もない。
つまり、明日にはまた日銭を稼ぎにいかなくてはいけない。
酒も金もない。
最悪だ、と壊れたメディカルベッドに横になると同時に、扉の向こうから声が届く。
「言われた通り酒を持ってきた、他には何が必要なのか教えていただきたい」
いい女だが、少々しつこい。
男の好みはキツめであっさりした女だ。
だが、同時にその言葉に魅力も感じている。
何も考えられないように酔いつぶれていたいのに、働かなくては酔いつぶれることさえできない。
ほんの少し女の愚痴に付き合うだけで、酒が手に入るのならば、悪くないのではないか、と。
正常な判断力を失いかけている男は、そう思ってしまった。
「待ってろ」
言葉を返して、揺れる世界の中を扉へと向かった。
「くく、ふふふ」
楽しそうに笑い声を上げるそれに組み敷かれながら、男は正気を取り戻した。
なんだこれは、と自分の手がしっかと揉みしだくように吸いついている、素晴らしい弾力の肉を見て、それから己が何に包まれているのかを知って愕然とする。
男にのしかかっているものを見て、それが予想もしていなかった相手であったことに驚き、そして考える。
記憶がない。
女を部屋の中に入れずに、酒だけを受け取ろうとしたが——そこで何かがあったのか?
「なんだこれは」
バトルロイドらしい、普段の動きからは考えられない力と速度でそれを振り払い、一瞬で距離を離してから、男は脱いだ記憶もないのに着ていない服のことは諦めて、裸に外套をまとって逃げだした。
今すぐ、この辺境を出る。
とっさに手に持ったのはこの地への滞在許可書のみ。
いつでも逃げ出せるようにと、いつも外套の内側に収めていた最低限のものだけ。
外套に備わっている簡易生命維持マスクだけを頼りに、男は居住可能地区を飛びだして——待ち構えていた奴らに取り押さえられた。
◆
◆
男が目を覚ますと、そこには幸福があった。
愛しい妻がいて、友人たちがいる。
陽気のせいでうたた寝でもしていたのか、男が座っている玉座の間には、何もかもが揃っていた。
「陛下、どうかご決断を」
友人のバイザーで覆われた瞳は、不可視光線を拾っているので、男の悪巧みにも気がついているはずだ。
己の恋心に気がつかずに、幼い子供のようないたずらばかり仕掛けて、妻に嫌われかけていた日が懐かしい。
「分かったよ、その、クロル」
「なんですか?」
ツンとすました口調で答えた妻に、思わず笑みをこぼしながら、男は手の内に隠していたものを差し出した。
「君に約束していた未来への鍵だ、やっと実用可能になった」
「うそ」
「君にだけは嘘はつけないな、また嫌われるかと思うと、背筋が凍りそうだ」
「あなたを嫌うはずがないわ!ああ、嬉しいっ」
男は二足二腕のヒュー属。
妻は体積すらその日次第の異形種族、ベグシュ種だった。
どれだけ深く愛し合っていても、遺伝子が十割近く違う二人の間には、子孫を望むことができない。
それをどうにかしたい。
初めにそう思ったのは、男の妻が子供好きだったからでしかない。
広大な宇宙においても少数種族であるベグシュ種は不定形に近いので、子供と戯れているのか、同化しかけているのかの判断は難しいが、言葉が翻訳できていればそれが共食いのような野蛮な行為ではなく、子供の遊びに付き合う大人だとわかる。
ベグシュ種は過酷な環境に適応して不定形の肉体を得た種族であり、知能や文化練度はヒュー属のものを受け入れる寛容さがあった。
二人が結ばれた当初は異端でしかなかったが、今では大きな流れとなった異星間種族同士の婚姻を、後悔のないものにしたい。
男の心は異形種の妻に子を与えてやれる、その喜びで満ちていた。
己の遺伝子を受け継ぐ子の誕生の可能性で、沸きたっていた。
そして——妻は死に。
友人は切り刻まれ、男は夢に逃げた。
「ああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!」
何万も、何億も繰り返した夢の終わりに、男は絶叫とともに覚醒した。
動こうとして、全身をねっとりとした何かで拘束されていることに気がつく。
まさか、と思いながら、期待と絶望の間を揺れ動く心を強引に平坦な状態に戻す。
「気がつかれましたか、旦那様」
監視されていたのだろう、そこには美しい女がいた。
夢に見るほどに恋い焦がれ、悪夢に見るほどに愛した妻にそっくりな。
顔はなく、腕はなく、足はなく、胴体ですら定かではない。
口も目も鼻も耳もないのに、言葉を操り、多種族の文明を受け入れる懐の深い種族。
何一つ相似点はなく、決して分かり合えないと思っていたのに、どうしようもなく愛してしまった人。
