文楽の燈火 / “賢者の瞳”リオナ
闇に忌まわしき群れが蠢いている。不死の吸血鬼どもは笑いを上げながらゆったりと近づいてきた。
その中からずいっと前に出たのは瞳なき者だった。それは人間より二回りは大きい、ぬらりとした赤い肉塊だった。ただ一つ、人の腕ほどある舌から長々と針が伸びていた。羊膜のような外皮が半ば腐りかけながらも、不自然に脈打ち、破けた血管から汚れきった粘性の血を垂らしている。四肢はなく芋虫のようなまま、のたうって這う。
見たことのある、吸血鬼だ。かつて迷宮から這い出た怪物、瞬く間に冒険者の血を内臓ごと吸いつくした記憶が、チリチリとリオナの恐怖をわずかに煽る。
舌をちらりちらりと伸ばし、吸血針を揺らし続けている。腐乱した遺体の臭いが喉の奥を刺激する。
奮い立たせるように、魔力を吹き上げて溶岩の熱を強める。魔力の幕が刺激されて、全身に回った熱が赤々と輝いていく。両手で刃を突き出すように構え直す。
「我はアルディフのリオナッ! “埋め火の王”ガルケゼラの盟約者である! 死人どもめ、塵と為すがいいッ!」
魔力を張った声で名乗りを上げて周囲を煌々と輝かせる。自己を恐怖や邪視から守るための宣誓でもあった。臆すれば、魔力というのは霧散してしまう。今のガドッカがそうであるように。
熱によって周囲が赤熱し、肉の塊はぶるりと震えた。嘲けりなのか、驚きか。理解はできないが、それが反射的に針の舌を素早く伸ばした。風切り音が鳴る。鞭のように動く吸血鬼の舌、リオナは目を見開くとその動きを緑の瞳にしっかりと写した。そしてわずかに足を引いて、斧の刃を胸の前に置いた。
この怪物は良く知っている。舌を伸ばす吸血鬼は心臓を必ず狙う。彼らにとって血の詰まった心臓こそが生命の根源であるからだ。
「かぁぁぁぁッ!」
気合を入れて太い針ごと舌を断ち切り、焼き切る。そのまま、ずいっと肉の塊へと溶岩の斧を突き出す。腐臭ごと焼き切り、青の混じった炎を巻き上げた。長柄を焼きごてのように押しつけた。
「み゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッ」
声を上げる器官もないのに、肉塊が全身を震わせて悲鳴と血が吹き上げる。その流血から、うぞりと肉がうごめいていくつもの舌が生えてくるのが見えた。そのまま、ぱっと手を放す。魔術が武器の形を失い、どろりと溶けて肉の吸血鬼と流れた血、その全身をまんべんなく焼き切る。
「盟約を示せ、埋め火の王ガルケゼラッ! 日輪に焦がれし地を這う熱よッ! 心臓をッ!」
肉の塊の吸血鬼を打ち倒して、即座に息も荒く叫ぶ。焼き祓った灰から再び斧を引きだした。出来はよくない。短い柄の手斧でしかない。力も弱く、刃の端から黒い塊が、ぼろりぼろりと落ちていく。
その弱った様を強い視線が刺してきた。冷たさが背筋に這う。高熱の武器を握っているはずなのに、体温がぐっと下がったような寒気が走った。ただ体力が削られているせいだけではない。
これは、呪詛だ。
ぎっと吸血鬼たちをねめつける。答えるようにくごもった笑いが沸き上がった。
笑いの主は吸血鬼の群衆を無造作に踏み越えた。ひとつ剛毛を生やした巨躯がぬっとリオナの前に立つ。
粗末な屍衣がびらびらと地下の風に踊った。半裸の巨躯、その下には皮膚を裂いて盛り上がる筋肉が在り、その剛力に見合った大斧を握りしめている。
屍鬼は獣のような歯をゆったりと、がちりがちりと咬み合わせた。吐息は黒々として靄と変わり、瘴気とも言うべき呪いを巻き散らしている。吐息だけではない。その視線も邪視、魔眼の類なのだろう。ぢりっぢりっとリオナのまとった熱の幕が赤々と抵抗する。その度に瘴気が飛び散り、呪いが撒き散らされていく。
獣のような唸りが静かに漏れたと思うと、トロールの遺骸を踏みつけて跳ねた。身体能力でごり押しするつもりだろうか。だが、読める。リオナは剛腕の振り下ろしをわずかに跳び退って避ける。地面を斧が砕き粉塵と破片が舞う。魔術師を保護する熱の結界が火花を散らして、硬く鋭い音を立てた。
塵はリオナの瞳には障害にはならない。むしろよく見開き、眼球を緑色に強く輝かせる。屍鬼の巨躯が左手に回り込もうと数歩、跳ねた。それが写り込むと同時に、低く踏み込み、溶岩の手斧を切り上げた。通常の斧では十分な威力にならないが、屍鬼の腹に赤々とした線が一つ引かれた。
