囚われの姫はうそをつく
みいこは普段通りだった。ほつれひとつないポニーテールで、色白の肌はつるつるで、ぱっちりとした目の下にクマなんてもちろんなくて。わたしはみいこが健やかであることがうれしくて、何も失われていないことが悲しかった。
「さやちゃん、寄り道して帰ろうか? 迎えの人なら大丈夫、うまくまくから」
帰り支度をしながらにこにこ話しかけてくるみいこ。静まり返った教室に、いやに声が響く。
隣の教室の騒がしさを遠く感じる。教室の生徒達は宇宙人を見るみたいな目でみいこを見ていた。何が正解かもわからず、ただ様子をうかがったり、何か耳打ちし合ったり、――ちょっかいをかけたり。
『新興宗教団体言霊会で、信者に手術を拒否させ、数日後この信者が死亡していたことが判明しました。――』
誰かのスマホからニュースの音声が流れた。大した音量でもなかったけど、静かな教室では全員の耳に届いただろう。誰の視線もものともしなかったみいこも、すばやく音の発生源に目を向ける。こちらをじっと見ていた男子が何事もなかったようにスマホをいじり、音は消える。
「みいこ、帰ろう」
「そうだね、さやちゃん。うちにおいでよ、まだお話しよう」
みいこは動じない。そういうのが、みいこは得意だった。得意になってしまった。ガラス一枚隔てた向こうで、微笑を浮かべて、きっと世界の終わりにだって笑っていられるのだろう。
「きもちわりい」
誰かの呟きが背中を刺しても、彼女は動じなかった。
校門の前には、無地のTシャツとジーパン姿の若い男が待ち構えていた。
「神子様、お疲れ様です」
みこさま。みいこはそう呼ばれて、軽く頷くだけで応える。校門脇には軽自動車が止まっていて、男はその後部座席の扉を開ける。
迎えがいるとは聞いていたけど実際に見るのは初めてで、わたしはいささか面食らった。普通の高校の面前で行うには、常軌を逸している。
「さやちゃん、先に乗って」
男は何も言わなかった。運転手を任されるくらいだ、みいこの家にかなり心酔しているのだろう。
わたしは奥の座席に座り、みいこと隣り合って他愛ないことを話した。どの芸能人が好きだとか、あの制服がかわいいだとか、都心の動物園で赤ちゃんが産まれた話だとか。普通の女子高生が普通に話しているであろうことがわたし達には特別で、お付きの男が口を挟まないでいてくれることが、不覚にもありがたいと思ってしまったほど。
やがて車は塀で囲まれた一画にたどり着く。近くにはカメラやら脚立やらを構えた人間が十人以上いて、車が門に吸い込まれていくとわらわら群がってきた。わたしはびっくりしたけど、みいこは「どうしたの、さやちゃん」と変わらない。
「写真に撮られちゃうよ」
「スモークだから大丈夫。窓に張り付かれる前に入るしね」
パパラッチ慣れしている女優みたいだ。
「さやちゃんの写真を撮られたら、週刊誌買ってスクラップしたいかも」
「それは、嫌だな。いろんな意味で」
みいこの言うとおり、至近距離でカメラを向けられる前に車は敷地へ滑り込んだ。
門を抜けた正面に、公民館みたいな建物が建っていた。その隣には小さな二階建ての家があり、両方を渡り廊下が繋いでいる。
車は門を通り、一軒家の前にたどり着く。男とはそこで別れ、わたし達は一見平凡な家に入る。みいこの家は、もともと普通の家だった。
「さやちゃん、どうぞ入って」
「お邪魔しまーす」
一応挨拶をして、靴を脱ぎ、きょろきょろとあたりを見回す。みいこは玄関に膝を着いてきちんと靴をそろえていた。思わず育ちの違いを感じてしまう。
テレビの音が漏れる部屋へ、みいこはまっすぐ歩いていく。そこは居間らしい、みいこの母親がテレビを食い入るように見つめていた。
『新興宗教団体言霊会』のテロップ。コメンテーターは表情筋が固まった顔で語っている。
『言葉の力で命を救う? そうやって金をだまし取りたいだけじゃないですか。割を食うのは子どもですよ。すぐに治療を受けさせてもらえていれば――』
