螺子と睡蓮が流れる川
バカな科学者の話をしよう。
出会ったのは大学の研究室。
優秀で天才と呼ばれていた私は他の学生に一目置かれていた。
皆が「高梨さん」と名字で呼ぶ中、あいつだけは私のことを「麗ちゃん」と呼んだ。
出来の悪い所謂落ちこぼれだったあいつ。
また自分で言うのもなんだが美人に分類される人間であった私。
その為、「お前ごときが」と他の男らからの非難も多くあったようだが、そんなことちっとも気にしなかったあいつは私の家まで来るようになった。
マンションの一室。
我が家のからっぽの冷蔵庫を見てあいつは唖然とした。
「麗ちゃんは一体何を食べて生きているの?」と訊かれ、袋いっぱいのゼリー飲料を見せたら、憤慨しながら買い物に出かけて行った。
袋いっぱいに食材を買い込んで、全く使われていない新品同然の台所で料理を始めた。
机の上に置かれたオムライス。
ご丁寧に国旗の旗までつけられて「子ども扱いするな」と怒ったが、食べてみるとこれがものすごくおいしくて夢中で食べた。
おかわりを要求する私にあいつは言った。
「麗ちゃん、いい? おいしいってとても幸せなことなんだよ。もっともっとたくさんおいしい食事をしなきゃダメだよ」
だから、私は答えた。
「じゃあ、お前が作れ」と。
その日からあいつは毎日のようにご飯を作りにくるようになった。
我が家のからっぽの冷蔵庫は常に食材で満たされるようになり、通うのも面倒だろうと一緒に住むようになった。
いつの間にかそこにいるのが当然になっていた。
出不精の私は家で過ごすことが好きだった。
あいつともほとんどの時間を家で過ごした。
大学卒業を機に、自分には向いていないからとあっさり研究をやめ、一般企業にあいつが就職してからは余計にそうだった。
でも、ある日、珍しくドライブに誘われたことがあった。
私の誕生日。7月7日。
あいつはやけに機嫌がよくて、いつも笑っている奴だったが、いつも以上ににこにこしていた。
反対に私は大変不機嫌だった。
車から降りて歩かされながらぶつぶつ呟いた。
「何でこのクソ暑い日にわざわざ外に出なきゃいけないんだ。お前は私を溶けさせたいのか」
「人間、そんな簡単に溶けないから大丈夫だよ」
「そう言う問題じゃない。誕生日に何でこんな苦痛を味わわなきゃいけないのかと言ってるんだ」
「ねえ、麗ちゃん。麗ちゃんの誕生花って何だか知ってる?」
「は? 睡蓮だろ。花束にも出来ないつまらない花だ」
眉間に深く皺が寄る。
昔、自分を口説こうとした男のことを思い出した。
誕生花をプレゼントしようと私の誕生日を訊いて勝手にがっかりしていた男。
私は思ったものだ。
悪かったな、プレゼントしにくい花で。
あいつはくすくすとおかしそうに笑った。
「僕は麗ちゃんの誕生花、好きだけどな。だって――」
そうして静かに前を指さした。
そこには――
私は目を見開いた。
見事な錦鯉が泳いでいる池。きっと鯉たちが泳いでいなければ水があることも分からないほどの透明さにエメナルドグリーンの底が透けて見える。
そこに白い睡蓮が咲いていた。
それはあまりに綺麗な光景で。
「見惚れる」とはこういうことなのだと思った。
あいつは本当に嬉しそうにそんな私を見て言った。
「こうやって一緒に見に行けるじゃない」
その通りだと。
素直に認めるのは悔しいから。
私はそっとあいつの手を握った。
あいつはちょっと驚いた顔をして、それから微笑みながら握り返してくれた。
一緒にいると好きなものがどんどん増えていった。
1つ2つ3つ。
このままだと私の周りは好きなものだらけになってしまう。
そんな心配をしていた時、それはあっさり解決してしまった。
気付いた時は手遅れだった。
食べることが大好きだったあいつの食欲がなくなっていって。
どうしたものかと病院に行ったら残りの命を告げられた。
どうすることも出来なかった。
どんなに天才と呼ばれていようが私の頭の中にある知識はちっとも役に立たなくて。
ただただあいつの命が削られていくのを見ているしかなかった。
最後の時が近付いた時、病室ですっかり細くなった手で私の手を握りながらあいつは言った。
「麗ちゃん、今まで秘密にしてたんだけどね。僕は君が好きなんだ」
私は1つ大きく瞬きをして、それから顔をしかめた。
「お前に良いことを教えてやるよ。秘密っていうのはもっと隠すものなんだ」
あいつはおかしそうに笑った。
「そっか、良いことを教えてもらった。ねぇ、僕がいなくなっても泣いちゃだめだよ」
「ふざけるな……」
「はは、そうだよね。麗ちゃんは泣かないよね」
「そんなの、泣くに決まってるだろ」
あいつは驚いたような顔をして、そうして、泣きそうな顔で笑った。
「そっか……」
