そこにあり / “賢者の瞳”リオナ
同胞を滅ぼせ、その言葉にガドッカの体が不自然に震えていた。機械特有の軋みがぎりぎりと不愉快な音を鳴らす。
信じられないとばかり、彼の体から蒸気が断続的に噴き上がる。
「そのような、非道が……」
「決定事項です」
機械の人形、アイシィがガンガンと金属音を手で鳴らす。聞き分けのない子供に言い聞かせるような様子に見える。
まだ戸惑い、動かないガドッカに珍しくサブアが柔らかく口を開いた。
「契約を破ったのは、上に住む連中だ。気に病むな」
「あなたねぇ」
リオナは指で眉間を強く推すが、それを禿頭の魔術師が鼻で笑う。
「どうしようもあるまい、神に仕えるというのはそういうものだろうよ。そもそも警告はあったのだろう」
「肯定します、魔術師どの」
かたりかたりと硬い音を立ててアイシィが頷く。それ以上何も言わず、じっとガドッカを見ている。彼は動けず機械音を唸らせて、腹の奥のタービンを無意味にぐるぐると回し続けている。余熱が周囲をゆらゆらと揺らした。
それにはあっと息を吐き、サブアが嫌そうに口を開く。
「上にある大地はな、元々は乳歯のようなものなんだろう。世界構築が落ち着く間抑えるための。要は保護材だ」
「かさぶた、みたいなものだった?」
「まあ、それでいい。そのかさぶたが剥がれた時のために、あの鉄の船もあったのだろう」
アイシィがかたりと陶器めいた艶やかな口を開いた。暗い闇に反響せず、
「神々の約定です。辺境にはこのような土地が多くあります。世界の外、混沌となったものどもに対抗するための楔としての砦が必要でした。そして移住を前提の保護区であり、その役割を終えています」
「留まざるべきものが、残り続ければ流れは淀む。淀んだ流れの内、すなわち迷宮に近い場所が生まれた。迷宮化したというべきか。いや本来、迷宮というのはこの淀みを基にしたものではある……」
別方向に沈みそうなサブアを“悪魔”の少女が静かに袖を引く。サブアはランタンを握って瞑目してから、言葉をもう一度続けた。
「迷宮の生き物は狂う、それは知っているだろう?」
「知っているわ、例外も含めてね」
“鎧の迷宮”にいたというマンティコアの老人を思い出す。闇と怪物の中にありながら自我を保ち、孤独に耐えたという賢者であったらしい。そのために迷宮の主によって、石化させられていたそうだが。
「今は例外の話はいい。迷宮の者どもは混沌の淀みから出てきたばかりだったからだ。世界の外にあったという呪術が楔として張り付いてしまっている。この地が淀む限り、本来、支配種族となるべきだった吸血鬼たちは狂い続ける。彼らはまだ世界に適応していない。呪術的にこの地に括られているからな」
一息に言い切ると、腰袋から葉を一枚取り出し噛み始めた。あとは任せたとばかり、彼は顔を伏せてうずくまる。攻めるわけにはいかないが、大分投げやりだ。らしくもない。それほど疲れが溜まっているのだろう。
“悪魔”の少女がその横にすっと付いた。包帯をほどいて、血を流そうとするが、それをサブアの手がぐいっと止めた。少女は情けなさそうな、悲しそうにも見える顔で優しくその手を包帯を巻いた左手で撫でて離す。そして、彼に静かに寄り添うにとどまった。
それをぼうっとリオナは見ていた。ぐるぐると回る感情に思考が追い付かないのを静かに合わせて、落ち着かせる。
「理解はなされましたか」
その努力を断ち切るようにアイシィが割り込む。
「我らが母艦、ザオウは彼らを裁くことはのぞんでおりませんでした。神々の使者たちとともに自身の使徒を幾人か送りました。ですが、彼らを討ち殺し、神々の怒りを買いました。もはや猶予はありません。裁きなければ他のザオウの領域も弾劾に晒されるかもしれません。そも盟約を破るとなれば、ザオウの存在すら危ういでしょう」
「なんという、なんという」
ガドッカは虚ろに声を上げた。いつも激しく明滅して、子供のようにきょろきょろと動いていたはずの瞳は、生気もなくただの硝子玉にしか見えなくなっている。何もしない、出来ない無気力な状態、それは彼にはよくない。
首を振り、リオナは立ちあがった。
「ここに居続けるのは危ないわ。何をするにしろ、それは事実よね」
「肯定します、埋め火の方」
かたかたと動き、不器用に頷く。しかし、彼女に悪意がないのが、なんとも困るところだった。リオナは心中でぼやくと、自分の顔を思い切り叩いた。強すぎた。
「いったッ! ああもうッ!」
周りを見れば肉体か精神、あるいは両方から悲鳴を上げている仲間しかいない。自分が踏ん張る時だと、鼻息を吹き上げた。
長距離の移動はまだできない。それでもここで野営はあり得ない。迷宮のど真ん中で寝るようなものだ。
「ねえ、アイシィさん、どこか安全地帯とかないかしら?」
「わたくしの、“とうかぽっど”などで良ければ」
「分かった、まずはそこ目標にしましょう。とりあえず一休みしててね」
そういって無理矢理に鋼の体を座らせた。その横にいるへたりこむ仲間を見ながら、リオナは静かに待つことにした。彼らが立ち上がる力を戻す時間、それを邪魔させないために深い闇を一人で見つめた。
天にチラチラと輝く硝子の監視眼球が、リオナの忍耐を試した。それを何度も眉間を揉んで抑え込む。まったく、こういうことに向いてないのは分かっているだろうに。初めて、ザオウを恨みながら、リオナは蒸気のような白い息を長く長く吐き出していった。