「お母さん!」
みいこがテレビを遮る。母親は即座に電源を消し、みいこを振り返った。みいこに似た、整った顔立ち。しかし一層青白い顔色。
「『お母様』でしょう」
「お母様。うその言葉は悪影響だから、聞いてはいけないって言っていたでしょう」
「あなたに聞かせるつもりはありません。でもわたしはここを管理する者の一人として、知らなければならないから」
「ふうん」
みいこは何か言いたそうにしていたけど、我慢するみたいに口を引き結んだ。
「言いたいことがあるなら言いなさい。ただし、障りのないようよく考えて」
「……迎えの人、どうしてあんなに近くで待たせたの? 学校に知られちゃう」
「ニュースになっているのだから、知られるのは時間の問題でしょう。あなたの身の安全が最優先だから」
身の安全が守られるなら、みいこが社会的に死んでしまうことはどうでも良いらしい。いまさらか。
「わかったら、早く着替えなさい。今日は信者が不安がって、早く集まってるの。お父様は出かけているから、あなたが安心させてあげなさい」
「……はい」
わたしとお喋りするんじゃなかったんだっけ、なんて口を挟める雰囲気でもなく。「集会所で待ってるね」とだけ告げて、わたしはその場を離れた。
新興宗教団体言霊会とは、みいこの実家のことだ。
隣の建物には『言霊会』と毛筆の看板が掲げられ、中の集会所には昼間から数十人が集まっている。壁には『言葉には力が宿る』とか『嘘は魂の汚れ』だとか、いかにもそれらしい掛け軸がいくつも並んでいる。
「外のマスコミ見た?」
「わたしなんかインタビューされそうになって……」
「矢代さんちのお孫さんの件でしょ?」
「調子悪いって、最近はしょっちゅう来てたけどなあ」
信者達はざわざわと落ち着きがない。話題はニュースでも取り上げられている件だ。
言霊会の教義に従って、ありがたい言葉を受け取って身体の不調を治していたはずの信者が、亡くなったこと。
「神子様がいらっしゃいました」
波が引くように、おしゃべりが消えた。
集会所の壇上に、一人の女の子が立っていた。神社のものとは衿や帯の細部は違うけど、巫女装束をまとい、珠の連なったかんざしで髪を高く結い上げたみいこ。
「神子様」
信者達はみいこの姿を認めて、次々平伏する。みいこはそれを見下ろして、紅を引いた唇で微笑む。信者達の中で一人突っ立っているわたしはひどく目立ったろうけど、みいこはわたしを見なかった。
見て欲しくないんだろうなと、そう思った。いまのみいこは神子だから。
囚われのお姫様みたいだ、と思う。初めて見たときから、そう思っていた。
わたしがみいこを初めて見たのは、中学一年のとき。祖母が言霊会にはまり、わたしを連れていったから。
わたしの父はわたしが生まれてすぐ交通事故で亡くなり、母は中学に上がる直前に病気で亡くなった。――正確には、病気のため手術することになり、医療ミスにより亡くなった。
わたしは賠償金とともに祖母に引き取られた。祖母は善良な人だったけど、医療ミスのおかげで科学技術やらそれを扱う人間やらに懐疑的になり、スピリチュアル系のものを信じるようになった。それで、言霊会のカモにされた。
言霊を授かれるから、と祖母はわたしを言霊会へ連れていった。公民館みたいな宗教施設はできたばかりで最初は面白かったけど、ありがたいお話を聞いているうち眠くなってきた。普段は温厚な祖母なのに、わたしが舟を漕ぐと厳しく叱った。気づいたときには手遅れなくらい、祖母はすっかり言霊会に傾倒していたのだ。
ちゃんと聞けないなら外で反省してきなさい、と祖母はわたしを閉め出した。寒くも暑くもない時期だったけど、のんきに一人で待っていられるわけがない。怪しげな団体の土地で放り出されるのは、途轍もなく不安な気持ちにさせられたし、途方に暮れた。ひとけのない方へ歩いて、そして。