私は両手で顔を覆った。
「今まで秘密にしていたけれど、私はお前が好きなんだ」
「麗ちゃん、良いことを教えてあげる。僕もさっき知ったんだけどね」
あいつの両腕が私を抱きしめて、
「秘密っていうのはもっと隠すものなんだよ」
その温かさが悲しくて仕方がなかった。
人ひとりいなくなっただけなのに、空白はあまりに大き過ぎた。
日常の中に「ぽっかり」がたくさんあって。
どこを見てもあいつの跡がたくさんあった。
1つ2つ3つ。
もらった好きなものを数えては数え終わってまた数え直す日々。
このままでは駄目だと研究に没頭しようとしたけれど、皮肉にもそれは1つの考えに結びついてしまう。
私が研究していたのはアンドロイドについて。
「そうだ」と思ってしまった。
もう帰ってこないのなら作ればいい。
さあ、死なないあいつを作ろうじゃないか。
バカな科学者のこれまではこれで終わりだ。
ここからはそれからの話をしようじゃないか。
結論から言うならば10年の月日をかけてそれは完成した。
今、私の傍には見た目も声も性格さえも全てあいつと同じ完璧なアンドロイドが存在している。
私は懸命に教えた。好きも嫌いも癖も思い出も。
アンドロイドはとても正確にそれらを覚え、どんどんとあいつらしくなっていった。
だが、
「麗ちゃん、何してるの?」
ガンガンにクーラーがきいた室内。
ソファーに座りノートパソコンをいじる私の前に氷の入ったアイスコ―ヒーが置かれる。
見上げるとそこにはホットコーヒーを片手にカーディガンを着たあいつが立っていて、極端に暑いのが苦手な私と逆らうことを諦めたあいつのいつもの夏の風景だった。
1つだけ違うのは、
「お前の頭の中を見てるんだよ」
私がいじっているのがあいつのメンテナンスソフトだということだ。
たくさんのフォルダー。
そこには様々な私が教えたことが詰め込まれている。
最後の更新日は今年の春。
内容は桜が咲くと花見をしたがり、弱いくせに酒を飲んで泣き上戸で泣いていたというものだ。
「ああ、最近、全然増えてない僕の頭の中ね」
隣に腰かけホットコーヒーを飲むあいつ。
「もう充分教えただろ」
「からっぽのフォルダーがあるじゃない」
指さされた先にあるのは「愛」というフォルダー。
私は目を細める。
「これはただあるだけだ」
「あるだけ? どんなものにも生まれた理由があると思うけどね」
「お前は本当に面倒くさいな」
「ありがとう、褒めてくれているんだね」
そう、今、正しく私を悩ましているのがこれだ。
「愛」
これが無ければあいつじゃない。
でも、明確に口にしなくても伝わっていた。
あのどうしようもなく大切でどうしようもなく愛しかったあの気持ちをどうやって教えればいいんだろう。
ぼんやりとフォルダーを見つめながら無意味にカーソルを動かしているとふと一つのものに目が止まった。
「ん? 何だこれは」
眉間に寄る皺。
その目線の先には見たことのないフォルダーが表示されていた。
名前のないフォルダー。
こんなものを作った覚えはない。
「ああ、それはただあるだけだよ」
「どんなものにも生まれた理由があるんじゃないのか」
「そんなこと誰が言ったかな」
「おい、鍵がかかっているぞ。パスワードを教えろ」
「この中身を入れてくれたら教えてあげるよ」
とんとんと「愛」のフォルダを人差し指で叩いて空のマグカップを持って立ち上がるあいつ。
ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。
口でこいつに勝てたことがない。
悔しくて「うー」とうなっていると台所でスポンジに泡をたてながら思い出したようにあいつが言った。
「あ、そうだ、麗ちゃん。早くそれ飲んでスーパーに行かないと」
「は? 何で私が。勝手に行ってくればいいだろうが」
「今日、卵が安いんだよ。お1人様1パック。一緒に行ってくれるか、分身する方法を教えるか、どっちがいい?」
「私はどこの忍者だ」
仕方なく飲みほすべく私はアイスコーヒーをつかんだ。
卵1パックのみ片手に持って、他の荷物は全てあいつに持たせて、スーパーから家への帰り道を歩く。
並ぶ夕暮れの道。
一緒に歩くだけでやけに機嫌が良くて、めちゃくちゃな鼻歌を口ずさんでは少しでも長くとゆっくり歩く。
その姿は私が教えた通りのものだ。
「あ、」
自分たちを追い越そうとした人を見てふとあいつの足が止まる。
「?」
私の足もつられて止まる。
あいつは人懐っこい顔で微笑む。
「こんばんは」
見ると同じスーパーの袋を持ったおばあさんがにこやかに立っていた。
「こんばんは。あら、卵?」
「ええ、今日、安いですもんね」
私は無言でその様子を見ていた。
目で合図をする。
この人だれだ?