それだけで十分だ。
痛打にはならず、屍鬼は剛腕で掴みかかる。それを転がるように、さらに体を低くしてすり抜ける。斧を大地となった遺骸に突き刺してぐるり横に一転した。
「埋め火よッ!」
短い詞とともに魔力が爆ぜて、熱がごうっと屍鬼から吹き上げられた。吸血鬼に引いた赤々とした線が大地のひび割れのように溶岩をぽたぽたと落としていく。屍鬼は赤々とした溶岩に包まれて染まっていく。
だが、それも低い呻きが漏れたと思うと、火がぼたりぼたりと無理矢理に引き離された。熱は陰り、黒々とした塊が遺骸の上を汚す。
悠然と屍鬼は呪詛の根本となった傷ごと、掌で抉り出し、無造作にその肉を放り捨てた。しぃぃしぃぃと彼は楽しげに笑う。その度に抉った傷が盛り上がり、以前よりつやつやとした皮膚が薄く張られ、それを筋肉がみちりみちりと引き裂いて盛り上がってきた。
これはまずい、かも。
そんな逡巡が戦いの思考のうちに現れて、リオナの足を一歩後ろに退かせた。荒い息を漏らしてながら、瞳の魔力を高める。チラチラと視界の縁に金属色が反射した。武器持ちでも来たのだろうか。
だが、意識を割く余力はない。
「埋め火よ、血潮をッ!」
溶岩の魔力を強くすると足元から熱が噴き上がり、火がちらちらと舞う。収束が甘い。
それでも動く。背筋に走る悪寒に合わせて、今一度、低く踏み込んだ。大斧がごうと額の在った場所に振り下ろされたのを肌で感じながら、さらに、さらに低く獣のように跳ねた。
しかし立ち回りを読んでいた屍鬼の蹴りが眼前に来る。込められた力に筋肉が膨張し、皮膚が裂けて体液が滴っている。
力では押せない。魔力では断ち切れない。地面はトロールの遺骸だ、熱で溶かして沈み込むこともできない。どうする、思考の火がぢりぢりと焼けて、記憶が混濁する。体がぐるりと動き、無意識に左手だけを使って大きく側転していた。兄がしていた猿のような動きの模倣だが、着地まではうまくいかなかった。
遺骸の大地に体を腰から打ち付けた、もがくように立ち上がろうとするが、遅い。ぐっと力を込めた大斧が振り下ろされた。死の帳が落ちるのか、と目を見開いた。何かを思う時間はない。ただ笑う吸血鬼たち、その後ろから冷たい金属の輝きがわずかに見えた。
同時に強い、雷音が響く。
その音に遅れて屍鬼が吹き飛んだ。青く澄んだ輝きの軌跡が見えた。その光の中に深淵のような黒い芯があった。
目の前で悲鳴が響き、屍鬼が弾け飛ぶ。
「なっ」
黒い芯、すなわち錆止めが塗られた鉄槍が獣めいた吸血鬼を突き刺していた。遺骸ごと、深々と縫い留めていた。屍鬼が吠え、力強くもがいた。だが、それも槍の内から黒々とした雷光によって焼き切られて灰と化す。
加護だ。魔力の波動、そして電光の臭い、これは機械神ザオウのものに違いなかった。
「ガドッカさんッ!?」
思わず呼んだ声に答えはない。吸血鬼達が吠えて、鉄槍の根源へと姿勢を向けた。
女の形が立っていた。右手に握った長柄の鉄槍、それが澄んだ電光をまとい、硬い音を立てて彼女を照らしている。纏っている長衣が風で舞い、縫い付けられた銀糸が静かに輝く。備え付きの頭巾を目深にかぶっているが、整った口元は美しい女性のように見えた。
削られたじじっと鳴る。その袖から覗くのはぎちりと金属の腕だ。錆びた蝶番のような音を立てて、投げ槍の構えを取る。
「埋め火の方、こちらへ」
静かな声が響く。人を安堵させるような静かな音色のようだった。それを彼女自身がちゃんと板金鎧めいた音を鳴らしてかき消す。そうして、ぎぎっと鈍い音を出して、踏み出してくる。
「ぢっ」
吸血鬼の一人が狼狽え跳び退った。それに合わせてバラバラと吸血鬼たちは飛び、あるいは走り逃げていく。
ただ一人、騎士らしき風体をした吸血鬼が静かに礼をして去っていく。物理的存在ではなかったようで、ゆったりと闇に溶けるように消えた。
「お久しぶりですね、埋め火の娘さん」
「はあ」
安堵のためかリオナは呆けた声を漏らすしかできない。しばらく不器用に歩き、鈍い義体を必死に動かす女を見ることしか出来なかった。