「神子様、どうかお言葉を」
わたしはとっさに植木に隠れて、向こうをのぞき見た。わたしとそう歳の変わらない女の子が、巫女装束を着ている。輪を掛けた怪しさではあるけど、女の子の格好は神秘的に映り、顔立ちの良さも相まって目を惹かれた。
「信仰を忘れずに、感謝を示せば必ず災厄は祓われます」
凜とした声で、彼女は告げる。相対する女はうずくまったかと思うと、その身体を震わせた。ぽたぽた涙が地面に落ちる。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
泣き崩れる女の肩を、女の子の後ろにいた男が支える。駐車場の方に向かいながら、「今回の寄付金は……」という声が漏れてきた。
感謝ってお金のこと? デリケートな場面を見てしまったのでは? 気づかれないうちに離れようとした。した、けど、女の子がうずくまる方が先だった。
「気分悪いの?」
放っておこうかとも思ったけど、それはなんだかここの信者よりもひどいような気がしたから。女の子は見慣れないわたしに目を丸くしたものの、細かいことを気にしている余裕はないようだった。
「ちょっと気持ち悪くて……ううん、気持ち悪くない。全然つらくない」
青白い顔で言われた。綺麗なのに変な子だな。
「うそつきは泥棒の始まりだっておばあちゃんが言ってた」
「うそじゃないもの。ただ言われたとおり言ってるだけ」
「それってうそと同じじゃない?」
「うそじゃない! 言葉にしたら、本当になるの」
さっき聞き流していた教義が、そんな話だった。言葉には力があるからうそをついてはいけないとか、魂には位があって、位の高い者ほど言葉に力があるとか。だから言霊会の偉い人達の言葉はありがたいんだとか、なんとか。
いかにもな格好をしているくらいだ、きっとこの子は偉い人の娘なんだろう。
「じゃあなんでつらそうなの」
さっきの女の人が涙を流す前から、うそをついているときから、彼女はずっと泣きそうな顔をしていた。泣き崩れた女の人を見て、苦しそうに胸を押さえていた。
「つらくなんかない」
彼女の目に水の膜が張る。強がっても、綺麗な子は綺麗なままなのだと知る。
「思い込みたいだけでしょ。でも本当にはそう思ってない。だから涙が出るし気分が悪いんだ。わたしはきみのうそなんて信じないよ、いくらだって心配する。目の前の顔色の方が、ずっと大事な――」
さらに続けようとした言葉が、小さな衝撃に呑まれる。涙をこらえ、しかし我慢しきれなくなった彼女は、わたしの胸に飛び込んできた。
「ごめん。ごめんね、泣かして」
「泣いてない」
震える身体をぽんぽんと叩き、なだめる。妹がいたらこんな感じなのかな。
「逃げればいいのに……なんて、わたしに言う資格ないか」
わたしだって、祖母から逃げればいい。怪しい思想に染まっている祖母に困っているのなら、こんなところについてこないで、保護施設に駆け込めばいい。でも、わたしがいなくなったら祖母はどうするだろう、わたしはどうなるだろう。
現状から動き出すには勇気が要る。言葉にするよりずっと。
「わたしは神子だから」
胸元でくぐもった声がする。
「みこ? 名前?」
「ううん、神様の子どもで、神子。特別な力があるんだって。だから、たくさん言葉をかけないといけないの。ここで」
彼女は囚われているんだ、と思った。わたしと同じか、それ以上に。塔に囚われた、お姫様みたいに。
助けてあげたいと思った。彼女がもう、うそに苦しまなくていいように。
翌日、教室は氷点下の温度でみいこを迎えた。
みいこの机には、マーカーで『人殺し』と書かれていた。中に置いていた教科書は破かれ、椅子は窓の外へ落とされていた。
「なに、これ」
震えた声を出したのはわたしで、みいこは無表情のまま。それが面白くなかったらしい、昨日ちょっかいをかけてきた男子が、みいこの前に出る。