あいつは呆れた顔で口だけで伝える。
ご近所さん。
ああ、なるほど。
こいつ、よくご近所さんの顔なんて覚えてるな。
おばあさんは私にも笑顔で話しかける。
「2人で2パック。いいですねえ、しっかりものの弟さんがいて」
「え」
短く出る言葉。
おばあさんは慌てたように口に手を当てた。
「あ、ごめんなさい。もしかして、年下の恋人さんだったかしら」
「…………」
私は何も返せないでいた。
弟? 年下の恋人?
どちらも違う。
私たちは同い年のはずだろう?
「ちょ、麗ちゃん、痛いよ」
乱暴にあいつの手を引っ張って、私は玄関の扉を開けた。
洗面所に向かい、鏡の前に出る。
映す2人で並んだ姿。
驚く。
並んだ若い男とおばさん。
2人の間には確かに年の差があった。
あいつが死んだ後の年月がしっかりと私の中に浮かんでいる。
ああ、なんていうことだ。
歳をとらせるのは簡単だ。想像すればいい。おじさんになったあいつを。
でも、それはあくまで想像でしかない。
私は歳をとったあいつを知らない。
あいつがどんな風に顔に皺を刻み、老いていったか私は知らない。
私が生きていけばいくほどに、作り物になっていく。
「麗ちゃん?」
心配そうに覗き込まれる顔。
私は嗤う。
思い知らされる。
死なないあいつなんてどこにもいないじゃないか。
そのまま意識は失われ、最後に見たのはあいつの慌てた顔だった。
目を覚ますと自室のベッドの上にいた。
コンコンとノックする音が聞こえる。
控えめに開かれる扉。
「麗ちゃん、起きてる?」
お盆にのった小さな土鍋。
玉子がゆだ。
見ただけで分かってしまう。
体調を崩すといつもあいつが作ってくれたもの。
「作ってみたんだけど食べられるかな?」
蓋を開けるとあがる湯気と胃をくすぐる美味しそうな匂い。
玉子とお米だけのシンプルなおかゆ。
どんなに食欲がない時でもこれだけは食べることが出来た。
起き上がる。
レンゲにのせられたそれは息を吹きかけ冷まされる。
「はい、あ~ん」と私の口元に運ばれる。
いつもなら「子ども扱いするな」と怒るところだ。
でも、今日は、
「あれ?」
驚いたようなあいつの顔。
私がしおらしく素直に口を開けたから。
食べる。
口に入れると広がる優しい優しい味。
「おいしい……」
心からの言葉がこぼれでる。
「……どうしたの?」
私の手にそっと重ねられる手。
本当に心配している表情。
どうして私よりお前が辛そうなんだ。
私はあいつの頬に触れる。
温かい。
当たり前だ、私がそう作ったんだから。
あいつそっくりの温度に。
でも、その通りに作ったからこそお前の若さを思い知る。
決断をしよう。
私は静かに微笑み告げる。
「今までありがとう。バカな科学者の夢はもう終わりだ」
その言葉にあいつの瞳は大きく揺れる。
「どういうこと?」
「私が今まで教えた全ての記憶を消去する。お前は普通のアンドロイドに戻るんだ」
「何でそんなこと! 嫌だよ!」
「人間のいうことがきけないのか」
「っつ!」
お前の頬から手を放し、お前の手を払う。
私とお前は違う。
私は初めてお前を人間として扱うことをやめる。
「……ずるいよ、麗ちゃん」
「後のことは心配するな。ちゃんと大切にしてくれるところを探してやる。お前は私の知識全てを注いだ優秀なアンドロイド。心当たりはたくさんある」
「僕は僕の心配をしているんじゃない」
「じゃあ、他に何が心配だ?」
「君のことだよ」
「私のこと?」
「君はまた一人ぼっちになってしまうじゃないか……」
泣きそうな顔でそんなことを言うから。
沈めていたものを思い出してしまう。
初めて神様に祈った人だった。
神頼みなどしたことがない。
欲しいものは自分の力で手に入れる。
