狼たち
星が明かりで霞んで見えない祇園祭の宵山々の日。人々の祭りの前の高揚した気持ちとは反する、甲高い掛け声や悲鳴、低い怒号が夜の京の街に轟く夜となる。
旅籠である池田屋では攘夷志士達の会合が行われていた。会合とは言え、話の内容はと言うととても恐ろしいものであった。
孝明天皇を長州に拉致し、京の街を火の海にするというもの。
それを聞き付けた新撰組が池田屋を襲撃した。
世に言う池田屋事件である。
元治元年6月のことだ。
「御用改めである!」
その野太い声と共に荒々しく扉が開かれると、鎖帷子と浅葱色の羽織を着込んだ4人が立っていた。新撰組局長、近藤勇が発した声だ。
二階からバタバタと何人もの足音が鳴り響く。店主は奥の志士達に報せに走るが、近藤に殴り倒された。そのまま4人は建物内に立ち入り、2階へ向かう隊士、奥へ向かう隊士、と別れて行った。
2階には既に志士達が抜刀して待ち構えていた。あちらこちらに食器は散乱し、酒が零れている。すぐさま斬り合いが始まった。刃がぶつかり合う高い音が響く。しかし窓から飛び降りて逃走する志士もいた。勿論逃げられるはずが無い。隊士や、3000人とも言われる諸藩の兵が待ち構えていて、捕縛されるか斬られるか。そのどちらかしか選択肢が与えられていないと言っても過言では無いだろう。また、池田屋は中屋、みすやと言う旅籠が隣り合っていた。そのため十分な広さが無く、混乱を極めた。
それを少し離れた物陰から息を潜めて見ている人物がいたことは彼らが知る由も無かった。
時間差で第2部隊である土方歳三が率いる隊が池田屋に到着し、参戦した。戦力が先程と比べると圧倒的に異なる様で、目覚ましい活躍ぶりとなる。
断末魔の叫びが否応なしに聞こえてくる。血飛沫で月明かりに照らされた壁は赤黒く、錆びた鉄の匂いが辺りに立ちこめていた。あちらこちらに怪我をしてうずくまっている者がいる。人だったものも倒れている。そんな中、数少ない未だ何事も無かった場所である風呂場に、逃げ遅れた女中がいた。
名は小夜と言う。
討ち入りの前はそこで掃除をしていたのだが、恐怖のあまりそのまま風呂場の隅で動けなくなっている。暗闇にいることで余計に恐怖感が煽られる。冷や汗が出て息は浅く、手や脚が震えていてまともに動けない。このまま誰にも見つからない様にと願っていた。しかし、その願いは届かなかった。
戸が勢い良く開かれた。見つかったのである。心臓が止まりそうになる。明かりが微かに差し込んで来たため、大まかな格好は把握する事が出来た。長めの髪がふわりと揺れたのが目に入った。
そして、入ってきた人物と目が合うと小夜は声にならない悲鳴を上げる。見つかったことによりプツリと糸が切れたように彼女の意識が途切れた。
この時、ただの一人の少女であった小夜の運命が大きく変化することとなる。
この事件では、双方に被害が出た。新撰組側ではまだ若い隊士1人が犠牲となった。また、犠牲となった隊士と共に守備をしていた2人の隊士が重傷。沖田総司が病により喀血し意識不明。藤堂平助がこめかみを斬られた。
攘夷志士側は残党狩りを含めると殺害7人、負傷4人、捕縛23人と事件後の近藤の手紙に記されていた。
屋内に限ると、宮部鼎三、広岡浪秀、石川潤次郎、福岡祐次郎が犠牲となったとされている。宮部の存在は志士側にとって特に大きかったとされ、かなりの打撃を受けたことだろう。
また、「壬生狼」と恐れられていた彼らの名が、「新撰組」として良くも悪くも京の町中に知れ渡る日となった。
また、明治維新を早めたとも遅らせたとも言われるため、幕末史に於いても重大な出来事だろう。