「お前んち、最近ニュースでやってる宗教の家なんだろ? 女子高生に治療受けさせないで殺したって騒いでる」
「殺してない」
みいこは静かな声で返した。それが事実であると主張するように。
「言葉にすれば本当になるって、本気で信じてるのかよ? 昨日迎えにきてた男もその宗教に入ってるんだろ? 頭おかしいんじゃねえの」
「みいこ、相手にしなくていい。もう学校にも来ない方がいい。無視して帰ろう」
クラスメイト達はみいこを囲むように遠巻きに見ている。誰も助けてくれない。
「さやちゃん、でも」
「昨日から誰と話してるんだよ、気持ちわりいな!」
氷浸けされたみたいに、みいこの顔が固まる。
「さやちゃんはここにいる。あなたは程度が低いから、わからないだけ」
「本当に頭おかしいんじゃね」
「みいこ」
男子に何を言われようと表情を揺るがさないみいこが、わたしの呼びかけにびくりとする。怯えた顔でわたしを見る。
「みいこ、もううそをつかなくていい」
「うそなんかついてない」
「わたしが生きてるみたいに、振る舞わなくていい」
ふるふると、かぶりを振る。
「やめて、さやちゃん。言葉には力があるんだよ。そんな風に言わないで。言葉が負けちゃう――負けないから、やめて」
世界が終わるよりもひどい顔を、みいこにさせてしまった。わたしはビードロを壁に叩きつけたような気持ちになる。どんなに綺麗で惜しくても、粉々になったガラスは元に戻らない。
「昨日、突然現れたわたしを、みいこは遊びにきたみたいに迎えてくれたよね。わたしもすぐには自分が死んだなんて気づけなかったけど、さすがにいままで気づかないほど馬鹿じゃないよ」
「死んでない、さやちゃんはまだ死なないの」
みいこはわたししか見ていない。クラスメイト達はわたしに語りかけるみいこに怯え、驚き、ただじっと見つめることしかできないようだった。みいこにしか、わたしは見えない。
「ねえ、みいこ。わたし達、同じだなって思ってた。今の状態じゃだめだって思いながら、動かずにいたでしょ? 同じだからだめだったのかも。ひとりじゃ堪えられなくても、二人なら馴れ合って平気な気がしちゃうもんね」
わたしはお姫様を助ける王子じゃなくて、塔に引き留める魔女になっていたのかもしれない。助けたいなんて口ばかりで。
「わたしがここにいる理由ってたぶん、みいこなんだよ。みいこに外に出てほしい。うそをつき続けて、囚われのお姫様のままでいてほしくない」
「うそなんかついてない。さやちゃんは生きてる。さやちゃんもそう言って」
みいこは聞く耳を持ってくれない。でもわたしも譲るつもりはない。ゆるく、しかししっかりと首を振るわたしに、みいこは後退りした。
「わたしはみいこのうそになりたくない」
瞬き一つするごとに、みいこの目が潤んでいく。しかしいつかのときとは違い、みいこはわたしの胸に飛び込むことなく、現実から、わたしから逃げた。
自分が死ぬ心当たりというのはあった。
最近調子悪いな、と思っていたから。後頭部が痛いとか、めまいがするとか、目がかすむとか。
祖母に伝えてみれば、快癒の言葉をもらえば治ると言霊会に連れて行かれた。教祖との面会の長い列と、祖母が握りしめた現金入りの封筒に、わたしは頭痛がひどくなった気がした。病院に行くので結構ですと伝えてみたけど、祖母にも教祖にも猛反対された。
毎日毎日連れていかれても、もちろん症状は良くならない。それでこっそり病院に行ってみたら、精密検査を勧められた。それも早急に。
しかし病院に行ったことが祖母にばれた。せっかく検査の予約をしたのにすっぽかし、言霊会の合宿を強制され、祖母に引きずられ向かっている途中。
急に足に力が入らなくなった。なんか変だ、と戸惑っていると、頭を鈍器で殴られた衝撃が襲った。そしてわたしの意識は途切れ、気づいたらみいこの前に立っていた。みいこだけに見える状態で。
みいこはニュースを避けていたけど、断片的な情報は入るし、状況から推測はできる。