己の意思で姿を変えられる異形星間種の女が、男の体を包んで拘束したまま形を変えた。
肌を刺すような痛みを覚えると、途端に男の一部が反応する。
「愛してくださいませ、旦那様」
凛とした声、見えもしないのに涼やかな眼差しを思わせる口調、そこにある何もかもが、失ったはずの女性のものであることに男は混乱した。
人の形ですらない女にのしかかられ、男はその液体のような表面に反射する己の姿に気がついた。
「……カバネを殺したのか」
それは目覚めの鍵に用意していた、破滅だけを求める人造人間の名前。
自分自身でありながら自分ではない、破滅に逃げるための弱さを許した不良品のバトルロイド。
鍵であるのに鍵にされないように、最後の最後まで抵抗をしたはずだ。
そういう精神状態を常に維持するように設定したのだから。
「いいえ、生きたまま再使用資源炉に放り込みましたわ」
女の言葉に思わず顔をしかめてしまう。
人造人間の遺骸は、可能な限り回収されている。
使い捨ても同然の肉塊とはいえ材料はただではないし、遺骸が腐敗すれば戦場だった土地を単純に汚染してしまうからだ。
かつて再使用資源炉に、仮死状態だったバトルロイドが、誤って放り込まれる事件があった。
その事件では、資源炉の調整を行なっていた複数の職員の精神的メンテナンスが必要になった。
「……ひどいな」
「ええ、貴方は一人だけでよろしいもの」
自分の最後は、どうなのか。
何万もの死を味わっているはずなのに、男は一度も死んだことがない。
目の前のこれが偽物であるように、男もまた偽物になりたかった。
そして、無駄なことをしている誰かに哀れみを覚える。
男を拘束するために彼女そっくり、いや、彼女のコピーを用意するのは正解だが、一つ見落としている。
男は金輪際、誰にも妻を利用させる気は無いのだ。
だからこそ彼女の遺伝子を利用した人造生命体に、自爆装置が自動的に組み込まれるように設定したのだ。
「『廃棄焼却』」
「ぎ!?、ぁああ……」
男の起動言語に反応して、ほんの瞬きの間だけ苦悶の声をあげ、それはわずかな煤となった。
拘束から解放された男は安堵のため息をついて、メディカルベッドから体を起こすと煤を払った。
五体満足であり、完全な健康体。
望んでもいないのに繰り返される悪夢を除けば、男は何も変わっていない。
その手には何一つ残っていないのに。
「アピテス、外はどうなっている」
【おはようございますエナ、本日は大銀河暦二四九〇〇八一〇二九四ウェイカル、惑星標準時間で百二十四年ハル季八日、朝の四時になります。
現在、外には将軍の率いる軍による厳戒態勢が敷かれております】
「そうか、それは随分愉快なことになってるな」
【将軍よりメッセージが一件あります】
「うん」
【〝目が覚めたら悪の王の打倒に手を貸せ〟以上です】
「……なにそれ?」
施設の管理を任せている人工知能が、確実な情報だけをまとめて報告してくる間、男は寝起きのぼんやりとした顔で座っていた。
「了解、で、さっきのコピーは誰の差し金?」
【鍵を持ってきたエビソメス派閥の確率は八〇パーセントです、残り二〇パーセントの内訳は——】
「それはいい、エビちゃん来たのか。
死にたいらしいな」
どうやら強引に施設の鍵を開けて、男を刺激したのは将軍では無いらしい。
外からメッセージを一件入力しただけ、ならば、男の覚醒には関わっていないのかもしれない。
とりあえず自分を叩き起こしたらしい、エビソメス派閥に属する奴らを皆殺しにしてやろうと思いながら、男は立ち上がる。
惑星標準時間で十八年ほど寝ていたらしいが、メディカルベッドのおかげで眠る前となにも変わっていない。
「アピテス、王宮に通達しておいてくれ〝踊り食いしてやるから待ってろ〟と」
【はい——送信しました】
「ありがと」
仕事を終えた人工知能は沈黙し、男は裸の体にコールスーツをまとう。
下着は必要ない。
コールスーツは第二の皮膚であり、生命維持装置でもあり、第一の鎧でもある。
鍛え上げられたままで維持されていた肉体の線がくっきりと浮き出た、赤銅色のスーツの上に黒い外気遮断外套をまとって、男は長い間眠っていた王墓を後にした。
男の妻は失われ、男には生きる理由がない。
目覚めてしまったからには、朽ち果てるまで戦い続ける道しか残っていない。
自分へ向けられている悪意と戦うついでに、悪の王とやらもぶっ殺してやろう、と笑いながら廊下を進む。
かつて無法を打ち砕き王になった男は、自らを無法の地へと置く。
自分だけで作られた軍勢を率い、自分だけの意思で破滅へと進む。
どうしようもない話