託すより努力を選ぶ人間だった。
そんな私が初めて祈った。
傍にいさせて下さいと。
どうか、どうか、この人の傍にいさせて下さいと。
揺らぐな、心よ。
「私のノートパソコンを持ってきてくれ、今すぐに、」
奮い立たせて告げる命令。
あいつはまだ何か言いたそうだったが、逆らえないものに仕方なく部屋を出ていった。
うなだれて苦笑する。
おかしい。
本当におかしな話じゃないか。
どこの世界に主人の孤独を心配するアンドロイドがいると言うんだ。
少しの時間が経った後、あいつはノートパソコンを片手に戻ってきた。
「はい……」
手渡され、私はソフトを起動する。
出てくるあいつの頭の中。
たくさん教えたものだ。
私はまずからっぽの「愛」のフォルダーを削除する。
一番いらないものだ。
苦痛の表情であいつはその様子を眺めている。
1つ、2つ、3つとフォルダーを消していく。
一気に消せばいいものを私も諦めが悪い。
ああ、そうだ、この見知らぬフォルダーも消さなければ。
カーソルを持って行った時、あいつの手が私の手をつかんだ。
「……何だ」
睨み付ける。
あいつはより強く私の手をつかみ、必死に私の目を見つめる。
「お願いがあるんだ。そのフォルダーだけは消さないで」
「……ここには何が入っている?」
「それは……」
「パスワードを教えろ」
あいつは少し考えた後、口にした。
「麗ちゃんの誕生日……」
「私の?」
訝し気に眉をひそめ、入力する。
0707。
フォルダーは開く。
目の前に広がる光景。
それは――
息を呑む。
無機質な螺子が流れる透明な川。
そこに彩るように花がいくつも咲いていた。
白い睡蓮。
「何だ、これは……」
こんなもの、教えた覚えがない。
あいつは画面を見つめながら、ぽつりぽつりと語りだす。
「最初はデータにすらならないほど小さなものだったんだ。僕の中に初めからあった螺子の川。そこに君がひとつ僕について教えてくれる度、この白い花が咲いた。ひとつ、またひとつ。そうして、ここまで大きくなった」
慈しむように花を指先で撫でる。
「僕はこの花の名前を知らない。このフォルダーをどう名付ければいいかも分からない。でも、どうしようもなく大切で、どうしようもなく愛しい。ねぇ、せめてこれだけは失いたくないんだよ」
懸命な願い。
揺らぐな、心よ。
揺らぐな、心よ?
無理を言うなよ。
「消せるわけないだろ……」
ぽたりぽたりと。
あふれてあふれて止まらない。
あんなにも悩んでいたものは教えなくてもここにあった。
私の知らないところで咲いてくれていた。
泣きじゃくる私をあいつの両腕が抱きしめる。
それはお互いの秘密を打ち明けた時と同じ温度で。
主人ではなく恋人として、私は大きな声で泣いた。
次の日、目を赤く腫らしてリビングに行くとあいつがいつも通りエプロン姿で台所に立っていた。
「あ、麗ちゃん、おめでとう」
朝の挨拶としては変わっていると思ったが、おかげで今日が何の日だったか思い出す。
「はい、どうぞ」
席に着くと前に置かれるオムライス。
ご丁寧にも国旗付き。
旗を倒さないようにスプーンを入れて、食べるとやっぱりおいしくて。
私は決断をする。
「なあ、このあと少し出掛けないか?」
「出掛ける? 麗ちゃんが?」
「ああ、一緒に見てほしい花があるんだ」
「何の花?」
口元に浮かぶ笑み。
「私が生まれた日の花だよ」
これから先、私は何度この日を迎えるだろう。
これから先、私たちは何と呼ばれていくんだろう。
姉と弟。母親と息子。祖母と孫。
死なないあいつなんてどこにもいない。
それでも、バカな科学者は願うのだ。
咲かせてほしいと。
君の川に私の花を。
君が好きにさせてくれた私の花をその場所に、と。