どうやらわたしは死んでしまったらしい。そして、言霊会はわたしに適切な治療を受けさせなかったことでバッシングを受けているようだった。
今日の集会にも教祖は出ない。
壇上には運営を任されている幹部と、みいこが立っている。みいこは微笑を浮かべたまま、わたしが話しかけても反応してくれなくなった。観衆側の信者達はざわつき、壇上に不安と不審の声を向けている。教祖はどこだという怒鳴り声に、世間の騒ぎを収めるための祈祷中ですと幹部が応える。
実のところ教祖は寝室に閉じこもり睡眠という現実逃避に走っていることを、わたしは知っている。祈祷室は深層意識の中にあったらしい。娘を矢面に立たせておきながら、良いご身分だ。
「神子様! さやは、うちの子は」
演壇に上ろうとする人物がいた。わたしのただひとりの家族、祖母だ。わたしの名を呼んで、幹部に制止されながら、みいこに向かう祖母。
みいこははっとして、幹部を下がらせた。なんとか壇の端に上がった祖母は、腰を曲げて息をする。みいこは背中をさすってくれた。そんな二人を、いつの間にか静かになった人々が固唾を呑んで見守っていた。
「神子様、たくさん、たくさんのお言葉を頂戴しました。さやは治るはずです。生きてここに、わたしの前に……っ」
祖母は目から涙をあふれさせ、床に膝をついた。みいこも一緒にしゃがみこんだ。祖母はみいこの手を握り、縋り付く。孫と同い年の女の子に。
「大丈夫だと言ってください! さやは生きていると、また一緒に暮らせると……っ、どうか、お言葉を」
みいこは笑みの形のまま、唇を閉ざしていた。取り縋る祖母に、かける言葉が見つからないみたいに。迷ってくれているんだ、祖母とみいこ自身をだますことに。
「みいこ、おばあちゃんのこと、かわいそうだって思ってるでしょ。孫が死んだことを受け入れられずに、みいこに否定してもらおうとしてる。ひょっとしたら、みいこの言葉を信じてわたしが生きてるみたいに振る舞うかもしれない。でも、うそをつき続けるのはつらいよ。おばあちゃんにもみいこにも、そんな思いはしてほしくない。みいこ、我慢してたでしょ?」
みいこはうつむいて、かすかに首を横に振る。
「うそは、嫌だけど。わたしのために、わたしが生きてるみたいに振る舞ってくれたこと、うれしかった。みいこの気持ちがうれしかったんだよ。だからね、もうその気持ちだけで十分だよ。うそは本当にはならないけど、うそにこもった気持ちはちゃんと受け取った」
だからもう、みいこは囚われないでほしい。わたしのためにうそをつき続けて、でもわたしの祖母に同じ思いをさせるのは躊躇う、とても優しくて、中身も綺麗な子。
長い長い沈黙の後、みいこは口を開いた。
「さやちゃんは、生きてます」
「……みいこ」
これだけ言って、わたしの思いは伝わらなかったのか。一瞬落ち込みかけたけど、みいこは顔をあげて続けた。
「それは、わたしの願いです。口に出すだけの願望で、この言葉に特別な力なんて何もありません」
急に、その場に音が戻った。一般信者も幹部も、皆が驚愕の声を漏らし、自分の耳を疑った。
壇上の祖母も、それは同じ。見開いた目からは涙が止まり、みいこをひたすらに見つめている。
「さやちゃんは、でたらめな言葉でも、気持ちがうれしいって言ってくれます。でも気持ちを伝えるなら、本当の言葉の方が良いに決まってるから。だから、目の前のことをちゃんと見て、受け取って、さやちゃんに気持ちを伝えてあげてください。わたしも最初から、そうするべきでした」
みいこはそう、祖母に語りかけてくれた。うその笑顔なんか浮かべない、余裕なんてかけらもない強ばった顔で。
「神子を下がらせて!」
みいこの母親が演壇の袖から口を出した。幹部が慌ててみいこに迫る。
「みいこ、逃げて!」
とっさにそう叫んでいた。みいこは弾かれたように立ち上がるけど、すでに左右から挟み撃ちにされている。しかし迷わず観衆側へ飛び降りた。
「神子を止めて!」
駆け抜けるみいこに、会員達は右往左往する。避ける者、一応捕まえようとする者、棒立ちの者。神子は神聖なもので、触れてはならないという教義だったはず。みいこの母親も混乱しているらしい。
みいこは出口にたどり着くと、振り返って告げた。
「わたしは神子じゃなくてみいこだよ、お母さん!」
みいこの母に、そしてその場の会員達に、みいこはただのみいこであることを。
これ以上ないくらい、わたしは良い気分だった。みいこは自分の足で外に出てくれた。
「最高だよ、みいこ!」
駐車場の陰に隠れいったん呼吸を整えるみいこに、声をかける。
「さやちゃんが言ってくれたから――、さやちゃん!?」
みいこの視線が、わたしの身体をなぞる。わたしは透けて、下半身が消えかけていた。
「安心したからかな。未練がなくなったのかも」
みいこの目から、涙が零れる。やだな、いまのわたしじゃもう、拭ってあげることもできない。
「さやちゃん。わたし、さやちゃんの高校に迎えに行きたかった。帰りに駅前で洋服見て、アイス食べて、だらだら過ごして。さやちゃんとお泊まり会もしたかった」
嗚咽が混じる、みいこの吐露。わたしの視界がにじむのは、身体が透けるのとはきっと無関係だろう。
「まだたくさん話したい。言い足りないの。言ってないことばかりなんだよ。さやちゃんがいてくれなくちゃ……」
みいこの声は涙に呑まれる。思わず手を伸ばした。伸ばしたけど、わたしの手も感覚も、溶けたみたいにどこにもない。
うそみたいに消えていくから、みいこに届くように泣きながら叫んだ。
「わたし聞くよ。全部聞く。ちゃんと聞く! だから、みいこ、もう囚われないでね。わたしだってみいこの本当の声、ずっと聞いてたいんだから!」
そして今度こそ、わたしの意識は深い眠りへ落ちていく。
「さやちゃん、いつまで寝てるの?」
はっと目を覚ますと、目の前には端正な美少女の顔。そして彼女が手に持つのは、家を出なければならない時刻をさした目覚まし時計。
「みいこ、どうして早く起こしてくれないの!」
「わたしは起こしたもの」
みいこはわたしの通う高校の制服を着ている。わたしの方が着慣れているのに、かわいいと評判の制服はやはりみいこの方が似合う。
あの事件後、みいこはわたしの高校に転校した。
そもそも『女子高生に適切な治療を受けさせず死亡させた事件』は、事実ではない。スクープを競ったマスコミの早とちりだった。
確かにわたしは倒れたけど、通行人が救急に電話してくれて、倒れた後はしっかり治療を受けていた。救急搬送に祖母は抵抗したものの、幸か不幸か尋常じゃない程取り乱し、失神していたのだという。祖母が言霊会の熱心な信者であること、わたしが検査を受けられず倒れたこと、両親が亡くなっていることが混ざり合い、『女子高生に適切な治療を受けさせず死亡させた事件』はできたようだ。
数日間、わたしは集中治療室で昏睡状態だった。その数日間に、みいこと過ごした二日間が含まれる。
あくどい集金を行っていたみいこの両親は、詐欺容疑で捕まった。わたしの事件で目を覚ました人達がいたからだ――祖母を含めて。
「ごみ出し当番代わってあげたから、お風呂掃除代わってね」
限界を超えた早着替えに挑戦するわたしに、みいこはにこにこと声をかける。
みいこはわたしと祖母と一緒に暮らしている。わたしの通う高校に転校もした。夢に見たような毎日だけど、みいこは奇異の目にさらされ続けたし、死にかけたわたしもリハビリに長い時間をかけた。単純なハッピーエンドかと聞かれれば、違う。綺麗に解決したことなんてないんだけど。
「さやちゃん、今日は帰りに洋服見に行こう。それとアイスも食べるの」
みいこが屈託なく笑ってくれると、まあいいか、と思ってしまう。みいこはもううそをつかない。囚われのお姫様は、どこにもいない。